2017年03月07日

土御門藤子のお墓が危ういらしい


 2017年02月11日付けの京都新聞に「安倍晴明の子孫の墓ピンチ 京都、連絡取れず寺が供養」というタイトルの記事が掲載されました。

 新聞の中身は、リンク先で読んで頂くとして、この記事では別の視点から書いていきたいと思います。

 管理人が土御門家(つちみかどけ)と聴いて思い出すのは、和宮付き女官の『土御門藤子』のこと。彼女は、江戸城無血開城の陰の立て役者です。確か、彼女は、京都へ戻る和宮に同行して京にゆき、そのまま実家に戻ったはず。

 その時、藤子の実家には誰がいたのでしょうか。
 
 誰も書かない、やたらと詳しい記事を書きたいと思います。
 藤子の姉の『土御門 繁』についても少し書くことにします。

 和宮が帰京したこの時の旅では、1869年2月28日(明治2年1月18日)、午前6時に清水邸を出て東海道を京に向かいました。和宮一行が京に着いたのは、3月15日(明治2年2月3日)のこと。和宮は京都に到着後、聖護院に入ります。土御門藤子は京都市下京区梅小路にある実家に戻ります。

 そもそも、その時の実家の当主は誰だったのか。現在、土御門家の子孫の方はどうなっているのか。
 可能な限り調べてみたいと思います。

土御門家の系図を調べる

 陰陽師安倍晴明を先祖に持つ土御門家。かなり長く続いた家柄の筈ですが、子孫が見つからず、お墓の修復もできない。でも、そんなはずがないと考えるのが普通ではないでしょうか。新聞記事は信用しない方が良いように思います。10分で書いた新聞記事など、1500年の歴史を持つ土御門家の歴史の前では、芥子粒以下の表記しかできていない。

 まず、土御門家の系図を調べます。初代から現在までの系図です。

氏  名生没年内      容
阿倍倉梯麻呂(安倍氏嫡流初代当主)?〜649氏長者,左大臣。阿倍倉梯麻呂
阿倍御主人(安倍氏嫡流2代当主)635−703 氏長者,右大臣,大納言,中納言
阿倍広庭(安倍氏嫡流3代当主)659(斉明5)〜732(天平4)中納言,参議,宮内卿
阿倍嶋麻呂(安倍氏嫡流4代当主)?−761 参議
阿倍吉人(安倍氏嫡流5代当主)治部卿,宮内卿
阿倍粳蟲(安倍氏嫡流6代当主)不明
阿倍大家(安倍氏嫡流7代当主)
阿倍道守(安倍氏嫡流8代当主)
安倍兄雄(安倍氏嫡流9代当主)-808右兵衛督,右京大夫,大膳大夫,准参議
安倍春材(安倍氏嫡流10代当主)
安倍益材(安倍氏嫡流11代当主)大膳大夫
安倍晴明(安倍氏嫡流12代当主)延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日)大膳大夫
安倍吉平(安倍氏嫡流13代当主)954 - 1026
安倍時親(安倍氏嫡流14代当主)
安倍有行(安倍氏嫡流15代当主)
安倍泰長(安倍氏嫡流16代当主)治暦4年(1068年) - 保安2年(1121年)父:安倍有行
安倍泰親(安倍氏嫡流17代当主)1110 - 1183
安倍泰茂(安倍氏嫡流18代当主)
安倍泰忠(安倍氏嫡流19代当主)
安倍泰盛(安倍氏嫡流20代当主)
安倍有弘(安倍氏嫡流21代当主)
安倍長親(安倍氏嫡流22代当主)
安倍泰世(安倍氏嫡流23代当主)非参議,大膳大夫
安倍泰吉(安倍氏嫡流24代当主)
土御門有世(安倍氏嫡流25代当主)1327-1405父:天文博士 安倍泰吉(権天文博士、陰陽頭、左京大夫)、非参議,刑部卿,左京大夫
 ?土御門有重不明父:陰陽頭 土御門有世
土御門有盛(安倍氏嫡流26代当主)?-1433父:陰陽頭 土御門有世。非参議,刑部卿
土御門有季(安倍氏嫡流27代当主)生没年:?-1465父:天文博士 土御門有盛
土御門有宣(安倍氏嫡流28代当主)1433-1514父:土御門有季。応仁の乱以来の混乱を避け、若狭国(おおい町)の荘園に下向。
土御門有春(安倍氏嫡流29代当主)1501-1569義父:陰陽頭 土御門有宣。応仁の乱以来の混乱を避け、若狭国(おおい町)の荘園で一生を過ごす。
土御門有脩(安倍氏嫡流30代当主)大永7年(1527年) - 天正5年1月2日(1577年1月20日)父:陰陽頭 土御門有春。秀次の切腹事件に際して連座して流罪
土御門久脩(安倍氏嫡流31代当主)永禄3年(1560年) - 寛永2年1月18日(1625年2月24日)父:陰陽頭 土御門有脩。若狭から戦乱の収束した都に一時戻ったが、秀次の切腹事件に際して連座して流罪
土御門泰重(安倍氏嫡流32代当主)1586-1661父:陰陽頭 土御門久脩、子:土御門泰広(1611-1652)、隆俊(1626-1687)、(養子)泰福(1655-1717)
土御門泰広(安倍氏嫡流33代当主)1611-1652父:左兵衛督 土御門泰重
土御門隆俊(安倍氏嫡流34代当主)1626-1687父:左兵衛督 土御門泰重
土御門泰福(安倍氏嫡流35代当主)1655-1717父:宮内大輔 土御門隆俊?、義父:中務大輔 土御門泰広。泰福は土御門神道の祖とされる。
土御門泰誠(安倍氏嫡流36代当主) 1677-1691父:陰陽頭 土御門泰福
土御門泰連(安倍氏嫡流37代当主) 1685-1752父:陰陽頭 土御門泰福、義父:弾正少弼 土御門泰誠
土御門泰邦(安倍氏嫡流38代当主)1711-1784土御門泰福の末子。兄泰連の養子。揮天儀台を自宅に設置。「宝暦暦」を制定する事に成功し、改暦の権限を再び土御門家に取り戻す事に成功。
土御門泰兄(安倍氏嫡流39代当主)1728-1754父:治部卿 土御門泰連、義父:治部卿 土御門泰邦
土御門有邦(26代、安倍氏嫡流40代当主)1753-1759父:陰陽頭 土御門泰兄
土御門泰信(27代、安倍氏嫡流41代当主)1752-?父:刑部卿 萩原兼武、義父:土御門有邦
土御門泰栄(28代、安倍氏嫡流42代当主)1758-1806父:弾正大弼 倉橋有儀、義父:大膳大夫 土御門泰信
土御門泰胤(29代、安倍氏嫡流43代当主)1782-?父:治部卿 土御門泰栄
土御門晴親(30代、安倍氏嫡流44代当主)1788年1月15日(天明7年12月8日) - 1842年8月4日(天保13年6月28日)父:治部卿 土御門泰栄。子に晴雄、繁(1831-1891,櫛笥隆韶室)、藤子
土御門晴雄(31代、安倍氏嫡流45代当主)1827年6月28日(文政10年6月5日) - 1869年11月9日(明治2年10月6日)父:陰陽頭 土御門晴親。土御門藤子の兄。安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加。子は土御門晴栄(養子?)。土御門家陰陽道の最後の当主となる。
 ○ 土御門 繁1831-1891 右近衛権中将 櫛笥隆韶室。養子の櫛笥隆義の妻が八戸藩九代藩主 南部信順の娘南部董子。董子の弟が南部栄信。栄信の妻が南部麻子。⇒ 麻布の屋敷を和宮に売却
 ○ 土御門藤子1842年(天保13年)? - 1875年(明治8年)7月13日晴親の四女 大奥女中 和宮親子内親王に仕える。明治2年(1869年 3月15日京都着)和宮が京都へ戻ると、それに従い実家へ戻った。
土御門晴栄(32代、安倍氏嫡流46代当主)1859年6月30日(安政6年6月1日) - 1915年(大正4年)10月16日公家錦織久隆の子。晴雄の娘益子と結婚し婿養子になる。益子早世し(離婚?)子供なし。後妻 冷泉為柔子爵の娘 秀子(1867-1932)
土御門晴行(33代、安倍氏嫡流47代当主)1883年-1924年7月亀山藩主松平信正の二男。晴栄の後妻秀子の子 幸子と結婚し婿養子となり当主となる。子供なく、晴善を養子にする。幸子と離婚。冷泉為柔の娘冷泉秀子と結婚。幸子は堀川重治と再婚。
土御門晴善(34代、安倍氏嫡流48代当主) 1884年8月4日 - 1934年4月17日華族の三室戸和光の三男。土御門晴行の養子となる。昭和7年7月10日〜昭和9年4月17日 第7回 子爵議員選挙 昭和7年7月10日施行。
土御門X光(35代、安倍氏嫡流49代当主)1917年(大正6年)12月1日 - 1944年(昭和19年)5月12日晴善の長男。家督を継ぐも早世(満6歳)
土御門範忠(36代、安倍氏嫡流50代当主)1920年(大正9年) - 1994(平成6年)晴善の二男、兄X光の死にあたりその養子となり家督を継ぐ。義父:子爵 高倉篤麿。子:善子(1959-)


