2017年01月17日

葛飾北斎の謎を追う


 江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎。「富岳三十六景」「北斎漫画」などの代表作で知られる北斎を知らない人はいないのではないかと思います。

葛飾北斎の肖像


 そして、海外でもとても有名な人物です。1999年にアメリカの雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一選ばれたのが葛飾北斎でした(86位)。

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       海外で最も人気のある北斎の「神奈川沖浪裏」 GIFアニメーション版

 北斎のお墓は、浅草の「誓教寺(せいきょうじ)」にあります。
 ぶらりとお墓参りをしたとき、墓前に花が添えられていると、故人の現在における人気のバロメーターのように思えます。

 例えば、2013年11月8日に亡くなった歌手の島倉千代子さん。彼女のお墓は品川の東海寺にあります。長州ファイブの一人、井上勝のお墓の隣にあります。井上のお墓には花1本供えられていないのですが、島倉千代子のお墓にはたくさんの花が供えられていました。

 
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  Photo: なんでも保管庫

 葛飾北斎については、調べている人がたくさんいて驚いてしまいます。
 今回、管理人が『北斎のなぞ』を書くにあたり、他の研究者にはとても太刀打ちできないので、視角を変えることにします。

 このサイトのなぞ解きの記事は、誰も見たことも聞いたこともない新たな説を唱える・・・ことに執着しているのですが、なかなか思い通りにはなりません。

 管理人が北斎についての様々な情報に触れて感じたことは、北斎がなぜ長寿だったのか、という極めて素朴な疑問に誰も答えを持っていないということでした。書かれている内容は、とても"なおざり"。知識としての情報しか持っていない人たちの書き方のように感じました。

 そこで本記事は、葛飾北斎がなぜ長生きをしたのか、という視点で書いていきたいと思います。
 記述は、「葛飾北斎伝」(飯島虚心著、1893)をベースとします。その理由は後ほど出てきます。

北斎の生まれは?

 北斎は、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉に生まれました。他の資料では、『江戸本所割下水の百姓・川村某の子として生まれる。幼名は時太郎。四、五歳の頃、本所松坂町に住む幕府御用鏡師・中島伊勢の養子となる。』というような記述も見受けられます。これがおかしいことは直ぐに分かります。

 宝暦10年に江戸本所割下水という場所に百姓の川村氏が住んでいたのでしょうか? そもそもその場所は、現在の住所でいうとどこにあたるのでしょうか?

 北斎生誕の地とされている「江戸本所割下水」は、東京都墨田区亀沢2丁目15−10。現地に「北斎生誕の地」という案内柱が立っています。

 ここを目印にGoogle Earthで幕末、1858年の古地図を重ね合わせてみると、そこには武家屋敷が並んでいます。昔は、武士・寺の区域と町民の住む区域は明確に区分けされていました。ここは『百姓の川村氏』が住める場所ではないようです。この百姓の子や養子の話は、北斎の孫娘白井多知女の遺書に依っているのですが、間違っているように思います。

北斎生誕の地 1858年古地図
  Source: Google Earth

北斎生誕の地 1858年古地図拡大
  Source: Google Earth

 「葛飾北斎伝」には、北斎の出自について次のように書かれています。

 父は、徳川家用達の鏡師であった中島伊勢、母は、吉良上野介の家臣で、赤穂義士の討ち入りの際に討ち死にした小林平八郎の孫にあたる人なのだそうです。北斎自身が自らの出自をそのように話していたとか。

 そもそも、百姓の子供が武家に養子に入るなどあり得ない。神童といわれるような、とりわけ聡明な子供ならばあり得るかも知れませんが、養子に出たのが4、5歳ということなので、この線はない。北斎の長男は旗本の家に養子に出ているので、やはり、北斎は武家の出身と見るのが妥当なように思います。「葛飾北斎伝」では、北斎の母は、吉良上野介の孫娘であったという説があることも紹介しています。

 面白いことに、他の説で出てくる養子先である本所松坂町の家があった場所は、吉良上野介が討ち取られた正にその屋敷があった場所。どちらの説が正しいかは分かりませんが、忠臣蔵との関係が深そうです。

