2017年01月31日

すみだ北斎美術館に行ってきました!


 2016年11月22日に開館した『すみだ北斎美術館』に行ってきました。
 北斎が90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残したことから、墨田区が葛飾北斎専門の区営美術館をつくってしまった。

 大変な人気らしいと聞いたので、混雑を避けるために平日に行ったのにやはり混んでいました。
 北斎がいかに人気のある芸術家なのかを改めて実感しました。外国人もたくさんいました。

 この美術館は、建物構造がとても奇妙です。訪問した人は、まずそれに驚くのではないでしょうか。

 美術館の外観はこのような形をしています。

Sumida-Hokusai-Art-Museum-S1.jpg


 どこから見ても同じ形です。

Sumida-Hokusai-Art-Museum-S3.jpg

 
奇妙な構造の美術館

 この美術館は、これまでに見たことがないほど奇妙な構造になっています。

 建物は4階建てですが、常設展示が行われているのは4階のフロアーだけ。そこへはエレベーターでしか行くことができません。階段の使用は制限されています。そもそも、階段がどこにあるのか分からない。防災上、問題がありそうです。

 4階が常設展示室と企画展示室、3階が企画展示室になっています。では、2階はというと・・・、何に使われているのか不明です。パンフレットには2階のことは何も書かれていません。図さえありません。

 1階は綜合案内・チケット売り場と売店になっています。しかし、やたらと狭い。これは、建物の1階部分が外とつながった通路で区切られた独立した4つのブロックに分かれているため、このようなおかしなことになっている。

 何がおかしいのか。

 美術館に来た人は、エレベータを使って4階まで行く必要があります。そして、エレベーターで1階まで戻ってくる。これ以外に方法はありません。このため、2基あるエレベーターは常時行ったり来たり。もし、展示室が2階にあるのであれば、エレベータを待つこともなく階段を使って移動できます。使われていない2階、3階を素通りして動いているエレベーター。なんとも無駄なことに電気を使っています。展示室の位置を変えるだけで電気代が半分になります。

 そもそも、階段がどこにあるのかが分からない。パンフレットには2階の図面がないし、1階の階段の位置も不明。火災や地震など防災上、問題がありそうです。たくさんの人で混み合っているので、まず感じたのはそのことでした。怖い構造物だと思いました。美術館は、不特定の人間が出入りするものの消防用設備の設置条件等が厳しい特定防火対象物にはなっていません。だから、よけいに怖いと言えます。

 図がないと理解できないと思いますので、すみだ北斎美術館のパンフレットにある各階フロアー位置図で確認ください。

Brochure-Hokusai-Art-Museum.gif
すみだ北斎美術館パンフレットの各階案内図

 1階の入口のフロアーがとにかく狭い。1階部分のスペースをブロック分けしたため、エントランスがとても狭くなっています。しかも、地下に行くための螺旋階段もあり、エントランスフロアーが余計に狭く感じます。週末など、チケットを購入する人と、エレベーターを待つ人と、エレベーターから降りる人でごった返すのではないでしょうか。

Sumida-Hokusai-Art-Museum-S2.jpg


 すみだ北斎美術館のプレスリリースを見ると、開館記念展「北斎の帰還-幻の絵巻と名品コレクション-」開催期間中(2016年11月22日〜2017年1月15日、会期:45日間)の入館者数は98,673人で、目標としていた入館者数3万人を達成したそうです。それも、目標の3倍の入館者数です。考えただけでも恐ろしい。平均すると1日あたり2,200人くらい。平日ならその半分程度でしょうか。この期間の入館料収入は1億1千4百万円くらいでしょうか。

 でも、管理人が行ったのは平日にもかかわらず混んでいました。常設展示室の中には少なくとも50人くらいはいたと思います。それでも何とかゆっくり見ることができたのですが、この人数が限界だと感じました。週末には行ってはいけない美術館・・です。

 この美術館は、もともと大人数を受け入れるようには設計されていないのでしょう。何しろ、トイレの数がとても少ない。常設展示期間中は、4階にしか行けないのですが、4階にはトイレがありません。使えるトイレがあるのは、1階と地下だけ。1階のトイレは個室が1個だけの小さなもの。地下のトイレは個室が2個で大きいとは言えない。

 この美術館のトイレを使おうと思ってはいけません。チケット売り場で行列、エレベータ待ちで行列、トイレ待ちで行列です。

常設展示

 常設展示は見応えがありました。

 まず、エレベータを降りたホールにある『須佐之男命厄神退治之図(すさのおのみことやくじんたいじのず)』が目を惹きます。

 この絵は、1845年、北斎85歳の時の作品で、幅2.76メートルの肉筆画でした。江戸・向島の牛嶋神社に奉納されましたが、関東大震災で焼失してしまいます。これを残された写真をもとに復元したのが展示されている絵です。2016年11月23日、NHKで放送された『ロスト北斎 The Lost Hokusai「幻の巨大絵に挑む男たち」』でその復元作業が紹介されていたのでご覧になった方も多いのではないでしょうか。

葛飾北斎 須佐之男命厄神退治之図


 常設展示室に入って直ぐ右手には、北斎アトリエの再現模型は圧巻です。北斎とお栄の等身大フィギュアがあります。二体とも少し動きます。本当によくできています。実は、これを見るために美術館を訪れた管理人でした(笑)。