 系図の最後に出てくる土御門善子さんは、現在、兵庫県尼崎市にお住まいのようです。

 土御門家の系譜を纏めてみたものの、これだとよく分からない。やはり、家系図が必要ですね。下で出てきます。

土御門藤子とは

 本サイトの和宮シリーズを書いているとき、特に気になったのが土御門藤子です。和宮関係図書で、先ず触れられることがないのが土御門藤子の自出です。安倍晴明の直系の子孫なのですね。素敵な苗字だとは思っていたのですが。

 この「土御門」という苗字は、当時住んでいた京の通りの名前に由来するのですが、では、その通りの名前の由来は? だれも答えることができない(笑)。

 Wikipediaの記述を見てみましょう。この項は、あまりよい出来ではないのですが。

 土御門藤子: 江戸時代後期-近代の公家・土御門藤子(つちみかど ふじこ、1842?- 1875)。ふぢ、邦子、澄姫。土御門晴親の四女として京都に生まれた。第120代・仁孝天皇の典侍・橋本経子(後の観行院)付の女官として京都御所に上がる。1846年、経子が和宮を出産し、和宮の乳母となる。1860年、和宮降嫁により江戸に移る。江戸城大奥で上臈御年寄(じょうろうおとしより)となり、桃の井と称した。和宮側近として、観行院、庭田嗣子らと和宮を擁護し、大奥老女と対立した。1868年、新政府軍の江戸進軍決定に際し、徳川家存続に奔走する。和宮の使者として、橋本実麗・実梁父子に和宮の直書・慶喜の嘆願書を持参する。桑名・光徳寺で実梁に会う。京都御所で徳川家存続の内旨を得た。再び、和宮の命により実梁と進軍猶予を求めて交渉した。1869年、和宮とともに京都へ戻る。
 墓は梅林寺にあり、「邦子」と刻まれている。
  出典: Wikipedia、「 土御門藤子」 

 土御門藤子は和宮より4歳年上です。和宮が生まれたとき、4歳だった藤子は、当然、お乳が出ません。「乳母」という記述を分かりやすく書くのが辞書作成者に求められる最も基本的なこと。その他の記述を読んでも、この項の執筆者は・・・ダメですね。

 幕末、和宮の使者として、大奥最高位の上臈であった土御門藤子が二度も派遣されています。Wikipediaにはあまりにもあっさりと書かれていますが、これは命がけの使者でした。警護の侍はいたものの、双方の陣営から、いつ襲撃されるか分からないとても危険な任務でした。さらに、草津宿から先は官軍により関東の男の入京が禁じられていたため、女たちだけの旅になります。お供の女官はわずかに3人だけでした。この草津宿とは東海道五十三次の52番目の宿場で、現在の滋賀県草津市街にありました。群馬県吾妻郡草津町の草津温泉ではありません。

 もし、土御門藤子が和宮の直訴状に対する朝廷の回答を持ち帰ることに失敗していたとしたら、江戸は火の海になっていました。土御門藤子が粘りに粘ってやっと手に入れた朝廷の回答が『徳川家存続の内旨』でした。

 この『徳川家存続の内旨』を受け取った和宮は、確信を持って、天璋院篤姫と共にその後の幕府の採るべき方向を決めることになりました。もし、土御門藤子が、「和宮様の直訴状を朝廷に出しましたけれど、やはりだめでした。まったく取り合ってくれないのです。時勢柄、しかたないです・・」などと弱腰だったら、江戸城総攻撃は間違いなく行われていたでしょう。勝海舟が江戸城無血開城に大きな役割を果たしたのは事実ですが、当時の幕府は決して一枚岩ではない。下っ端の勝海舟の言うことなど幕閣の誰も聴きません。将軍の徳川慶喜はすでに上野寛永寺で勝手に謹慎しているし、おもな幕閣も国元に帰っていました。江戸城は完全にトップ不在の難破船のような状況でした。

 もっとも、慶応元年5月16日(1865年6月9日)、第二次長州征伐総攬のため徳川家茂が江戸を出発して以降、江戸城には将軍は不在でした。(天璋院と和宮が怖いので)慶喜は江戸城に寄りつかず、大阪から逃げ帰り、天璋院に面会するため登城したのが、将軍になってから初めての登城だったそうです。将軍なので登城というのも変ですが、適当な言葉が見つかりません。

 慶応4年1月21日(1868年2月14日)、和宮(静寛院宮)は徳川のための嘆願書を上臈土御門藤子に持参させます。藤子の一行は、真冬の二月に箱根を越えて江戸と京都の間を往復しています。慶応4年2月1日(1868年2月23日)、土御門藤子が桑名光徳寺の橋本実梁(東海道鎮撫総督)に書状を渡します。そして、2月6日(1868年2月28日)、和宮の歎願書を携えた土御門藤子が入京して徳川処分寛大を歎願します。粘りに粘って、やっと『徳川家存続の内旨』を手に入れた藤子は、2月18日(1868年3月11日)、京を立ち、2月30日(1868年3月23日)に江戸へ戻り、和宮に復命しました。往路が14日間、復路が12日、京都滞在が12日間でした。それは、辛く、危険に満ちた旅でした。

