2017年03月07日

土御門藤子のお墓が危ういらしい


 2017年02月11日付けの京都新聞に「安倍晴明の子孫の墓ピンチ 京都、連絡取れず寺が供養」というタイトルの記事が掲載されました。

 新聞の中身は、リンク先で読んで頂くとして、この記事では別の視点から書いていきたいと思います。

 管理人が土御門家(つちみかどけ)と聴いて思い出すのは、和宮付き女官の『土御門藤子』のこと。彼女は、江戸城無血開城の陰の立て役者です。確か、彼女は、京都へ戻る和宮に同行して京にゆき、そのまま実家に戻ったはず。

 その時、藤子の実家には誰がいたのでしょうか。
 
 誰も書かない、やたらと詳しい記事を書きたいと思います。
 藤子の姉の『土御門 繁』についても少し書くことにします。

 和宮が帰京したこの時の旅では、1869年2月28日(明治2年1月18日)、午前6時に清水邸を出て東海道を京に向かいました。和宮一行が京に着いたのは、3月15日(明治2年2月3日)のこと。和宮は京都に到着後、聖護院に入ります。土御門藤子は京都市下京区梅小路にある実家に戻ります。

 そもそも、その時の実家の当主は誰だったのか。現在、土御門家の子孫の方はどうなっているのか。
 可能な限り調べてみたいと思います。

土御門家の系図を調べる

 陰陽師安倍晴明を先祖に持つ土御門家。かなり長く続いた家柄の筈ですが、子孫が見つからず、お墓の修復もできない。でも、そんなはずがないと考えるのが普通ではないでしょうか。新聞記事は信用しない方が良いように思います。10分で書いた新聞記事など、1500年の歴史を持つ土御門家の歴史の前では、芥子粒以下の表記しかできていない。