北斎仮宅之図フィギュア


北斎仮宅之図フィギア2


 北斎が84歳の頃、区内の榛馬場に娘の阿栄とともに住んでいました。その様子を門人で浮世絵師の露木為一(つゆき いいつ)が絵(『北斎仮宅之図』)に残しており、それを元に模型で再現しています。北斎の下半身はコタツに入っているのだそうです。

 すばらしい出来栄えです。これには感動しました。

露木為一「北斎仮宅之図」
 露木為一「北斎仮宅之図」

 展示物は、ネットや本でいくらでも見ることができるので、それほどの感動はないのですが、絵や版画の大きさは興味を惹きました。写真では分からないので。

 北斎の肉筆画で感動する作品は『富士越龍図』。この絵は1849年、北斎が亡くなる年に描かれたものです。龍が非常に細部まで描かれています。本物を美術館でみる醍醐味を味わえます。

富士越龍図.jpg


 展示については、すみだ北斎美術館のホームページを見た方が分かります。


posted by ネコ師 at 17:20 | Comment(0) | ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月30日

海洋調査船「第五海洋丸」爆発gif


 前回の記事で書いた海上保安庁の海洋観測船「第五海洋丸」。
 「第五福竜丸」は有名なのに、「第五海洋丸」のことを知っている人は限られているように思います。

 1952年9月23日午前10時15分に東京港を出港した「第五海洋丸」は、64年たった現在でもまだ戻ってきていません。

 管理人は高校の地学の授業でこのことを知りました。「未だに戻らない海上保安庁の船」として。

 ネット上でもこの船のことはあまり書かれていないので、もっと知って欲しいと思いgifアニメを作ってみました。明神礁の大噴火に巻き込まれたとされる「第五海洋丸」。

第五海洋丸explosion.gif


 以前作った『気球を狙撃して大爆発を引き起こすGIFアニメ』の爆発シーンを転用したので、狙撃っぽくなりました。船は第五海洋丸です。

 しんかい6500を使って、鉱物資源探査と海底火山調査という名目で、もう一度探して欲しいものです。このまま忘れ去られてしまうのでは、乗組員31名の方々が浮かばれない気がします。当時、海からは海上保安庁の捜索船が広範な海域を捜索にあたり、空からは米軍機が捜索にあたったそうです。しかし、海の底は未調査のまま。

 カナダでは北極海で172年前に行方不明になったイギリスの軍艦二隻を海中から見つけ出しました。


posted by ネコ師 at 17:19 | Comment(0) | 自作イラスト・GIFアニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月27日

北極海にこつ然と消えた二隻の英国軍艦 フランクリン探検隊の謎を追う


 2017年1月23日放送の『世界まる見え!テレビ特捜部』で、『フランクリン探検隊』失踪のナゾについてやっていました。同番組では、過去にこの謎について誤った報道をして謝罪をおこなったといういわく付きのナゾです。今回は、どうなのでしょうか(笑)。

 「2004年1月に放映された「甦るミイラ伝説」の中で、1845年、フランクリン探検隊がアルミの缶詰に含まれる鉛の大量摂取により死亡した可能性があると放送した。しかし当時アルミ缶は存在しておらず、鉛中毒を引き起こすようなアルミ缶は存在しないことが判明し、翌週のエンディング後にお詫びの放送を行った。」(Wikipedia,「世界まる見え!テレビ特捜部」

 この番組は、過去のニュースを、あたかも最近"判明"したかのように報じる、というイカサマをよくやるのですが、"アルミ缶の鉛?"も、いつものように"判明して"、初めて分かったようです。なかなか笑えるテレビ局ですが、番組としては楽しく見ました。

 この記事では、最新情報を交えて、(イカサマ)番組の中で語られなかったことなども書いていきたいと思います。

フランクリン遠征隊の謎とは

 1845年5月19日、イギリスのテムズ川下流の港グリーンヒザ(Greenhithe)を二隻の軍艦が出港しました。船の名は、エレバス号(HMS Erebus)とテラー号(HMS Terror)。船名の前についている「HMS」とは「英国軍艦: His(or Her) Majesty Ship」の略です。

 この航海の目的は、ヨーロッパとアジアを結ぶカナダ北極諸島を経由した新たな『北西航路(Northwest Passage)』を開拓することでした。

 この遠征隊を指揮したのは、海軍大佐のジョン・フランクリン卿(Sir John Franklin)で、彼の名を取り「フランクリン遠征(Franklin's expedition)」と呼ばれました。しかし、グリーンヒザ港を出帆した二隻の軍艦は、二度とイギリスの港に戻ってくることはなかったのです。129名の乗組員と共にこつ然と消えてしまいました。

 この二隻の軍艦は、1845年7月28日、グリーンランド近くのバフィン湾(Baffin Bay)に停泊行しているところを、近くを通った捕鯨船団に確認されたのを最後に消息を絶ちました。どこに行ってしまったのか。船と乗組員はどうなったのか、なぜ、消息を絶ったのか、など、イギリス、そして、軍艦が失踪した海域を管轄するカナダにとって、長年のナゾでした。170年前に現実に起こったミステリーです!

 ところが、このナゾが解き明かされたのです!