 さらに、同年3月10日(1868年4月2日)、和宮は土御門藤子を橋本実梁に再度派遣し、江戸進撃猶予を歎願しました。

土御門藤子-箱根越え
 「土御門藤子一行、冬の箱根越え」 Ⓒ なんでも保管庫

 土御門藤子が京の実家で亡くなったのは、明治8年(1875年)7月13日のこと。和宮が箱根で亡くなる2年前です。小説『女たちの江戸開城』(植松三千里、双葉社、2006)では、「和宮の最後を看取った側近の中に、土御門藤子と仙田九八郎がいた」と書かれていますが、そんなはずはありません。

 土御門藤子の亡骸は京都梅小路梅林寺に葬られ、墓名は「安倍朝臣邦子」となっています。
 この梅林寺が、冒頭の京都新聞で出てきたお寺です。

bairinji-1.jpg
  Photo Source: Google Street View

 梅林寺は土御門家の菩提寺で、歴代のお墓があるというのでどれだけ大きなお寺なのだろうとGoogle Earthで覗いてみたら、墓地の敷地は20m x 9m 程度しかない。意外と小さなお寺です。

 当時、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄であり、土御門家がこれにあたっていましたが、幕府天文方の天才、渋川春海の前に暦の正確さで負けてしまい、以降、苦汁をなめることになります。

 土御門藤子が実家に戻ったとき、そこには、安倍氏嫡流45代当主で、藤子の兄の土御門晴雄がいました。しかし、晴雄は、藤子が実家に戻ったその年、1869年11月9日(明治2年10月6日)に亡くなります。もし、晴雄がもう少し長生きをしていれば、日本の新暦導入の時期はもっと遅くなったのではないかと思います。

 上の家系図を見ると、この後、土御門家の後継者はよそから来ています。そのような家の相続の混乱の中で、土御門藤子はさぞ、肩身の狭い思いをしていた・・・筈はありません。彼女の実績に鑑み、土御門家の後継者選定を一手に引き受けていたのではないでしょうか。

和宮の麻布屋敷のミステリー

 1874年7月8日(明治7年)、京都から東京に戻った和宮は、明治政府が用意した麻布のお屋敷に入ります。

 このお屋敷は南部八戸藩から購入したものなのですが、本記事で何度も書いている不思議な縁のお屋敷です。

 土御門藤子は土御門晴親の四女ですが、「繁」という姉がいます(上の系図参照)。繁は、右近衛権中将 櫛笥隆韶に嫁ぎました。子供ができなかったのか櫛笥隆義を養子とします。その妻が八戸藩九代藩主 南部信順の娘南部董子。董子の弟が南部栄信。栄信の妻が南部麻子。南部栄信・麻子夫妻が明治政府に売却した旧八戸南部藩下屋敷が、和宮邸です。

 ついでに、南部麻子の姉が南部郁子。その夫が華頂宮博経親王です。博経は、1860年10月11日、和宮の兄孝明天皇の猶子となり、同日、徳川家茂の猶子となりました。

 この和宮と南部家、そして土御門家との見えない糸については、これまで誰も指摘した人はいないと思います。

 管理人が書いた和宮シリーズに必ず登場する南部家の影。とても不思議です。

お墓を保存する意味とは

 青山墓地や雑司が谷霊園など多くの墓地を徘徊している管理人にとって、冒頭の京都新聞の記事はショッキングでした。

 徳川宗家のような資産を持っている家は別ですが、多くの旧公家華族はいつの時代でも経済的には恵まれていなかったように思います。数百年、千年以上続いている家系の墓地は、個人の家で守っていくにはあまりにも重すぎるように思います。歴史的価値があるのなら、公的資金、あるいは有志による資金で墓地を保全していくことが重要かと思います。

 『墓前で手を合わせる』

 御利益を期待するわけでもなく、真摯に故人の冥福を祈る。そんな場が墓地ではないでしょうか。神社だと、どうしても御利益を期待する心の方が先に出てしまう。

 梅林寺の土御門家墓地の問題は、なんとかしなければいけないと思います。新聞記事をきっかけとして、墓地保全の動きが出れば良いのですが。

 でも、梅林寺側ももっと努力すべきかも。ネット上にほとんど情報がないし。墓地が一般に公開されているのかどうかもよく分からない。たぶん非公開です。

 例えば、ポケモンGoで「土御門藤子」⇒「土御門泰福」⇒「安倍晴明」と進化するモンスターをここでしかゲットできないとすれば、お寺への来訪者は天文学的数字になるでしょうね。天文道(天文密奏)の土御門家が望む姿かも。

 この記事を読んでも、何のことかさっぱり分からない・・という方のために、和宮関連家系のフロー図を作成しました。クリックすると拡大表示できます。

family-tree-Kazunomiya.png


 この関係図を作っていて気づいたのですが、和宮、家茂、土御門藤子は、誕生した年に父親が亡くなっています。この意味で、この三人は同じ境遇だったといえます。

 このフロー図を作るのは結構時間がかかります。
 次に、土御門家の家系図です。藤子の父親の代以降、すなわち、44代から50代で作りました。

family-tree-Tsuchimikado1.png
     土御門家家系図(44代〜50代)

 土御門家の家系を紐解くと、46代の晴栄(実父:錦織久隆、妻:冷泉秀子)の時点で、土御門家の血筋は絶えています。実際には、それ以前に絶えているのでしょうが。家としては養子縁組により存続していますが、血のつながりはありません。

 歴史好きの人は、すぐに「一次史料を挙げるべき」と主張します。都合の良い1次資料などないのが歴史なのに。1次資料から積み上げていく歴史のアプローチは、はっきり言って逆さまのように思います。

 最後に、京に戻った後の土御門藤子について。

 和宮が京都に戻ったときに書いた「静ェ院宮御日記」を読むと、藤子が少しだけ登場します。実家に戻ったという説は本当なのでしょうか。何となく、和宮の傍にずっといたような気がします。婚期は逸しているし、他にやりたいことがあったとも思えない。

 梅林寺にある藤子の墓石には次のように書かれているそうです。
 あなたならこれをどう読み、どう解釈しますか。立派な1次資料です(笑)。

  • 「安倍朝臣邦子 墓」
  • 「明治八乙亥年(1875)六月十有四日薨」
  • 「従萬延元庚申(1860)至明治七甲戌年(1874)和宮上臈勤位」
[4]


【出典】
1. 「世界帝王事典
2. 「直球感想文 和館
3. 「土御門家 阿倍氏嫡流」、Majesty's Room
4. 「江戸末期の土御門家と陰陽書出版について : ふたつの皇和司天家鑒本『陰陽方位便覽』の考察を中心として」、水野杏紀、人間社会学研究集録. 2008, 4, p.77-118
   藤子の母親の名前『高津』は、『皆川家文書』に書かれているもので、ネット上にはありません。論文のp.79を参照。


posted by ネコ師 at 22:28 | Comment(0) | 皇女和宮の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月02日