 まず、土御門家の系図を調べます。初代から現在までの系図です。

氏  名生没年内      容
阿倍倉梯麻呂(安倍氏嫡流初代当主)?〜649氏長者,左大臣。阿倍倉梯麻呂
阿倍御主人(安倍氏嫡流2代当主)635−703 氏長者,右大臣,大納言,中納言
阿倍広庭(安倍氏嫡流3代当主)659(斉明5)〜732(天平4)中納言,参議,宮内卿
阿倍嶋麻呂(安倍氏嫡流4代当主)?−761 参議
阿倍吉人(安倍氏嫡流5代当主)治部卿,宮内卿
阿倍粳蟲(安倍氏嫡流6代当主)不明
阿倍大家(安倍氏嫡流7代当主)
阿倍道守(安倍氏嫡流8代当主)
安倍兄雄(安倍氏嫡流9代当主)-808右兵衛督,右京大夫,大膳大夫,准参議
安倍春材(安倍氏嫡流10代当主)
安倍益材(安倍氏嫡流11代当主)大膳大夫
安倍晴明(安倍氏嫡流12代当主)延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日)大膳大夫
安倍吉平(安倍氏嫡流13代当主)954 - 1026
安倍時親(安倍氏嫡流14代当主)
安倍有行(安倍氏嫡流15代当主)
安倍泰長(安倍氏嫡流16代当主)治暦4年(1068年) - 保安2年(1121年)父:安倍有行
安倍泰親(安倍氏嫡流17代当主)1110 - 1183
安倍泰茂(安倍氏嫡流18代当主)
安倍泰忠(安倍氏嫡流19代当主)
安倍泰盛(安倍氏嫡流20代当主)
安倍有弘(安倍氏嫡流21代当主)
安倍長親(安倍氏嫡流22代当主)
安倍泰世(安倍氏嫡流23代当主)非参議,大膳大夫
安倍泰吉(安倍氏嫡流24代当主)
土御門有世(安倍氏嫡流25代当主)1327-1405父:天文博士 安倍泰吉(権天文博士、陰陽頭、左京大夫)、非参議,刑部卿,左京大夫
 ?土御門有重不明父:陰陽頭 土御門有世
土御門有盛(安倍氏嫡流26代当主)?-1433父:陰陽頭 土御門有世。非参議,刑部卿
土御門有季(安倍氏嫡流27代当主)生没年:?-1465父:天文博士 土御門有盛
土御門有宣(安倍氏嫡流28代当主)1433-1514父:土御門有季。応仁の乱以来の混乱を避け、若狭国(おおい町)の荘園に下向。
土御門有春(安倍氏嫡流29代当主)1501-1569義父:陰陽頭 土御門有宣。応仁の乱以来の混乱を避け、若狭国(おおい町)の荘園で一生を過ごす。
土御門有脩(安倍氏嫡流30代当主)大永7年(1527年) - 天正5年1月2日(1577年1月20日)父:陰陽頭 土御門有春。秀次の切腹事件に際して連座して流罪
土御門久脩(安倍氏嫡流31代当主)永禄3年(1560年) - 寛永2年1月18日(1625年2月24日)父:陰陽頭 土御門有脩。若狭から戦乱の収束した都に一時戻ったが、秀次の切腹事件に際して連座して流罪
土御門泰重(安倍氏嫡流32代当主)1586-1661父:陰陽頭 土御門久脩、子:土御門泰広(1611-1652)、隆俊(1626-1687)、(養子)泰福(1655-1717)
土御門泰広(安倍氏嫡流33代当主)1611-1652父:左兵衛督 土御門泰重
土御門隆俊(安倍氏嫡流34代当主)1626-1687父:左兵衛督 土御門泰重
土御門泰福(安倍氏嫡流35代当主)1655-1717父:宮内大輔 土御門隆俊?、義父:中務大輔 土御門泰広。泰福は土御門神道の祖とされる。
土御門泰誠(安倍氏嫡流36代当主) 1677-1691父:陰陽頭 土御門泰福
土御門泰連(安倍氏嫡流37代当主) 1685-1752父:陰陽頭 土御門泰福、義父:弾正少弼 土御門泰誠
土御門泰邦(安倍氏嫡流38代当主)1711-1784土御門泰福の末子。兄泰連の養子。揮天儀台を自宅に設置。「宝暦暦」を制定する事に成功し、改暦の権限を再び土御門家に取り戻す事に成功。
土御門泰兄(安倍氏嫡流39代当主)1728-1754父:治部卿 土御門泰連、義父:治部卿 土御門泰邦
土御門有邦(26代、安倍氏嫡流40代当主)1753-1759父:陰陽頭 土御門泰兄
土御門泰信(27代、安倍氏嫡流41代当主)1752-?父:刑部卿 萩原兼武、義父:土御門有邦
土御門泰栄(28代、安倍氏嫡流42代当主)1758-1806父:弾正大弼 倉橋有儀、義父:大膳大夫 土御門泰信
土御門泰胤(29代、安倍氏嫡流43代当主)1782-?父:治部卿 土御門泰栄
土御門晴親(30代、安倍氏嫡流44代当主)1788年1月15日(天明7年12月8日) - 1842年8月4日(天保13年6月28日)父:治部卿 土御門泰栄。子に晴雄、繁(1831-1891,櫛笥隆韶室)、藤子
土御門晴雄(31代、安倍氏嫡流45代当主)1827年6月28日(文政10年6月5日) - 1869年11月9日(明治2年10月6日)父:陰陽頭 土御門晴親。土御門藤子の兄。安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加。子は土御門晴栄(養子?)。土御門家陰陽道の最後の当主となる。
 ○ 土御門 繁1831-1891 右近衛権中将 櫛笥隆韶室。養子の櫛笥隆義の妻が八戸藩九代藩主 南部信順の娘南部董子。董子の弟が南部栄信。栄信の妻が南部麻子。⇒ 麻布の屋敷を和宮に売却
 ○ 土御門藤子1842年(天保13年)? - 1875年(明治8年)7月13日晴親の四女 大奥女中 和宮親子内親王に仕える。明治2年(1869年 3月15日京都着)和宮が京都へ戻ると、それに従い実家へ戻った。
土御門晴栄(32代、安倍氏嫡流46代当主)1859年6月30日(安政6年6月1日) - 1915年(大正4年)10月16日公家錦織久隆の子。晴雄の娘益子と結婚し婿養子になる。益子早世し(離婚?)子供なし。後妻 冷泉為柔子爵の娘 秀子(1867-1932)
土御門晴行(33代、安倍氏嫡流47代当主)1883年-1924年7月亀山藩主松平信正の二男。晴栄の後妻秀子の子 幸子と結婚し婿養子となり当主となる。子供なく、晴善を養子にする。幸子と離婚。冷泉為柔の娘冷泉秀子と結婚。幸子は堀川重治と再婚。
土御門晴善(34代、安倍氏嫡流48代当主) 1884年8月4日 - 1934年4月17日華族の三室戸和光の三男。土御門晴行の養子となる。昭和7年7月10日〜昭和9年4月17日 第7回 子爵議員選挙 昭和7年7月10日施行。
土御門X光(35代、安倍氏嫡流49代当主)1917年(大正6年)12月1日 - 1944年(昭和19年)5月12日晴善の長男。家督を継ぐも早世(満6歳)
土御門範忠(36代、安倍氏嫡流50代当主)1920年(大正9年) - 1994(平成6年)晴善の二男、兄X光の死にあたりその養子となり家督を継ぐ。義父:子爵 高倉篤麿。子:善子(1959-)