北西航路と北極海航路とは

 ヨーロッパからアジアに北極海を経由して渡るルートとして、北西航路(Northwest Passage)と北極海航路の二つがあります。前者は、北アメリカ大陸の北方を通って大西洋と太平洋を結ぶ航路であり、フランクリン遠征が開拓しようとしたルートでした。これに対し、北極海航路は、ユーラシア大陸北方(ロシア・シベリア沖)の北極海を通って大西洋側と太平洋側を結ぶ航路です。

 この二つのルートは、一年のほとんどの期間氷に閉ざされるため、現実には航行するのは極めて困難でした。19世紀に航行に成功した例は数えるほどしかありません。しかし、現在では、地球温暖化の影響で、北氷洋の氷が溶け、夏の短い期間だけ航行することができるようです。

 下の画像の緑色のラインが、フランクリン卿が開拓しようとした航路になります。

 イギリス政府はそれまでにも数回の北極地域の探査を陸と海から行っており、残された空白部分を埋めるためのルートの確認がフランクリン隊の使命でした。カナダは1763年にイギリス領になっており、イギリス政府にとってカナダ北方の国境確定のためにも極地探検は重要でした。

 適当な画像がないので作りました。グリーンランドの下側が、フランクリン隊が最後に確認されたバフィン湾です。

Arctic route.jpg
Source: Google Earthをベースに管理人が作成

二隻の軍艦はどのような船だったのか

 この探検航海に使われた二隻の軍艦はどんなものだったのか。まず、これから見ていきましょう。

erebus-terror01.jpg


 二隻とも、艦首に装備した臼砲を主兵装とする三本のマストを備えた木造帆走蒸気軍艦(臼砲艦)でした。1813年に進水したテラー号は、全長31.09m、貨物の積載量が325トン(B.O.M)、総乗員数67人。もう一隻のエレバス号は、1826年に進水、全長32m、貨物の積載量が372トン(B.O.M)、総乗員数はテラー号と同じ67人でした。[1]

 日本の遠洋まぐろ漁船は、全長47m〜50m、漁獲量180〜300t、航海日数300〜700日、乗組員数は25〜30人なので、現代の遠洋まぐろ漁船よりも一回り小さな戦艦だったことが分かります。

 この二隻の軍艦は、南極探査船として改造され、船体は鉄板で外装が施されました。南極探査で大きな成果を上げた両船は、北氷洋に投入されることになります。

 旗艦エレバス号を率いるのはフランクリン卿、そして、僚船テラー号はフランシス・クロージャー(Francis Crozier)が船長を務めました。

 船は氷に閉じこめられ、身動きができない状態の中で、1847年6月に探検隊の指揮官フランクリン卿が死亡し、その後、テラー号船長のクロージャーが指揮をとることになります。そして、悲劇の死の行軍により、遠征隊員129人全員が死亡するという悲惨な結末を迎えることになります。

 これは、クロージャー船長の判断ミスだったのでしょうか?

 順を追って、そこに至る経緯を見ていきましょう。

 後で出てきますが、フランクリン探検隊が出発した年から8年後に、アメリカ合衆国のペリー提督に率いられた黒船船団が浦賀に現れます。この時の蒸気船は3隻でした。すべて帆船としても航行可能な機帆船です。これらの黒船と比べても、エルバス号とテラー号がいかに小さな船だったのかが分かります。

所属船名進水年全長全幅総トン数(英トン)総乗員
英国エレバス号182632m8.84m31567
英国テラー号181331.08m8.23m32567
米国ポータハイン号185077.32m14m2415-
米国サスケハナ号185078.3m13.7m2450-
米国ミシシッピ号184270m12m3230-


食料・石炭ストックのナゾ

 エレバス号とテラー号には、約3年分の保存食・缶詰のストックがあったようです。でも、これって変だと思いませんか?

 上で、わざわざ二隻の船の仕様を調べた理由がここにあります。
 3年分の食料って、狭い船の中に、どうやって保管するんだろう? その重さは? 容積は? 船に乗せられる大きさなの?

 現地補給できるのは、水くらい。氷山を溶かせば飲料水を確保できます。これは大洋を航海する探査船とは違い、局地探査船に付与されたメリットです。

 しかし、食料の問題は深刻です。
 大洋を航海する船であれば、魚を釣ったり、近くの島に寄港して食糧を補給することも可能です。しかし、局地探査では、氷が厚すぎて、魚を釣ることは不可能でしょう。他の食料として、野生動物を狩る方法も考えられますが、もし狩りができたとしても、隊員129名全員の胃袋を満たすことなどできません。やはり、持参した保存食を食べるしかなさそうです。

 船に積み込んだ食料は分かっているようです。

 「この旅は約3年続くと予想されていたため、船には136,000ポンド以上の小麦粉、3,684ガロンの高品質のアルコール、そして33,000ポンドの缶詰の肉、スープと野菜を積み込んだ」(Wikipedia)

 これをキログラムに直すと、61トン以上の小麦粉、16,578リットルの高品質のアルコール、そして15トンの缶詰の肉、スープと野菜を積み込んだ」ということになります。

 缶詰を1食あたり1缶食べるとすると、129名の乗組員のために必要な缶詰の数は、3年間で42万個となります。Wikipediaによれば、8,000個の缶詰が大急ぎで作られたと書かれています。もし、積み込んだ缶詰の総数量が8,000缶であったとすれば、一人当たり62缶になります。

 1846年1月1日、テラー号の乗員に最初の犠牲者が出ます。John Torringtonという名の船員で、当時20歳の若者でした。彼の遺体は、ビーチー島(Beechey Island)東海岸に埋葬されます。それから3日後の1月4日、今度はエレバス号から二人目の犠牲者が出ました。John Hartnell、25歳です。さらに3ヶ月後の4月3日、エレバス号で三人目の犠牲者William Braineが亡くなりました。32歳でした。彼ら三人の遺体はビーチー島に埋葬されます。