「静寛院宮御日記」のダウンロードと幻の『和宮フォント』


 皇女和宮の『静寛院宮御日記』というものがあります。明治元年から明治6年まで和宮が付けていた日記です。

 『静寛院宮御日記』のオリジナルは、和宮直筆で書かれたもので、管理人にはとても読めませんが、国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている「『静寛院宮御日記 上』、正親町公和偏、皇朝秘笈刊行会、1927」は、正親町公和(おおぎまち きんかず、1881年 - 1960年)氏らによって取りまとめられた書籍で、活字体になっているので、何とか読むことができます(実際には、なかなか難しいのですが)。

 「国立国会図書館デジタルコレクション」では、このような古い書籍の閲覧が可能で重宝するのですが、本の見開きをマイクロフィルム化したものをそのまま公開しているため、実際に読もうと思うとなかなか根気が入ります。表示の縮尺がうまく調整できないので、ノートパソコンで見ているとイライラします。

 とにかく読みにくい。上巻だけでも600ページ以上ある『静寛院宮御日記』をすべて閲覧した人っているのでしょうか。ノートパソコンでは、現実的に不可能ではないでしょうか。とても疲れます。

 JPEG表示にして、それをダウンロードすることも可能ですが、それからどうしたら良いか悩んでしまいます。

 使い勝手が良いのは、各見開きページをPDF化し、それらを一つのPDFファイルに結合する。これだととても扱いやすく、読むのもかなり楽になります。さらに、OCRテキスト認識で、テキストとして抽出することも可能になります。ただし、昔の字体・仮名なので、テキスト認識ができない箇所もあるでしょうが。

ダウンロードとファイルの結合

 今回は、次の方法を採ってみました。

1.JPG形式のファイルとしてダウンロード。@「次に」を押して、Aスライド番号を確認、B「JPEG表示」をクリック。JPEG出力倍率を100%にします。保存するファイル名はAのスライド番号にすると、後でとても便利です。ファイルの数は330個になります。根気が必要です。

setting001.png


 連続でダウンロードするとエラーがでます。エラーが出た場合には、30秒以上間隔を空ける必要があります。

error_message001.png


2.ファイルのトリミング。ファイルの上下にある不要な部分をトリミングして取り除きます。全ファイル一括で処理します。ファイルサイズを小さくするために不可欠な処理です。

3.JPGファイルをPDFに変換します。

4.PDFファイルの結合。本当は一つのファイルにしたかったのですが、ファイルサイズがとても大きくなるのであきらめ、分割しました。読む分にはそれほど不便ではありません。

 実際にやってみると、丸一日以上かかります。大変な作業です。
 文字がぼけたりかすれたりしていると読んでいて疲れるので、高画質で出力。このため、とても大きなファイルになってしまいました。仕方ありません。

 上の2.の作業はIrfanViewで行います。トリミングの設定値は以下の通り。

trimming_IrfanView.png


 IrfanViewでは、トリミングと同時にPDF変換もできるのですが、一部のファイルにエラーが出て、正常終了しません。このため、@トリミングしてGIF形式で保存、AそれをPDFに変換、という二段階の作業をしました。

 編者の正親町氏が、昭和2年9月2日付けの巻頭「感謝の辞」で、静ェ院宮の功績が忘れられていると嘆いています。この時点でさえ世間から忘れられていた和宮。

 このように見ると、昭和33年の和宮墓の発掘調査は、和宮が現代に蘇るきっかけになったと言えそうです。発掘された和宮の遺骸から左手の骨が見つからなかったということで様々な憶測を呼ぶことになりますが、それはそれで、和宮の魅力の一つになっているようです。

 ちなみに、和宮暗殺説を唱える人は、この日記のことは完全に無視しています。京都で何をしていたのか記録がないとか(笑)。この日記がねつ造されたものだとはとても言えないので、なかったことにしているのでしょうね。和宮暗殺説の筋書きが崩壊するので。

 完成したPDFファイルは、全部で35もあります。一つのファイルが65MBもあるので、これ以上結合するのをあきらめました。やはり、PDFファイルは読みやすい。サクサクと読めます。これから熟読して、和宮についての知見を深めたいと思います。

 『静寛院宮御日記』は上巻、下巻の二冊からなり、その目次は以下のようになっています。

Seikannin_diary_index.png


驚きのツール『和宮フォント』

 管理人が読みたかったのは、『静寛院宮御詠草』。和宮直筆のものは「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能ですが、何と書かれているのか全く分からない。直筆を読むのは管理人には無理です。しかし、書籍『静寛院宮御日記』の上巻には『静寛院宮御詠草』の一部が収録されているのでとても助かります。

 なぜ、助かるのか。
 
 ある素敵な文章、文言を見つけた時、もし和宮だったら、どんな美しい文字でこれを書いたのだろう? そんな想像に駆られます。和宮ファンだったら、この文章を和宮が書けばどうなるのだろう、と想像してしまいます(管理人だけかも)。

 それを実現できるのが『和宮フォント』。和宮の直筆で構成された幻のフォントです。残念ながら公開することはできないのですが、個人的な楽しみとして『和宮フォント』を鋭意作成中です。

 『和宮フォント』って、素敵な響きがしますよね。雅やかで、凜とした張りがあり、いにしえと、幕末、明治をも感じさせる。貴重なフォントです。これを欲しくないですか? 欲しい方は、がんばって自分で作りましょう! 


posted by ネコ師 at 00:17 | Comment(0) | 皇女和宮の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月29日

和宮が晩年に住んでいた麻布のお屋敷(跡地)に行ってきました


 以前、『皇女和宮が晩年に住んでいた邸宅の場所は、現在ではどこになるの?』という記事を書きました。

 和宮の足跡を訪ねている方も多いのではないでしょうか。そんな方に役立つ情報です。

 前回の記事では、机上のお話しでしたが、今日は、実際の現地のお話しです。先日、現地に行ってきましたので、現状を詳細にご紹介できます。やはり、臨場感が違いますね。

 1874年(明治7年)7月8日、京都から戻った和宮は、一旦、降嫁の際に宿泊した清水邸(現、武道館)に入り、その後、明治政府が用意した麻布のお屋敷に移ります。

 ここでの和宮の生活は、隠遁生活であったようで、一歩も外へは出なかったそうです。

 1875(明治8)年1月31日に静寛院宮邸を明治天皇と皇后陛下が訪れています。
午前11時頃、皇后陛下が到着。午後1時頃天皇陛下が到着され、夕方6時頃まで滞在されました。

 1876(明治9)年5月5日、静寛院宮邸に天皇皇后両陛下が再び行幸します。
正午過ぎに到着し、能楽天覧、饗宴が行われたそうです。同行したのは岩倉右大臣など。

 和宮が京都にいた時の日記(「静ェ院宮御日記」)を読むと、例えば、明治3年1月11日に「后宮様よりお年玉を給わる」と書かれています。また、1月22日にも「后宮様より御便り、鮭給わる」とあり、頻繁に手紙のやりとりが行われていたようで、皇后は和宮にかなり気を遣っていた感じです。皇后が東京に移るのは明治5年4月なので、当時はご近所に住んでいたということです。

 当時、麻布の和宮邸には30人くらいのお付きの女官たちがいたようです。
 お付きの人に傅かれてさぞや楽しい隠遁生活・・・とは思いません。使用人を使うということは、実際には大変なこと。毎日発生するいろんなトラブルの処理をしていたのでしょう。