 系図の最後に出てくる土御門善子さんは、現在、兵庫県尼崎市にお住まいのようです。

 土御門家の系譜を纏めてみたものの、これだとよく分からない。やはり、家系図が必要ですね。下で出てきます。

土御門藤子とは

 本サイトの和宮シリーズを書いているとき、特に気になったのが土御門藤子です。和宮関係図書で、先ず触れられることがないのが土御門藤子の自出です。安倍晴明の直系の子孫なのですね。素敵な苗字だとは思っていたのですが。

 この「土御門」という苗字は、当時住んでいた京の通りの名前に由来するのですが、では、その通りの名前の由来は? だれも答えることができない(笑)。

 Wikipediaの記述を見てみましょう。この項は、あまりよい出来ではないのですが。

 土御門藤子: 江戸時代後期-近代の公家・土御門藤子(つちみかど ふじこ、1842?- 1875)。ふぢ、邦子、澄姫。土御門晴親の四女として京都に生まれた。第120代・仁孝天皇の典侍・橋本経子(後の観行院)付の女官として京都御所に上がる。1846年、経子が和宮を出産し、和宮の乳母となる。1860年、和宮降嫁により江戸に移る。江戸城大奥で上臈御年寄(じょうろうおとしより)となり、桃の井と称した。和宮側近として、観行院、庭田嗣子らと和宮を擁護し、大奥老女と対立した。1868年、新政府軍の江戸進軍決定に際し、徳川家存続に奔走する。和宮の使者として、橋本実麗・実梁父子に和宮の直書・慶喜の嘆願書を持参する。桑名・光徳寺で実梁に会う。京都御所で徳川家存続の内旨を得た。再び、和宮の命により実梁と進軍猶予を求めて交渉した。1869年、和宮とともに京都へ戻る。
 墓は梅林寺にあり、「邦子」と刻まれている。
  出典: Wikipedia、「 土御門藤子」 

 土御門藤子は和宮より4歳年上です。和宮が生まれたとき、4歳だった藤子は、当然、お乳が出ません。「乳母」という記述を分かりやすく書くのが辞書作成者に求められる最も基本的なこと。その他の記述を読んでも、この項の執筆者は・・・ダメですね。

 幕末、和宮の使者として、大奥最高位の上臈であった土御門藤子が二度も派遣されています。Wikipediaにはあまりにもあっさりと書かれていますが、これは命がけの使者でした。警護の侍はいたものの、双方の陣営から、いつ襲撃されるか分からないとても危険な任務でした。さらに、草津宿から先は官軍により関東の男の入京が禁じられていたため、女たちだけの旅になります。お供の女官はわずかに3人だけでした。この草津宿とは東海道五十三次の52番目の宿場で、現在の滋賀県草津市街にありました。群馬県吾妻郡草津町の草津温泉ではありません。

 もし、土御門藤子が和宮の直訴状に対する朝廷の回答を持ち帰ることに失敗していたとしたら、江戸は火の海になっていました。土御門藤子が粘りに粘ってやっと手に入れた朝廷の回答が『徳川家存続の内旨』でした。

 この『徳川家存続の内旨』を受け取った和宮は、確信を持って、天璋院篤姫と共にその後の幕府の採るべき方向を決めることになりました。もし、土御門藤子が、「和宮様の直訴状を朝廷に出しましたけれど、やはりだめでした。まったく取り合ってくれないのです。時勢柄、しかたないです・・」などと弱腰だったら、江戸城総攻撃は間違いなく行われていたでしょう。勝海舟が江戸城無血開城に大きな役割を果たしたのは事実ですが、当時の幕府は決して一枚岩ではない。下っ端の勝海舟の言うことなど幕閣の誰も聴きません。将軍の徳川慶喜はすでに上野寛永寺で勝手に謹慎しているし、おもな幕閣も国元に帰っていました。江戸城は完全にトップ不在の難破船のような状況でした。