Franklins-3Crews.jpg
Image Credit: Kristina Gehrmann illustration

 1851年に、彼らの墓地が捜索隊により発見されました。その後、墓地のことは忘れられてしまいますが、1976年に再発見されます。1984年に発掘調査が行われ、完全に冷凍保存された三人のミイラ化した遺体が見つかりました。検死解剖の結果、三人の遺体からはかなり濃度の鉛が検出されました。このため、彼らの直接的な死因は鉛中毒であると判定されました。

 この鉛は、缶詰の密閉に使われたハンダから溶出したものと考えられています。
 ビーチー島で亡くなった三人は皆若者ばかりです。しかも、イギリスを出てから227 日目で最初の犠牲者が出ています。保存食である缶詰に手を付けるのは他の食料がなくなってからと考えられるので、缶詰を食べて鉛中毒に罹り死亡するには早すぎるように思います。


 もう一つ気がかりなのが燃料です。二隻の船は機帆船で、帆を使ったり蒸気エンジンを使って進むこともできるハイブリッドタイプの軍艦です。当時の蒸気エンジン(レシプロエンジン)は燃焼効率が悪く、大量の石炭を必要としました。

 黒船来航で、ペリー提督率いる蒸気船3隻を含む船団が浦賀に姿を現したのは1853年のこと。フランクリン探検隊が北極航路探査に出発したのが1845年なので、黒船来航よりも8年も前のことになります。1846年には皇女和宮が誕生します。日本ではそんな時代でした。

 そもそもペリーが日本に開港を迫った理由の一つが蒸気船の燃料補給でした。石炭の確保です。

 浦賀に来航したペリーの船団のうち、蒸気船は三隻でした。ペリーが乗った旗艦ポータハイン号、ペリーがアメリカの港を出港したときに乗っていたサスケハナ号、そして、ミシシッピ号。これらはいずれも外輪を持った蒸気船でした。しかし、当時の蒸気船の運航には、大量の石炭が必要でした。たとえば、ミシシッピ号には一週間分の石炭しか積むことができませんでした。このため、蒸気の力だけで太平洋を渡ることはできず、途中に補給地が必要でした。

 話をフランクリン探検隊に戻しましょう。エレバス号とテラー号はどのくらいの石炭を積んでいたのでしょうか。ペリーの時代の蒸気船よりも20〜30年前の船です。英国海軍がスクリュープロペラを採用するのは1846年以降なので、エレバス号とテラー号の推進装置がスクリューでないことは確かです。蒸気機関を使って高速で航行できたようですが、その推進装置が何だったのかは分かりません。南氷洋や北氷洋を外輪船が航行できるとは思えないし、・・・。

 そう思って調べていたら、意外な落とし穴が。英国海軍のスクリュー推進装置を持つ艦船リストの中にエレバス号とテラー号が載っていました。[3]  どうやら、この二隻は、当初帆船として建造されたものの、フランクリン探検隊出発の前年あたりに、スクリュー式蒸気船に改造されたようです。

 ちなみに、エレバス号とテラー号が積むことができた石炭は、わずか12日間分でした。このため、石炭は暖房用に用いられたのだと思います。しかし、量が足りない気がします。

 この探検隊の失敗の要因は、とても小さな船二隻に129人もの乗組員が乗船していたことで、食料と燃料が枯渇したことにあるのではないでしょうか。大型蒸気船を造り上げた設計者ブルネルは、「船に積める燃料などの容積は船の長さの3乗に比例し、必要な燃料は船の2乗に比例する」という理論を持っていました。つまり、蒸気機関は小さな船ほどは効率が悪かったのです。

 この理論で計算すると、エレバス号に積める石炭の量は92トン程度だったのではないかと思います。[11] そもそもこの船に積める荷物の重量は315トンに過ぎません。

 3年分の食料を準備し、当時としては優れた装備を備えた最新鋭の軍艦。そんなイメージで見ていたのですが、実態は、かなり違っていたように思います。蒸気船としては非効率な小型船であったため、大量の石炭を積んでも12日しか蒸気機関を使えなかったこと、帆船操作のために67名ものクルーを乗船させる必要があったこと、そのために必要な食料は、現実には3年分は積み込めなかったように思います。

 このため、両船は、多量の石炭と食料を積み込むために、大砲類はすべて取り外した測量船だったのではないでしょうか。

 これらのことから、管理人は、このミッションの失敗は、船の大きさに原因があったのではないかと考えています。

消えた軍艦の捜索

 1848年になって、行方不明になった二隻の軍艦の捜索が始まります。しかし、二隻の軍艦の足取りはようとして不明でした。

 1854年、北極探検家ジョン・レー(John Rae)が驚くべき情報をもたらしました。

 彼は、現地の先住民イヌイットと出会い、イヌイットがキング・ウィリアム島で見つけたとされるフランクリン隊が残した遺物を取引で入手することに成功しました。それらの大部分はボタンや用具類でした。そのとき、乗組員同士で人食いが行われたという話をイヌイットから聞きました。イヌイットたちがその様に考えた根拠については不明です。

 フランクリン探検隊は、それまでに北極に送り出された探検隊と比べ、当時としては最高レベルの装備を持った調査隊でした。それ故、フランクリン探検隊の消失事故は、イギリス政府にとって信じられないものでした。

 捜索を通じて、次第にフランクリン探検隊の足取りが判明します。

 1845年、最初の冬、3人の乗組員が死に、ランカスター・サウンドのビーチー島(Beechey Island in Lancaster Sound)に埋葬されました。