 この麻布のお屋敷があったのは、当時の住所で『麻布市兵衛町一丁目十一番地』です。
 敷地面積は3000坪。高台のひな壇で日当たり良好な場所にあります。

 下の地図の南東方向に「金地院」が見えます。ここは八戸南部藩の菩提寺です。そう、和宮のお屋敷は、旧八戸南部藩上屋敷を購入したものですね。そして、金地院の南隣りには、現在、東京タワーがそびえています。

Map_Azabu1876.png
Source: 「明治東京全図 1876(明治9)年」


 現在の住所は、『東京都港区六本木1丁目9番1号』のあたりです。地下鉄の最寄り駅は都営南北線の「六本木一丁目」駅で、駅から徒歩5分程度です。



 旧和宮邸の現在の土地にはビルが建っていると思ったのですが、実際には公園のようになっています。

旧和宮邸を歩く

 旧和宮邸まで行ってきましたので、写真でご案内します。

 道路は当時とほとんど変わらないのですが、一部変更になっています。
 当時は、敷地の西側と南側が道路に面していましたが、現在では下の図のようになっています。

Kazunomiya_Palace02.jpg


 当時の地図を元に、現在の状況を見ていきます。
 下の地図の番号に付いている矢印が写真の撮影方向を示しています。この地図がないと、写真で東とか南とか言われてもさっぱり分かりません。この地図で位置を確認しながら写真をご覧下さい。

Kazunomiya_Palace_Map.jpg


【写真@】
 「六本木一丁目」駅から歩くと、「ラフォーレミュージアム六本木」の大きなビルが見えてきます。
 このビルの前で原発反対のデモをしている人たちを見かけました。調べてみると、原子力規制委員会・原子力規制庁がビルの中に入っているようです。和宮と原子力。何とも不釣り合い。

 このビルは旧和宮邸の西側の境辺りに建っています。つまり、写真の正面に見えるビルの右側の敷地が旧和宮邸です。

Kazunomiya_Palace01.jpg


【写真A】
 旧和宮邸に接する道路で、東側を望んだ写真です。道路は下り傾斜になっています。

Kazunomiya_Palace02.jpg


【写真B】
 道路脇には、マンションのような建物が建っています。会社の施設ではないかと思います。カーテンが皆同じで、生活感がないので、通常のマンションではないようです。

Kazunomiya_Palace03.jpg


【写真C】

 敷地南側の境を東方向に望んだ写真です。この写真の少し右手に東京タワーが見えます。
 道は少し下り坂になっています。道路の右側はかなりの落差のある崖のようになっています。道路の左側が旧和宮邸です。道路より少し高い位置にあります。

Kazunomiya_Palace04.jpg


【写真D】

 南側の道路から北側を望んだ写真です。
 石段があり、そこを昇ると公園になっています。

 
Kazunomiya_Palace05.jpg


 ここに看板があります。看板には下のように書かれています。何とも味気ない文章です。和宮のことは一言も書かれていません。港区の職員のやる気のなさがひしひしと伝わってきます。まあ、有名になっても困るのですが。

Kazunomiya_Palace5-1.jpg


 『SITE PLAN   この広場及び道路は建築基準法に基づく総合設計制度により設けられた公開空地で歩行者が日常自由に通行又は利用できるものです。平成5年10月、東京都都市計画局』

 旧和宮邸が公園のようになっているのは、ここが歴史的に貴重な史跡だと意識したわけではなく、単なる法律で空き地が必要だったということのようです。高い金をかけてこんなつまらない看板を立てている。東京都って・・・、アホですね。港区も教育委員会があるのにおバカさんばかりのようです。都の職員は、ここがどんな由来の土地なのか、何も知らないということでしょうか。

【写真E】

 旧和宮邸の東側の境付近です。石畳のきれいなスロープになっています。

Kazunomiya_Palace06.jpg


Kazunomiya_Palace6-1.jpg


【写真F】

 旧和宮邸の北側から南側を望んだ写真です。

Kazunomiya_Palace07.jpg


【写真G】

 旧和宮邸の北側の境界近くから東南を望んだ写真です。ビルの谷間から東京タワーが見えます。

 
Kazunomiya_Palace08.jpg


【写真H】

 旧和宮邸敷地北側の境付近にある御組坂(おくみざか)。

Kazunomiya_Palace09.jpg


【マルA】

 いよいよ旧和宮邸の敷地内に入ります。

 敷地内はまさに公園といった感じで、快適な空間が広がっています。

 高画質パノラマ写真をアップします。写真をクリックすると拡大表示できます。

 この場所はとても快適な空間でした。石でできたベンチに座り、往時の和宮様を偲ぶという贅沢な時間を味わうことができます。

 
Kazunomiya_Palace_A1.jpg


Kazunomiya_Palace_A2.jpg


 皇女和宮は、1874年(明治7年)7月8日にこの屋敷に入り、1877年(明治10年)8月7日、主治医に湯治を勧められ、療養のため箱根の塔ノ沢温泉へ向け、この屋敷を後にします。

 そして、ちょうど一ヶ月後の9月6日午後2時10分頃、和宮は再びこのお屋敷に戻ってきます。遺骸となって。

  9月13日午前11時、和宮の亡骸は麻布のお屋敷を後にし、増上寺に向かいます。
 以降、和宮がこの屋敷に戻ってくることはありませんでした。

 後には、主人のいない館がひっそりと佇むばかりでした。

 現地に行ってみて感じたことは、増上寺まで近いということでした。
 和宮は家茂のお墓に何回お参りしたのでしょうか。ちょっと気になる。

 帰りは金地院に寄って、その後、全面改修中で中に入ることができない東京プリンスホテルの脇を通り、浜松町まで歩いて帰宅しました。本当は、和宮宝塔があった場所を確認したかったのですが、ホテル全体が工事用シートで覆われていて、入ることができません。

 
Konchiin01.jpg



posted by ネコ師 at 21:50 | Comment(0) | 皇女和宮の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

和宮の死の真相に迫る! 和歌に隠された暗号



はじめに


和宮銅像実写版
和宮銅像の実写版
(増上寺安国殿で撮影した銅像をベースに実写化。お顔は明治の美女、朝吹磯子にしました)


 明治10年9月2日午後5時頃、箱根湯本、塔ノ沢の環翠楼において、皇女和宮(静ェ院宮)は31歳の若さで薨去されます。その死因は脚気に起因する心不全とされています。

 これが、管理人が皇女和宮の謎を追う中で妙に引っかかっていた部分です。

 和宮は突然亡くなった分けではなく、前々日には重篤な容体に陥っていたと思われます。明治10年9月1日付け讀賣新聞と東京日日新聞に、『箱根へ御滞留の静ェ院宮は御病気の御様子にて、宮内省より山岡大書記官がお見舞いにまゐられます。』という記事が載っています。つまり、8月31日の時点で、和宮の容体がかなり悪化していたことが分かります。

 明治10年9月1日 東京日日新聞記事
「静ェ院宮は箱根塔の澤の湯にて御養生中なるが、御病症は脚気にて近ごろ追追重らせ玉ふよし。去る31日の夜急報ありしとて宮内省より、山岡大書記官、伊東二等侍醫、池田三等侍醫、ほかに属官3、4名を引き連れ御見舞として一昨日出立せられたり。」