北斎はなぜ長生きできたのか

 葛飾北斎は88歳の天寿を全うしました。亡くなったのは、1849年5月10日(嘉永2年4月18日)のこと。数えでは90歳。江戸時代後期に88歳まで生きたのですから、かなり長寿だったと言えます。

 弘化3年閏5月10日生まれの皇女和宮は、この時3歳でした。幕末については、和宮を中心に考えるのが管理人のスタイルです。

 管理人の最初の疑問は、北斎はなぜ長生きできたのかということ。というのは、北斎の生活はお世辞にも健康的であったとは言えないからです。

 家の中はゴミだらけ。ゴミが溜まると引越。これを繰り返し、生涯で93回も引っ越ししたことは有名な話です。さらに、食事は出前をとっていたとか、よそから頂いた生魚は調理が面倒なので誰かにあげた、布団に入ったままで絵を描き、眠くなったらそのまま寝た、など長寿とは無縁の暮らしぶりだったようです。

露木為一「北斎仮宅之図」
          お栄(応為)と北斎、露木為一「北斎仮宅之図」

 北斎は酒・タバコはやらなかったそうですが、健康的な情報はこれだけ。どう考えても、同世代の人たちよりも長生きしそうにありません。同居していた出戻り娘のお栄はタバコを吸っていました。北斎にとっては間接喫煙していたことになります。でも、北斎が肺の病に罹ることはなかったようです。

 管理人と同じ疑問を持った方が『Yahoo!知恵袋』に質問していました。その回答を参考に見てみましょう。この手の話題にとても詳しい方がたくさんいます。

 質問 「葛飾北斎はかなり長命でしたが、なにか特別な食事か療養をしていたのでしょうか?」(Yahoo!知恵袋

 回答 「着ている着物はボロボロ、まともに掃除もしないため部屋はゴミや埃や塵だらけ(部屋が汚れるたびに引っ越ししたという。引っ越し回数は生涯に93回。ただ70代半ばでも56回というので、死ぬまでの約15年で40回近く引っ越ししたことになる)、買ってきた食べ物も皿にもらず、箸も使わず手でつまみ、食べたものは散らかしたままという、まあ不潔極まりない状態で生活していたこと。
 生活は赤貧そのもので、版元にも借金を申し込み(そのくせ金には無頓着)、70代では素行の悪い孫には手を焼くなど、私生活も決していいという状態ではない、普通ならとても90歳まで生きられる状態ではありませんでした。
 ただ不潔極まりない生活をしていた北斎も、健康には気を使っていたようです。
 絵師の河鍋暁斎によると、北斎は酒もたばこも一切やらず、お茶も上等なものは好まなかったといいます。食事には全く気を使わず、娘の阿栄が買ってきたものや、人から貰ったものを食べる程度でした。ただお菓子だけは大好物でしたが。
 そのくせ薬は自分で作っていました。70歳手前で脳卒中に襲われた時は、自分で中国の医学書を調べ、ユズを煮込んで作った漢方薬で治療したといい、またリュウガンを乾燥させたものと砂糖、焼酎を混ぜたオリジナルの「長寿の薬」というものもあり、これを朝晩2回服用してたため、そのため晩年も健康であったといわれます。」("jasonkodai2199"さんのベストアンサーを引用)

 上の文中で「阿栄」とは「お栄(葛飾応為)」のことですね。北斎の生活を見ていると、とても長生きできるようには思えません。酒やタバコはやらなかったとしても、このような生活、そして食事では長生きできるとは思えません。でも、北斎は88歳まで生きました。

 管理人がこのことにこだわる理由は、もし北斎が68歳の時に患った中風(脳溢血)で死んでいたら、これほど有名にはならなかったと思うからです。代表作である錦絵『富嶽三十六景』が描かれたのは北斎が72歳の時です。そして、75歳の時に絵本『富嶽百景』、『絵本忠経』が刊行されています。

 幕末・明治維新の歴史を見ていると、結局、長生きした人が他の人の手柄を総取りにしている、という構図が見えてきます。北斎の場合はなんと言ってもその圧倒的な数の作品数。やはり、長生きが名を残す秘訣のようです。