 1846年夏に、彼らはキング・ウィリアム島(King William Island)に向け南下しました。そこで、彼らは氷の中で足止めされることとなります。

 1859年の捜索隊フランシス・レオポルド・マックリントックとW・ホブソン(Francis Leopold McClintock and William Hobson)は、この島に築かれた石塚の中から、乗組員が残したメモを発見しました。このメモは海軍の標準的な記録でした。しかし、そのメモには、最初の標準海軍記録が書かれてから9ヵ月後に書かれた本文を修正する走り書きが残されていました。この修正文には、1848年4月22日に船の放棄することがかかれ、そして、非常に短い文章でジョン・フランクリン卿が死亡したこと、23人のクルーも死亡したことが書かれていました。この短いメモ書きは、しばしば、「最後の記録」として引用されますが、残念なことに、その時発生していた最悪なこととは何だったのかは書かれていません。また、船を放棄した場所の座標が書かれていました。「北緯69度37分42秒、西経98度41分」です。この座標をGoogle Mapで表示するとキング・ウィリアム島の北西の突端あたりになり、どの収集でもこの位置が船の放棄位置として示されています。

 1848年のイギリス海軍の座標がGoogele Mapで使えるのですから、さすがはイギリスという気がします。1884年に開催された第1回国際子午線会議(ワシントン)で、多くの海図を出版していたイギリス案が認められ、ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が本初子午線に決められたことに起因しています。

 残された乗組員が船を捨てたのは、ロンドンの近くのグリーンヒザ港を出港してから1069日目(2年11ヶ月3日)のことでした。船を捨てた理由は明らかです。食料が尽きたのです。夏まで待つことができなかったのです。

franklin-Root-map1.jpg
   Image Credit: Canadian Geografic

彼らは船を放棄し、どこへ向かったのか

 残されたメモには、カナダ本土の"Back River"を目指すと書かれているようです。我々が推測できる唯一のことは、残されたクルーたちが船を放棄し、ハドソン湾会社(Hudson's Bay Company)の前哨基地(outpost)を目指し南に向かっただろうということです。

 ハドソン湾会社は、毛皮交易のため1670年に設立された英国の国策会社で、良質な毛皮を求め現カナダ北部に手広く展開していたようです。クルーたちは、闇雲に歩き始めたのではなく、ハドソン湾会社の前哨基地"Back River"を目指したのだろうと考えられているようです。

 "Back River"の位置は、軍艦を放棄した場所から直線距離で340kmです。実際の距離は、Google Earthで計測すると410km位になりそうです。
 
 下の画像で黄色のラインは、残された隊員たちが彷徨したルートです。このルートに沿って遺骨が散らばっていました。黄色のラインの最後の部分で、最後の隊員が息絶えます。青のラインは、最後の隊員が歩めなかった部分です。

 黄色のラインを見ると、海岸沿いに歩いていることが分かります。海の部分は平坦な氷で覆われていたのではなく、かなりの高低差があったことから、比較的平坦な海岸沿いのルートをとったことが分かります。

 それにしても、距離があり過ぎ。まさに死の彷徨です。

Wandering-of-death.gif
Image: Google Earthをベースに作成

 南に向け出発した彼らは、この前哨基地にたどり着くことはありませんでした。数年後、地元のイヌイットと捜索隊によってキング・ウィリアム島の岸に沿って散らばる隊員たちの遺骨が発見されました。

 最近の研究で、これらの遺骨には人肉食いが起こったかも知れないことを示すナイフの跡が見つかっています。狩猟民族で、動物解体の専門家でもあるイヌイットの考察が正しかったことが証明された形になったようです。

ジョン・フランクリン卿の遺体はどこにあるのか

 当初、ジョン・フランクリン卿の遺体はエレブス号の中ではないかと考えられました。船を捨てるほどの逼迫した状況の中で、お墓を造ったとは考えにくかったのです。つまり、エレブス号全体がフランクリン卿のお墓ではないのか。

 キング・ウィリアム島の石塚に残されるメモは、彼が1847年6月11日に死んだという記述から始まります。そには、彼の遺体がどこに埋葬されるかについては書かれていなかったので、彼の遺骸はそのまま船に残されたのではないかと考えられました。しかし、それはあり得るのでしょうか。

 1869年に捜索者C・F・ホール(Charles Francis Hall)に対するインタビューにおいて、彼は次のように語りました。

 イヌイットのハンターたちは、金属の道具を探すため遺棄された船の中に入りました。そこで、一人の巨漢の死人が船の中に残されているのを見つけたと話しました。

 それは、J・フランクリン卿の遺骸だったのでしょうか。

消えた二隻の軍艦がついに発見される!

 1848年4月に放棄された二隻の軍艦はその後どうなったのか。イギリス政府とカナダ政府にとって大きなナゾとして残りました。この船を捜索している理由のひとつは、フランクリン探検隊が全滅した理由が船の中に残されているのではないか、と考えたからです。

 本格的な探索が行われた結果、2014年9月2日に、深さ12mの海底からエルバス号が発見されました。
 そして、昨年、2016年9月12日に、The Arctic Research Foundationの調査チームが、深さ24mの海底でテラー号を発見しました。