 この時期、8月29日に宮内省改革があり、9月1日付けで山岡大書記官が宮内省庶務内廷課長に就任することになっていました。

 また、東京日日新聞、9月1日付けで、「伊勢神宮へ奉幣使として橋本式部権助は本日東京を出立せられ、陸路東海道を経て、途中、箱根宮ノ下に立ち寄り、即今同所にて御養生あらせらる静ェ院宮の御機嫌を伺るると承はれり。」というの記事があります。

 この橋本式部権助とは、橋本実梁(さねやな)のことでしょう。父親は橋本実麗(さねあきら)で、和宮の母親、橋本経子とは兄弟の関係にあります。つまり、橋本実梁と和宮はいとこ同士の関係です。

 和宮との関係でみれば、江戸城総攻撃の際に和宮が手紙を送った相手です。「1月15日、慶喜は天璋院の仲介で和宮に面会、隠居と継嗣の選定、謝罪の伝奏を願ったが、和宮は謝罪の件のみを引受けた。和宮は天璋院と相談して、征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王には土御門藤子を、東海道鎮撫総督・橋本実梁には上臈・玉島をそれぞれ歎願の使者として差し向けることにした。」(Wikipedia、「和宮親子内親王」)

脚気で亡くなった家茂の最後の状況

 和宮の夫で14代将軍の家茂。彼も脚気で亡くなったとされています。
 その時の状況とはどのようだったのでしょうか。和宮と同じ病で亡くなっているので、家茂の死の間際は和宮の最期の状況と似ていたのではないでしょうか。

 そこで、記録が比較的残っている家茂の薨去までの状況を追ってみましょう。

 当時の将軍に出されるご飯は、米を一粒一粒吟味して、ヌカを徹底的に洗い落としてから炊いていました。当然、ビタミンB1がすべて取り除かれてしまいます。これが脚気発症の主因になっているようです。

 慶応元年5月16日(1865年6月9日)、家茂は、第二次長州征伐総攬のため江戸出発します。5月22日(1865年7月14日)、入洛・参内し、長州征伐の趣意書を朝廷に提出します。3度目の上洛でした。

 二日後の5月24日(1865年7月16日)、大坂城に入り長州征伐の大本営とします。
 ところが、6月に入ると、足の腫れ、むくみなどの症状が出て、次いで全身倦怠感や手足のしびれなど脚気特有の症状に見舞われることになります。

 7月9日(1866年8月18日)、和宮は家茂病気の報を受け取ります。
 7月16日(1866年 8月25日)、和宮と天璋院が急派した奥医師、大膳亮弘玄院・多紀安琢(養春院)・遠田澄庵・高島祐庵・浅田宗伯が大阪城に到着し治療にあたりました。

 しかし、真夏の暑さが脚気を悪化させ、さらに、見舞品の甘味もそれに追い打ちをかけることになります。無頼の甘党である家茂のもとには、羊羹、カステラや金平糖などが次々と届けられました。

 糖分はビタミンB1の消費を促し、脚気を悪化させることにつながりました。
 家茂の墓の発掘によって、彼には30本の虫歯があったことが確認されました。成人の歯の数は親知らずを含めて32本なので、ほぼすべての歯が虫歯に冒されていました。このときあった虫歯がもとで、咽頭炎などの感染症があると、発熱が起こり、発熱は脚気を悪化させてしまう。

 家茂は、江戸医学所頭取の松本良順(外科医)をとても信頼しており、松本は家茂が薨去するまでの約3週間、松本良順は、つきっきりで家茂の看護に当たることになります。有名な家茂と同じ布団で寝たのはこの時です。

 家茂の最期の状況は、病床でうわごとを言ったり、錯乱状態になったようです。死ぬ間際の錯乱の原因は、ウエルニッケ脳症であったと推察できるようです。重症の脚気が脳にまで及ぶと、錯乱症状が見られるとか。
(この部分の記述は、武将たちの病を研究されている若林医院院長 若林利光氏による)

1.いったい、何があったのか?


 当時、和宮は1877年(明治10年)8月7日に箱根塔ノ沢を訪れ療養中でした。地元の人たちを招き歌会をするなど、病状は快方に向かっていたと考えられていました。ところが、9月2日に急逝します。

 上で示したように、当時の新聞報道を辿れば、8月31日に和宮の容体が悪化したことが東京の宮内省に伝わっていたことが分かります。

 宮内省内での静ェ院宮担当者は『静寛院華頂宮家政取締役』。静ェ院宮と華頂宮をお世話する役職がありました。この『華頂宮』とは、和宮ともゆかりの深い宮家です。ちなみに、当時は『宮内庁』ではなく『宮内省』でした。

 華頂宮博経親王は、万延元年(1860年)8月、徳川家茂の猶子になっています。つまり、和宮の子供。そして、同日、和宮の兄、孝明天皇の猶子にもなっています。天皇の猶子になった理由は、親王宣下をもって親王とする慣習があったためです。皇族あるいは天皇の子供であっても親王宣下を受けないと親王にはなれません。

華頂宮博経親王
         華頂宮博経親王

 ちなみに、和宮の場合、降嫁に先立ち、文久元年(1861)4月19日、内親王宣下を受け、諱を親子(ちかこ)と賜っています。和宮直筆の【静寛院宮御詠草』には「親子」の署名が巻毎にされています。和宮は、成人した後も幼称「和宮」と呼ばれることを好んだことから、広く和宮と称されています。逆に「親子」という記述はほとんど見かけません。なにしろ、フリガナがなければ「おやこ」と読んでしまうので、内親王などを付けたりして誤読を避け、「親子」単独で使われることはないようです。

 華頂宮博経親王の正室は南部郁子。郁子の妹が南部麻子。明治7年に南部麻子は八戸南部氏第10代当主南部栄信と結婚。南部麻子が住んでいた麻布の旧八戸南部藩上屋敷を買い上げ、移り住んだのが京都から東京に戻った晩年の和宮でした。

 極めつけは、下の写真です。南部郁子・麻子姉妹の父親、南部利剛と「和宮」といわれる女性の写真。二人が座っているのは同じ椅子です。しかも、この白い飾り紐の付いた特殊な椅子は他の古写真では見ることはできません。

南部家とのつながり


 この和宮といわれている被写体は、実は和宮ではなく、「柳澤明子」です。大和郡山藩の最後の藩主柳澤保申(やすのぶ)の正室で、公卿左大臣一条忠香(ただか)の次女です。そして、明治天皇皇后・昭憲皇太后の姉にあたる方です。この写真は清水東谷写真館で撮影されたものです。

 この写真は、和宮ではないのですが、最後の将軍慶喜の後、徳川宗家を継いだ徳川家達( いえさと)が和宮と見間違うくらい柳澤明子と和宮はお顔が似ていたと管理人は考えています。何しろ、この写真は、箱根・阿弥陀寺だけでなく、徳川宗家にも和宮の写真として保存されているのですから。(関心のある方は過去記事『皇女和宮の写真の真偽を確認する』をご覧下さい。)