 生涯現役の絵師。北斎の人生は、現代人にとってもうらやましいと感じてしまう。高齢化社会の現在、北斎の長寿の秘訣こそ、大きな謎なのではないでしょうか。現代の健康法に従えば、長寿などあり得ない生活を続けていた北斎がなぜ長命だったのか。不思議ですよね。

 なぜ、北斎は健康だったのか? 『Yahoo!知恵袋』の回答を読んでもその答えは見つからない。確かに、この回答はよく書けていると思いますが、少なくとも、管理人の疑問の答えにはなっていないと思います。

 北斎の長寿の根源はもっと別のところにありそうです。

食事とゴミ屋敷のなぞ

 長寿の理由としてまず着目べき点は「食事」でしょう。

 北斎は、料理は買ってきたり、もらったりしており、自分では作りませんでした。

 料理もせずにゴミ屋敷? でも、奥さんがいたはずです。
 この辺の情報が怪しいことが分かります。

 北斎の後妻"こと女"が亡くなったのは、北斎が中風を患った翌年(1828年7月4日)のことで、この時、北斎は68歳でした。それ以降も娘のお栄が同居していました。このような状況で、料理もせず、家の中は『ゴミ屋敷』だったとはとても考えられない。もし、『ゴミ屋敷』だったことが真実ならば、"こと女"もお栄も、北斎に負けず劣らず考えられないほどの『変人』だったことになります。まあ、お栄は変人だったようですが。

 このため、管理人は『ゴミ屋敷』であったというのは都市伝説だと考えます。確かに、その現場を見た人物がいたのでしょう。その記録を軽視するつもりはありません。でも、北斎はたびたび転居しており、"こと女"が北斎と一緒に同じタイミングで転居していたとは、管理人には思えないのです。引越にタイムラグがあったのではないか? 北斎だけが先に転居し、そこを訪れた人物が「ゴミ屋敷」と感じた。そんな気がします。

 たいして大きくない長屋です。余程ずぼらな奥さんでもそれなりに片付けるのではないでしょうか。
 ある場面を見た人の言動がそのまま北斎の人生全体のことであるかのように曲解されていると、管理人は考えます。

 ここで、再度書きますが、管理人の関心は、北斎の長寿の秘訣。北斎が不衛生な生活をしていたという根拠はどこにもないように思います。ボロを着ているのと不衛生は違います。書き損じの紙があちらこちらに散らばっているのと不衛生とは違います。先行研究を読むと、ここら辺を混同しているように思います。

  Wikipediaで「料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置した。土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した」という記述があります。

 このような記述からゴミ屋敷が連想されるようです。でも、ゴミ屋敷の住民が長寿とはとても考えられない。情報が間違っているのです。ひとつひとつの情報は正しいのかも知れませんが、それぞれの状況説明を無視して、それをつなぎ合わせた時点で間違いが生じているように感じます。

 そもそも長屋は6畳のスペースしかありません。そこに、台所と土間で1.5畳。住居スペースは4.5畳。ゴミが溜まったから引越を繰り返した、という主張は腑に落ちません。「ゴミが散乱」と「引越93回」という伝聞をつなぎ合わせて誰かが創作したもののように思います。

葛飾北斎が作った脳卒中の薬を作ってみる
 
 北斎が68歳の時、脳卒中で倒れます。その時、自分で作った薬『そつちうのくすり』を飲んで完治し、その後はますます精力的に作品作りに励むことになります。

 北斎が作った『卒中の薬(そつちうのくすり)』とはどんなものだったのでしょうか。そんな良いものがあるのなら、是非飲んでみたい!