 二隻の軍艦が見つかった位置を地名で書いても誰も分かりません。現地の詳細な地図が入手できないので、一般の人にとって、地名で書かれても何の役にも立ちません。そこで、沈没船の位置図を作ってみました。クリックすると拡大できます。

wrecked-ships-location01.jpg
 Image: なんでも保管庫

 エレバス号もテラー号も放棄された場所とは全く違うところに沈んでいました。これでは見つからないわけです。

 昨年見つかったテラー号は、ほぼ原形を留めており、ほとんどの窓にはガラスが残っており、圧搾空気を送り込めば浮上するのではないかと思えるほどの保存状態のようです。調査は始まったばかりで、情報はほとんどありません。今後の調査の進展が楽しみです。

wheel01.gif
      発見されたテラー号の操舵室

 エルバス号とテラー号を発見した"Arctic Research Foundation"は2012年に設立された民間の非営利団体ですが、ほとんど情報を発信していない。HPを見ると、トップページだけしかなく、まるで詐欺師グループのHPのような印象を受けます。どうも、いろいろ利権が絡む事案のようです。CNNの報道もとても中途半端で、まるで報道規制でもあるかのように基本情報さえ伝えない。「世界丸見え・・」でも中途半端な伝え方でした。この"Arctic Research Foundation"はちょっとうさんくさい団体なのかも知れません。このため、この組織名をあえて日本語訳していません。今回の記事を執筆していて、かなり勉強になったのですが、いまいち後味の良くない記事になってしまいました。

 今回はイギリス艦船の失踪にまつわる記事でしたが、日本でも、今から64年前に調査に出たまま、未だに戻ってきていない船があります。海上保安庁の海洋観測船「第五海洋丸」です。

 この船は、1952年9月24日、明神礁の噴火を観測中に大爆発に巻き込まれたと考えられていますが、真相は未だに分かっていません。醤油樽、木箱、ブイ、船体の一部が発見されたので沈没したのは間違いありません。

 なぜ、爆発に巻き込まれたのかがナゾとして残っています。第五海洋丸は噴火している明神礁から離れ、一定距離を確保していたはずです。

 観測していた場所が、ベヨネーズ列岩と明神礁との中間地点で、観測中にその真下で発生した別の海底噴火の直撃を受けたとする説もあるようです。乗組員31名は全員死亡とされています。

 『明神礁に消えた"第五海洋丸"のなぞ』が解明される日が来ると良いのですが。

【出典】
1. B.O.M:ビルダーズ・オールド・メジャメント( Builder's Old Measurement)。イギリスで1720年から1849年まで使用されていた全長と全幅から船の積載量を計算する推定法である。
2. Wikipedia, "Franklin's lost expedition"
3. Wikipedia, "HMS Terror (1813)"
4. Wikipedia, "HMS Erebus (1826)"
5. Wikipedia, "Francis Crozier"
6. "OTTAWA CITIZEN, Has second ship in Franklin Expedition been found?", September 12, 2016
7. CNN, "HMS Terror: Franklin expedition 'ghost ship' found on Arctic sea bed",September 15, 2016
8.‘PERFORMANCE OF SCREW STEAM VESSELS IN HER MAJESTY'S NAVY., Table II.',“A treatise on the screw propeller: with various suggestions of improvement”, John Bourne, 1852
9. 日本製缶協会HP
10. http://www.rom.on.ca/en/blog/the-ongoing-mystery-of-the-franklin-expedition
11. 1837年にロンドンで建造された蒸気船シリウス号(SS Sirius (1837))は、全長54.4m、幅7.8m、乗客40名、乗組員36名という仕様で、450トンの石炭を積み込んだという記録があります。これを元にエレバス号の石炭積み込み可能量を算出すると、92トン程度であったと考えられます。


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2017年01月25日

凍った道・泥んこ道もへっちゃら!『滑止め付き簡易靴カバー』の作り方


 朝起きたら道路はアイスバーン状態で、普通の靴では怖くて歩けない。いつも、この坂のこの場所は日陰なので凍り付くんだよなぁ。転びそうで怖い。でも、凍っているのはここだけ。午後には氷は溶けてしまうので、雪ぐつは使いたくないけれど、普通の靴で通るといつも転びそうで怖い思いをする。

 受験シーズンは滑って転びたくない。それが受験生の気持ちでしょう。

 成人式や発表会、お見合いなどのために着た晴れ着なのに、外はあいにくの悪天候。電車や車・バスを降りてから会場までのほんの僅かの距離をどうやって移動したらよいか悩んでしまう。 和服に長靴というわけにもいかない。"その長靴、脱いだらどうすんのよ! 長靴持って帰宅ってイヤ!"。 雨の中をそのまま歩いたのでは、草履が汚れ、足袋は泥だらけで、この汚れは落ちないから、もう捨てるしかない。

snowing01.gif


 上の画像で、和服の女性が降り始めた雪の中を歩いています。家に着いたら、草履と足袋は泥だらけ。家に帰るのならまだ良いのですが、これから目的地に向かうのであれば、この光景は優雅とはいえず、"悲惨"としか思えなくなります。

 先日の成人式は大荒れの天気でした。この時期、雪やみぞれといった悪天候になることもしばしば。せっかく和服で着飾ったのに足下がオシャレじゃない。成人式会場までは車で行って、車から降りて会場までのほんの少しの距離をどうやって歩くか、電車で行って駅から会場までどうやって行くかなど、悩んでいる方もかなりいるのではないかと思います。

 今は雨だけど、天気予報では午後からは晴れるらしい。長靴で出かけると、帰りが困る。歩くのは、ほんのちょっとの距離だけど、それでも普通の靴では雨でびしょ濡れになる。困った!

 ブランドものの高価な靴なので、急な雨などで汚してしまうのは絶対に避けたい!