 和宮が亡くなった時、喪主である徳川宗家を嗣いだ徳川家達は14歳で、英国に留学中でした。
 家達が日本を発ったのは1877年6月11日で和宮薨去の3ヶ月前のことでした。その後家達は、イギリスのイートンカレッジで学び、1882年(明治15年)10月19日に帰朝します。

 和宮の写真とされる根拠にもなっている箱根阿弥陀寺に寄進されたこの写真。寄進者の祖母が昭憲皇太后に仕えた女官長高倉壽子(当時88歳、1840−1930)に和宮本人の写真であると確認したのが1928年1月27日のこと。この典侍高倉壽子は、和宮の葬儀に皇后宮の御名代として参列しています(当時37歳)。

 徳川宗家を嗣いだ家達はこの時(1928年)、64歳で健在でした。家達は和宮に何度も会っている人です。それなのに、この写真は徳川宗家に、「第九六號 静寛院宮御寫真」と墨で書かれた紙と共に保管されていました。当然、家達は、写真は和宮本人のものだと認識していたことになります。

 でも、実際には違いました。写真は、間違いなく柳澤明子です。なぜ、高倉壽子だけでなく、家達までもが写真を和宮だと見誤ったのでしょうか。

 これは、当時のお化粧が影響しているように思います。徳川家達が見間違うのも納得がいきます。そもそも、当時の女性は厚化粧でお顔がよく分からない。例えば、鍋島直正の長女、松平慈貞院(健子・貢姫)の写真を見ると、とてもきれいな方のようですが、化粧していない素顔を想像できそうにありません。

松平慈貞院(健子・貢姫)color


 さらに、和宮と柳澤明子は同い年です。二人は姿形がとても似ていたのでしょう。だから、和宮をよく知る二人とも見誤った。逆の見方をすれば、この写真は、『当時の和宮の面影を色濃く映し出した柳澤明子の写真』と捉えることもできます。つまり、この写真は和宮ではありません。それで終わり。ではなく、和宮の容姿がうかがえる貴重な写真であるということです。

 もう一つ、興味深い情報を提供しましょう。家茂・和宮夫妻と柳澤保申・明子夫妻の誕生日です。
 この謎に関わる二組のペアが全員、弘化3年生まれです。

  • 和宮      弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)
  • 家茂     弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)
  • 柳澤明子  弘化3年10月23日(1846年12月11日)
  • 柳澤保申  弘化3年3月26日(1846年4月21日) (Wiki記述とは1日違う)


 いかがでしょうか。華頂宮家、そして、南部家との関わりが尋常ではないと感じるのは管理人だけでしょうか。この辺は、別の記事で書いているので関心のある方はそちらをお読み下さい。

 話を戻します。

 新聞報道に記載された、お見舞いのため和宮薨去の前日に塔ノ沢を訪れた宮内省の『静寛院華頂宮家政取締役』を努めた山岡大書記官とは、山岡鉄舟(1836年7月23日-1888年7月19日)のことです。
 
 幕末・維新の混乱期に和宮の身辺警護を任せられる人物として朝廷の信頼を得ていたのが、江戸城無血開城の直接的立役者である勝海舟と大久保一翁、そして、山岡鉄舟。人格者である山岡鉄舟に心酔している方も多いようです。

 その山岡が塔ノ沢環翠楼を訪ねたのは、明治10年9月1日のこと。そして、翌9月2日午後5時頃、和宮は薨去されました。山岡は、環翠楼か近くの宿で一泊し、翌日に東京に戻ったと考えられます。そして、和宮薨去の訃報を聞くことになる。

2.和宮の死因についての疑問


 管理人は、和宮の死因について以前から疑問を持っていました。

 大部分の人は心臓が止まって死ぬ。その結果、直接の死因は「心不全」となる。心不全は病名ではないと言うことです。そんなの当たり前じゃないか、と思われますが、そうではないケースもあります。例えば、首を切り落とされた場合。心臓は動いていてもその人は死んでいますよね。

 和宮の死因は「脚気衝心(かっけしょうしん)」と言われています。これは、脚気に伴い心臓機能の低下・不全(衝心)を併発したときに呼ばれる症状です。

 しかし、和宮は激しい下痢に襲われていました。脚気で下痢の症状は出るのでしょうか。

 調べてみると、脚気が原因で下痢になるようです。しかし、激しい下痢というのが引っかかる。

 そもそも脚気は「江戸患い」とも呼ばれ、江戸を離れれば病状は改善する。食生活が変わるからです。和宮の場合も快方に向かっていたようです。それが急に脚気衝心で亡くなるということに違和感を覚えました。和宮の本当の死因は別なのではないだろうか。

 和宮がなぜ箱根塔ノ沢で療養することになったのか。これは、麻布のお屋敷で、和宮付の女官が脚気で亡くなったことが理由のようです。脚気の原因が分からない中、「江戸患い」である脚気の治療には、江戸を離れ、転地療法することが最も効果的だと考えられたようです。

 通常、これで死因の推理は終わるのですが、管理人が和宮の謎の解明として新たな記事を書くことになった理由は、別にあります。

3.和宮の葬儀への出席者があり得ない!


 和宮の葬儀は、9月13日に増上寺で行われ、その後、家茂のお墓の横に埋葬されます。
 和宮の葬儀の様子についてはネット上にはありません。唯一あるのは当サイトの記事だけです(『明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く』)。この記事は、当時の新聞報道を調べて記載したものです。

 その記事を書いている時に奇妙なことに気づきました。
 和宮の葬儀に参列した人たちが、「ありえない!」メンバーたちだったということ。

 それは、「名代」「御名代」を立て「御代拜(拝)(ごだいはい)」している人の多さ。高貴な方は誰も葬儀に参列していないという事実です。 
【葬儀参列者】(明治10年9月14日付け 葬儀翌日の讀賣新聞より抜粋)
  • 主上の御名代は徳大寺公
  • 皇大后宮の御名代は権典侍西洞院成子
  • 皇后宮の御名代は、典侍高倉壽子(ひさこ)
  • 桂宮(かつらのみや)様の御名代は、三上命婦 (みょうぶ)
  • 二位の御局の御名代も命婦
  • 北白川宮の御名代は畑中正景(はたなかせいけい)
  • 東伏見宮の( ひがしふしみのみや)の御名代は谷岡之助
  • 山階宮(やましなのみや)の御名代は金谷忠章
  • 喪主徳川家達君の名代は松平確堂君
  • 天璋院さまと徳川慶喜君と同君の奥方の名代は一色能一
  なんでも保管庫『明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く

 「御代拜(拝)(ごだいはい)」とは、「代理人が祭祀を代行すること」。つまり、皇太后、徳川慶喜、天璋院篤姫などご本人は出席せず、代わりの者が拝礼したということです。高貴な方々はほとんどが「御代拝」。これにはとても違和感を覚えました。

 最初は、高貴な方は葬儀に出席しないのが当時の慣わしかと思ったのですが、どうもこれはおかしい。

 このことが心の隅にずっと引っかかっていました。まるで、汚れ物を避けるかのような行動のように感じます。

4.和宮の死因に迫る!