歌川国芳の団扇絵「名酒揃 志ら玉」改変「卒中の薬」
 元絵は歌川国芳、団扇絵「名酒揃 志ら玉」

 そこで、早速作ってみました(笑)。

 まずは、作り方を調べます。これは飯島虚心の『葛飾北斎伝』上巻の50ページから51ページにかけて書かれています。

『そつちうのくすりの事 
 二十四時(とき)たたざる内に用ゐる 二十四時半時かけてもききます。
極上々の酒壹合 ゆず一ツ こまかにきざみ、どなべにてしずかに、につめ、水あめくらいににつめ、さゆにて二度くらいにもちゆる。たねは につめた上にて とりすて候。』

 図には、
 ○ゆず 
 ○こまかにきざみ 
 ○竹へらにてきざみ候、鉋丁、小刀、鉄胴の類はきらひ申候
 ○鍋 鉄銅は、きらひ申候

Sotchuunokusuri-01.png
 Source: 『葛飾北斎伝』上巻 pp.57-58、国立国会図書館デジタルコレクション より作成

 原文は読みにくいので、現代語訳すると以下のようになります。時間は不定時法。
 『卒中の薬のこと
 二日以内に服用。その後でも効く。
 材料は、柚子1個、特上の純米酒1合。柚子を刻み、土鍋に入れて静かに煮詰め、水飴くらいになるまで煮詰める。これを白湯に入れ、一日二度ほど服用。
 作るときの注意として、柚子の成分が鉄や銅を嫌うので、柚子を切るときは竹へらを用いる。』

 レシピが分かったので作ってみます。

【材料】
 柚子 2個
 純米酒 180cc(1合)
 水 3カップ

【作り方】
  • 柚子をきれいに洗い、水気を拭き取る。
  • 竹ナイフがないので、柚子の皮を手で細かくちぎって土鍋に投入
  • 日本酒を入れて、弱火で30分煮る。
  • すると、酒がほとんど蒸発するので、そこに、水3カップを加え、1時間半弱火でコトコト煮る。


 北斎のレシピでは水のことは書いていないのですが、水を入れないと長時間煮ることができないので加えました。2時間煮た柚子がこちら。自家製の『葛飾北斎レシピによる卒中の薬』です。これで脳卒中の心配ともおさらばです。

北斎の卒中の薬


 味見してみたら、「・・・・」。砂糖が入っていないので、美味しいはずがありません。しかし、長時間の加熱により柚子の酸味はかなり飛んでいます。問題は、柚子の皮に含まれる苦み、というか"えぐみ"。

 これを美味しく飲むには、日本酒にこの液体を小さじ一杯入れて、・・・、(日本酒好きの管理人の発想です)。氷砂糖を入れても良いかも。また、できあがったシロップをホワイトリカー35度に漬け込むのも良さそうです。でも、グビグビ飲んでしまいそうで怖い!

 北斎が中風を患ったのは1827年(文政10年)、68歳の時。では、何月に発病したのでしょうか。記録はないのですが、『柚子』がヒントになります。柚子が市場に出回るのは10~12月のみ。北斎が罹患したのはこの時期だったことが分かります。

 レシピを見て気づいたのですが、このレシピのままだと柚子が出回る10月から12月頃しかこの薬を作れないことになる。脳卒中はいつ発病するか分からないので、やはり焼酎漬けが良いように思います。

 やっと半分書き終えたのでアップします。

 「葛飾北斎伝」を原書で読んでいるので、執筆がなかなか進まない。
 実は、全体版で執筆していたのですが、書き終わらないので、前半部分だけ切り離してアップすることにしました。残りの部分は、このまま、この記事に追記します。この記述が消えた時点が最終稿です。

 記事の後半部分に使う画像をアップします。北斎ファンなら、この画像がなんなのかは分かるはず。そして、その意味することとは?

男浪・女浪の秘密
     男浪・女浪の秘密



1. 「北斎絵事典【完全版】」、永田生慈、東京美術
2. 「葛飾北斎伝」、飯島虚心著・鈴木重三校注 、岩波書店、1999
3. 『葛飾北斎伝』上巻・下巻、飯島半十郎 著、蓬枢閣、1893、国立国会図書館デジタルコレクション
4.  http://www.boston-japonisme.jp/japonisme/hokusai.html
5. 「飯島半十郎の生涯と思想」(その一)~(その三)、小林恵子、国立音楽大学、1999
6. 『北斎の七つのナゾ』、中右 瑛、里文出版、2002

posted by ネコ師 at 04:02| Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | 更新情報をチェックする
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