 こんなことってありませんか。特に女性の方にこのような悩みが多いのではないでしょうか。

 そんな時は、靴や草履にカバーを装着し、用が済んだら取り外して、そのままごみ箱へ。こんなのがあると良いのですが。

 さっと取り付けて、さっと取り外す。普段、バッグの中に持っていてもかさばらず、小型で超軽量。しかも、スマートでエレガント!こんなグッズが欲しい!

 そこで、100均で買った材料を使って作ってみました。製作時間はわずか5分。材料費は、一足分で40円くらいと激安グッズ。1足分カバンの中に携帯していると安心です。

悪天候でもへっちゃら! 簡易靴カバーの作り方

【材料】(すべて100均で入手可能)
  • フリーザーパック(マチ付。300mm x 160mm x 45mm)
  • 滑り止めマット 
  • 超強力アクリルフォーム透明両面テープ


パーツの写真.png

 写真の滑り止めマットは家にあったものを使いました。それ以外は「ダイソー」で入手。

 使う材料はたったこれだけです。

悪天候時に役立つ靴カバー



【作り方】
  • フリーザーバッグに切り込みを入れます(寸法は下図参照。以下同じ)。切り込みがこれ以上広がらないように、切り込みの両端はパンチで丸く穴を開けます(穴は無くてもよいのですが、歩く距離が長いと裂ける恐れがあるので必要かも)。
  • 滑り止めマットを下図の寸法で切ります。
  • 滑り止めマットの両端をフリーザーバッグの外側から切り込みに差し込みます。
  • ここで、フリーザーバッグの中に靴を入れ、滑り止めマットがたるまないように、フリーザーバッグの中に引き込みます。次に、滑り止めマットの一方の端を折りたたみ、そこにカッターで3cmほどの切り込みを入れ、その中にもう一方の端を通し、軽く引っ張って固定します。折りたたむのは、二重にして、強度を出すためです。
  • 靴の底の部分で、フリーザーバッグと滑り止めマットを両面テープで固定します。固定する箇所はつま先側です。フリーザーバッグと滑り止めマットが離れると歩いていて引っかかる恐れがあるので、つま先側だけ固定しておきます。
  • 袋から靴を取り出し、袋を携帯用に小さく折りたたんで完成です。
  • 本来は、100均の粗悪なフリーザーバックではなく、旭化成ホームプロダクツ製のジップロックの方が丈夫です。厚さは同じ0.06mm、原料樹脂も同じポリエチレンなのに品質は全く違います。しかし、ジップロックの大きなサイズはないようです。


パーツの絵.png


 完成品の写真がこちら。

 滑り止めマットが袋の切り込みから中に入っています。袋の文字が書いてある面を内側(土踏まず側)にします。その方が目立たないので。

悪天候対策靴カバーの作製1


 上から見た写真です。滑り止めマットは、折りたたんで3cmほど切り込みを入れた穴に、もう一方の端を差し込んでだだけで固定できます。何しろ"滑り止め"なので一度固定すると滅多なことでは緩みません。

悪天候対策靴カバーの作製2


 靴底の部分です。靴のつま先側の袋とマットを両面テープで固定しています。これを固定しないと歩きにくいと思います。踵側は基本的には不要です。このグッズは使い捨てなので、余計なことはしません。

悪天候対策靴カバーの作製3


製作・利用にあたっての留意事項

  • 完全防水なので、少し深めの雪やぐちゃぐちゃに水を含んだ雪の部分、ツルツルの氷の部分がある路面、ぬかるんだ道などで威力を発揮します! ただし、このグッズは長距離の歩行には適していません。
  • ハイヒールの場合、底に穴が開く恐れがあるので、ヒールがあたる部分にテープを貼って補強した方が良いかも。歩く距離にもよりますが。
  • アイスバーンでの滑り止めの効果については未検証です(今日作ったばかりなので)。
  • 滑り止めは踵部分にはないので、踵をついたとき滑ることも想定して使用すること。
  • 本グッズの使用により発生した如何なる損害に対して、管理人は一切の責任を負いません。自己責任でお使いください。
  • マチ付きフリーザーバッグの大きなサイズのものはほとんど見かけません。"24cm、EEEE"というサイズの靴が長さ30cmのマチ付きフリーザーバッグにぎりぎり入ります。27cmの靴であれば、フリーザーバッグのサイズは35〜40cm程度は必要かと思います。市販されていないかも。
  • このグッズは使い捨てタイプです。一度使ったら、ごみ箱へ。何しろ安く、いくらでも作れるので、ケチケチせずに1回きりで捨てましょう。そんなに使うものでもないし。でも、持っていればとても安心。

 最後に、フリーザーバックに「空気を抜いてしっかり密閉!」「日付け」などの文字が書かれている面は内側(土踏まず側)にすると目立ちません。さらにエレガントにするには、100均の花柄シールを全体に散りばめて貼るのがお奨めです! 袋のつま先の上の部分を靴に沿って少し内側に折りたたみ、セロテープなどで固定すると、より購入したグッズっぽくなります。

 今回のグッズは、本当に役立つグッズではないかと、管理人は密かに自己満足しています。
 「それ、どこで買ったの?」と周りの人から聞かれること請け合いです(笑)。

 グッズの製作時間は5分もあればできますが、記事を書くのに、延べ3日間、累計5時間もかかりました(涙)。


posted by ネコ師 at 04:15 | Comment(0) | 役立つ知識(生活編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月21日

テレビでやっていたフェイク牡蠣フライとフェイク松茸ご飯を作ってみた


 2017年1月19日(木)放送のTBS「人間観察バラエティ モニタリング」で、「エリンギを使ったフェイク松茸ご飯」と「マイタケを使ったフェイク・カキフライ」をやっていました。安い材料で高級食材の味を再現! 