 もっとも、慶応元年5月16日(1865年6月9日)、第二次長州征伐総攬のため徳川家茂が江戸を出発して以降、江戸城には将軍は不在でした。(天璋院と和宮が怖いので)慶喜は江戸城に寄りつかず、大阪から逃げ帰り、天璋院に面会するため登城したのが、将軍になってから初めての登城だったそうです。将軍なので登城というのも変ですが、適当な言葉が見つかりません。

 慶応4年1月21日(1868年2月14日)、和宮(静寛院宮)は徳川のための嘆願書を上臈土御門藤子に持参させます。藤子の一行は、真冬の二月に箱根を越えて江戸と京都の間を往復しています。慶応4年2月1日(1868年2月23日)、土御門藤子が桑名光徳寺の橋本実梁(東海道鎮撫総督)に書状を渡します。そして、2月6日(1868年2月28日)、和宮の歎願書を携えた土御門藤子が入京して徳川処分寛大を歎願します。粘りに粘って、やっと『徳川家存続の内旨』を手に入れた藤子は、2月18日(1868年3月11日)、京を立ち、2月30日(1868年3月23日)に江戸へ戻り、和宮に復命しました。往路が14日間、復路が12日、京都滞在が12日間でした。それは、辛く、危険に満ちた旅でした。

 さらに、同年3月10日(1868年4月2日)、和宮は土御門藤子を橋本実梁に再度派遣し、江戸進撃猶予を歎願しました。

土御門藤子-箱根越え
 「土御門藤子一行、冬の箱根越え」 Ⓒ なんでも保管庫

 土御門藤子が京の実家で亡くなったのは、明治8年(1875年)7月13日のこと。和宮が箱根で亡くなる2年前です。小説『女たちの江戸開城』(植松三千里、双葉社、2006)では、「和宮の最後を看取った側近の中に、土御門藤子と仙田九八郎がいた」と書かれていますが、そんなはずはありません。

 土御門藤子の亡骸は京都梅小路梅林寺に葬られ、墓名は「安倍朝臣邦子」となっています。
 この梅林寺が、冒頭の京都新聞で出てきたお寺です。

bairinji-1.jpg
  Photo Source: Google Street View

 梅林寺は土御門家の菩提寺で、歴代のお墓があるというのでどれだけ大きなお寺なのだろうとGoogle Earthで覗いてみたら、墓地の敷地は20m x 9m 程度しかない。意外と小さなお寺です。

 当時、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄であり、土御門家がこれにあたっていましたが、幕府天文方の天才、渋川春海の前に暦の正確さで負けてしまい、以降、苦汁をなめることになります。

 土御門藤子が実家に戻ったとき、そこには、安倍氏嫡流45代当主で、藤子の兄の土御門晴雄がいました。しかし、晴雄は、藤子が実家に戻ったその年、1869年11月9日(明治2年10月6日)に亡くなります。もし、晴雄がもう少し長生きをしていれば、日本の新暦導入の時期はもっと遅くなったのではないかと思います。

 上の家系図を見ると、この後、土御門家の後継者はよそから来ています。そのような家の相続の混乱の中で、土御門藤子はさぞ、肩身の狭い思いをしていた・・・筈はありません。彼女の実績に鑑み、土御門家の後継者選定を一手に引き受けていたのではないでしょうか。

和宮の麻布屋敷のミステリー

 1874年7月8日(明治7年)、京都から東京に戻った和宮は、明治政府が用意した麻布のお屋敷に入ります。

 このお屋敷は南部八戸藩から購入したものなのですが、本記事で何度も書いている不思議な縁のお屋敷です。

 土御門藤子は土御門晴親の四女ですが、「繁」という姉がいます(上の系図参照)。繁は、右近衛権中将 櫛笥隆韶に嫁ぎました。子供ができなかったのか櫛笥隆義を養子とします。その妻が八戸藩九代藩主 南部信順の娘南部董子。董子の弟が南部栄信。栄信の妻が南部麻子。南部栄信・麻子夫妻が明治政府に売却した旧八戸南部藩下屋敷が、和宮邸です。