 ほとんどの人が本物と勘違いするほどの味らしい。皆が欺されるなんて、どんだけ美味しいんだ!?
 そこで、早速試して見ました。テレビに欺されるのは嫌なので。

 まず、フェイク牡蠣フライ。
 食べてみたら、かなり美味しい。本当に美味しいと思います。家族も牡蠣フライと同じようだと大好評でした。管理人は、本物の牡蠣フライではないことに直ぐに気がつきますが、食感もかなり本物に近い感じがしました。舞茸を使っているとはまったく分かりません。

 ただ、オイスターソースを付けすぎたせいか、ちょっと味が濃くなってしまった。そのため、ソースなしでも美味しくいただけます。食べ過ぎたせいか、胃もたれがする。4個食べただけなのに。

 このレシピは、フェイク料理というよりも、マイタケを使った新しいフライ料理という感じです。とにかく美味しい。お奨めレシピです。

 次は、エリンギを使ったフェイク松茸ご飯。インスタントの松茸のお吸い物を使って松茸風味を演出します。
 お味は、まずまずです。普通に美味しくいただけます。松茸の風味が弱い気もしますが、中国産の松茸を使った松茸ご飯よりは美味しいと思います。

 どちらの料理も家族に好評でした。
 でも、たぶん、二度と作らない。

 理由は、「フェイク・カキフライ」は、どうも胃もたれがする。オイスターソースの味が後を引く。オイスターソースってこういう使い方は問題があるかも・・。特に、胃の弱い方には。

 「フェイク松茸ご飯」については、我が家では基本的に、合成香料と化学調味料が入ったものは使いません。今回だけ特別に使ったけれど、やはり後味が悪い。我が家では無理のようです。美味しいけれど。

 では、今回管理人が作ったレシピを公開。基本的にはTBSの番組ホームページに従っています。

グッチ裕三のフェイク料理「マイタケでカキフライ」のレシピ
【材料】(2人分 ⇒ 4人分) 舞茸1パックで十分4人分は作れます。
  • 舞茸 1パック
  • オイスターソース 適量
  • あおさのり 適量
  • 天ぷら粉・水 各 1/2カップ
  • パン粉 適量

【作り方】
  • 1. 舞茸をカキの大きさくらいに手で裂く。
  • 2. 舞茸にオイスターソースを軽くつけ “カキの風味” を加える。さらに、あおさのりをつけ “カキの磯臭さ” を加える。
  • 3. (2) を水で溶いた天ぷら粉にくぐらせてから、パン粉をまぶしつけることで “ふんわり食感” がプラスされた衣になる。
  • 4. (3) を約180℃の油で揚げ、余分な油を切って皿に盛り付けキャベツ、レモンを盛り合わせ、とんかつソースを添える。


 舞茸1パックで15個くらい楽に作れます。揚げるのが嫌になるくらいたくさんできます。このフライは胃もたれするので、食べ過ぎに注意!

グッチ裕三のフェイク料理「エリンギを使ったフェイク松茸ご飯」のレシピ
【材料】(4人分)
  • エリンギ 3本
  • 酒、だし醤油(なければめんつゆ<ストレート>) 各大さじ1
  • 米 3合
  • 即席お吸い物の素(松茸風味) 2袋
  • だし醤油 大さじ1
  • 油揚げ 1/2枚
  • ニンジン 3cm 千切り

【作り方】
  • 1. 米は炊く30分前にとぎ、ザルに上げる。
  • 2. エリンギは縦に薄切りにして、見た目を松茸に近づける。
  • 3. 鍋に (2) のエリンギを入れてから、酒、だししょうゆを加えて中火で汁気がなくなるまでいりつけて “松茸風の色とうまみ” を足す。
  • 4. 松茸風の香りづけのために即席お吸い物の素を茶こしなどでこしながらお湯 (適量) に溶かし “松茸のだし” を抽出。
  • 5. 炊飯器に米、エリンギ、油揚げ、ニンジン、“松茸のだし”、だし醤油を加え、3合の目盛りまで水を入れ、普通に炊飯する。


 炊飯器の仕様上、30分前に米を浸水する必要はありません。そのためのに炊飯器にはマイコンが入っています。
 エリンギはもっと入れても良いでしょう。とても豪華に見えます! エリンギは、炊きあがりはペラペラした感じになるので、たくさん入れた方が視覚的に楽しめます。椎茸も入れた方が美味しいと思います。

 味は、炊飯釜に調味料を全部投入した段階で、液を舐めてみます。結局、その時の味ができあがりの味になります。濃い味か好きな方は、めんつゆで調整。“松茸のだし”は炊飯により風味がかなり飛んでしまうので、炊飯が終わってから、3袋目の一部を混ぜ込むという方法もありかも。または、2袋全部使うのではなく、ちょっとだけ残しておいて、最後に混ぜ込むという方法も考えられます。このレシピでの味は、(管理人には)ほんのちょっとだけ薄味、という感じでした。でも、薄味がお奨め! 美味しいです。もう、作らないけど。

 料理の写真は撮らなかったのですが、写真がないとインパクトがないので、『カキフライ』の画像を作ってみました。フェイク柿フライです。

柿フライ



posted by ネコ師 at 02:54 | Comment(0) | 料理レシピ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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