 ついでに、南部麻子の姉が南部郁子。その夫が華頂宮博経親王です。博経は、1860年10月11日、和宮の兄孝明天皇の猶子となり、同日、徳川家茂の猶子となりました。

 この和宮と南部家、そして土御門家との見えない糸については、これまで誰も指摘した人はいないと思います。

 管理人が書いた和宮シリーズに必ず登場する南部家の影。とても不思議です。

お墓を保存する意味とは

 青山墓地や雑司が谷霊園など多くの墓地を徘徊している管理人にとって、冒頭の京都新聞の記事はショッキングでした。

 徳川宗家のような資産を持っている家は別ですが、多くの旧公家華族はいつの時代でも経済的には恵まれていなかったように思います。数百年、千年以上続いている家系の墓地は、個人の家で守っていくにはあまりにも重すぎるように思います。歴史的価値があるのなら、公的資金、あるいは有志による資金で墓地を保全していくことが重要かと思います。

 『墓前で手を合わせる』

 御利益を期待するわけでもなく、真摯に故人の冥福を祈る。そんな場が墓地ではないでしょうか。神社だと、どうしても御利益を期待する心の方が先に出てしまう。

 梅林寺の土御門家墓地の問題は、なんとかしなければいけないと思います。新聞記事をきっかけとして、墓地保全の動きが出れば良いのですが。

 でも、梅林寺側ももっと努力すべきかも。ネット上にほとんど情報がないし。墓地が一般に公開されているのかどうかもよく分からない。たぶん非公開です。

 例えば、ポケモンGoで「土御門藤子」⇒「土御門泰福」⇒「安倍晴明」と進化するモンスターをここでしかゲットできないとすれば、お寺への来訪者は天文学的数字になるでしょうね。天文道(天文密奏)の土御門家が望む姿かも。

 この記事を読んでも、何のことかさっぱり分からない・・という方のために、和宮関連家系のフロー図を作成しました。クリックすると拡大表示できます。

family-tree-Kazunomiya.png


 この関係図を作っていて気づいたのですが、和宮、家茂、土御門藤子は、誕生した年に父親が亡くなっています。この意味で、この三人は同じ境遇だったといえます。

 このフロー図を作るのは結構時間がかかります。
 次に、土御門家の家系図です。藤子の父親の代以降、すなわち、44代から50代で作りました。

family-tree-Tsuchimikado1.png
     土御門家家系図(44代〜50代)

 土御門家の家系を紐解くと、46代の晴栄(実父:錦織久隆、妻:冷泉秀子)の時点で、土御門家の血筋は絶えています。実際には、それ以前に絶えているのでしょうが。家としては養子縁組により存続していますが、血のつながりはありません。

 歴史好きの人は、すぐに「一次史料を挙げるべき」と主張します。都合の良い1次資料などないのが歴史なのに。1次資料から積み上げていく歴史のアプローチは、はっきり言って逆さまのように思います。

 最後に、京に戻った後の土御門藤子について。

 和宮が京都に戻ったときに書いた「静ェ院宮御日記」を読むと、藤子が少しだけ登場します。実家に戻ったという説は本当なのでしょうか。何となく、和宮の傍にずっといたような気がします。婚期は逸しているし、他にやりたいことがあったとも思えない。

 梅林寺にある藤子の墓石には次のように書かれているそうです。
 あなたならこれをどう読み、どう解釈しますか。立派な1次資料です(笑)。

  • 「安倍朝臣邦子 墓」
  • 「明治八乙亥年(1875)六月十有四日薨」
  • 「従萬延元庚申(1860)至明治七甲戌年(1874)和宮上臈勤位」
[4]


【出典】
1. 「世界帝王事典
2. 「直球感想文 和館
3. 「土御門家 阿倍氏嫡流」、Majesty's Room
4. 「江戸末期の土御門家と陰陽書出版について : ふたつの皇和司天家鑒本『陰陽方位便覽』の考察を中心として」、水野杏紀、人間社会学研究集録. 2008, 4, p.77-118
   藤子の母親の名前『高津』は、『皆川家文書』に書かれているもので、ネット上にはありません。論文のp.79を参照。


posted by ネコ師 at 22:28 | Comment(0) | 皇女和宮の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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