 もしかして、「和宮のご遺体は病原菌に汚染されていたのでは?」。

 ふと、こんな考えが浮かびました。

 和宮の本当の死因は、別の病気だったのではないか。そして、その病気故に、高貴な方々は感染を恐れ、葬儀への参列を辞退し、名代を立てたのではないのか。それを知らない外部の人たちは本人が参列した。

 そのように考えた理由は、吉益亮子の情報が全く見つからないことと関係があります。明治維新に米国に派遣された5名の女子留学生の最年長者である吉益亮子は、眼病を患い、1年足らずで帰国することになります。そして、1886年秋、コレラにより亡くなっています。ところが、それ以外の情報が全く見つからない。亡くなった日付けも場所も、お墓の場所さえもわからない。当時の新聞を調べたのですが、見つけることができない。1886年のコレラによる死亡者の数があまりにも多いというのが理由のひとつだと思います。

 吉益亮子の死亡時の情報がない。埋葬の記録が見つからない。
 これって、和宮の場合と似ている。

 そこで、次のような仮説を立ててみました。

 当時、恐れられていた疫病とは、コレラ(虎列剌)。発病後数時間で死に至る場合もあり、罹患者の致死率は60〜70%。原因が分からず、当時、とても恐れられていた伝染病でした。発病三日目には簡単にコロリと死んでしまうことから「三日コロリ」とも呼ばれ、とても恐れられていました。このような状況から、迷信や偏見などにより罹患者は迫害を受けることもありました。このため、この病で亡くなった場合は、それを隠匿するということもあったのではないでしょうか。

 感染経路が「経口」、「接触」、「空気」なのかも分からない状況では、庶民がパニックに陥ることは容易に想像できます。コレラで亡くなった人の葬儀への参列など怖くてできません。空気感染への懸念もあったわけですから。ドイツ細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見されたのは1884年のこと。和宮が亡くなってから7年後のことです。

 では、和宮薨去の年、すなわち、1877年9月、コレラは日本で発生していたのでしょうか。
 実はこの年、19年ぶりにコレラが大発生していました。まさに、和宮が亡くなった明治10年9月に横浜で発生し、全国に広がった、との記述もあります。

 定説では、明治10年(1877)のコレラは、9月6日、横浜で確認されたコレラ患者が最初とされているようです。この年のコレラ感染経路は三つあり、コレラ患者の発生は、横浜経路、長崎経路が9月6日、軍隊系統が9月中旬とされています。

 「横浜の初発患者は九月五日、居留地三番館米国製茶会社(ウォルシュ・ホール)の従業員二名であった。病源はアモイから輸入した物品がコレラに伝染していたためと推測される。横浜毎日新聞によれば、上記の初発患者は間もなく死亡、さらに同業者13人が発病、原因は同館の便所のそばの汚染された水を飲んだためと見られ、ただちに水の使用を禁じたと報じられている」(神奈川のコレラ)[7]

 もし、これが正しければ、9月2日に薨去された和宮の死因がコレラであるという仮説は成立しません。しかし、定説と言われる話ほど疑ってかかる必要があります。

 実はその前月、8月27日に内務省から「虎列刺(コレラ)病予防法心得」が公布されています。
 この通達は、検疫についての権限、隔離病棟の設置、患者の隔離、死亡患者の埋葬許可規定などとても厳しい内容になっています。さらに、病菌に汚染された物品の授与などの禁止、患者・汚染物の扱い、死体のむやみな移動禁止などの規定が設けられています。

 前掲書には、次のように書かれています。
 「ここで注意すべきことは、明治十年八月二十七日、内務省達乙第七九号で「虎列刺(コレラ)予防法心得」が発せられていることである。(中略)内務省達の出た八月二十七日はこの年のコレラ初発患者の出るほんの数日前であったことが注目される。日本では十五年近くもコレラの発生を見なかったが、南アジア、中国などの状況からみて、日本侵入間違いないと見た内務省はかなり突っ込んだ通達を出したのである。(中略)既述の通り、実際の流行を見たのが九月五日なので、これらの記事の掲載は誠に時宜を得たものであった。」(神奈川のコレラ p.8)[7]

 管理人の疑問は、「時宜を得たものであった。」というのは本当かということ。当時の内務省の仕事ぶりからして、時宜を得た行動をしたのは、後にも先にもこの時だけではなかったのか。そうであるならば、「時宜を得たものであった。」という見方自体が誤っているのではないか。内務省は、国内でコレラ患者が発生したとの情報に接し、急遽、通達を出したのではないのか。

 明治10年のコレラは、8月に発生していたのではないか。

Korori01.png
「流行虎列刺病予防の心得」橋本直義画、明治10 年(1877 年)


 上の絵からも分かるように、明治10年の段階においても、庶民の間でコレラは「虎狼狸(コロリ)」、つまり、虎、狼、狸が合体したような姿をしていると考えられていた時代です。

 管理人は、この「心得」公布の時期が気になりました。和宮薨去の6日前です。
 コレラの発生は、気温の高い夏が最も危険でしょう。なぜ、秋に入ろうという8月末の公布なのか。

 一般には、お隣清国で7月に発生したコレラの流行状況を踏まえ、急遽取りまとめられたものとされています。
 
 調べてみると、上で書いた『定説』とは違う状況が見えてきます。

 別の資料を見ると、7月時点で大阪でコレラ患者が発生していたようです。(明治10年7月25日付けのクララの日記)

 また、Wikipediaには「西南戦争直後の1877年(明治10年)にも流行し、この年の夏は長崎から関西地方・関東地方に広がって、東京では北品川、市ヶ谷、本所において病院が新しく急造されるほどであった。この夏だけで614人がコレラのために死去している(Wikipedia, "コレラ")」との記述もあります。

 「ゲールツが横浜司薬場監督時代に日本の防疫行政の基礎をつくったことも忘れられない。明治10年8月、外国船の運んできたコレラ菌が全国的に蔓延し、治療の手立てがないまま次々に患者が亡くなった。」(「くすりの社会史:人物と時事で読む33話」、西川隆、2010、p.21)

 「明治10年の流行は患者一万四千、死者八千余で終息した」[1]

 この後にも10万人以上の患者を出したコレラの流行がたびたび起きています。しかし、明治10年の流行は特別なもので、明治になってから初めての流行でした。

西暦和暦患者 数
1877明治10年13,816
1879明治12年162,837
1881明治14年9,389
1882明治15年51,631
1885明治18年13,824
1886明治19年155,923
1890明治23年46,019
1891明治24年11,142
1895明治28年55,144
1902明治35年12,891
1916大正 5年10,371
1946昭和21年1,245
Source: 『医制百年史』資料編、厚生省医務局、1976、p.545


 コレラが蔓延している地域で採れた、あるいはそこから輸入された、コレラ菌で汚染されている食べ物が和宮に献上された。地域にコレラ患者が次第に増加するのではなく、汚染された献上品によって箱根塔ノ沢でピンポイントで発生したコレラ患者。そのようなことがあったのではないか。珍しい献上品のため、それを食べたのは一人だけ。

 もしそうであるとすれば、この「献上品」とは煮炊きをせずに生で食するもの。女性が喜んで食べそうな異国の果物、とくに、バナナあたりが有力な候補でしょうか。コレラと言えば、やはりバナナでしょう。

 この真偽は確認のしようもないのですが、あながち否定もできないように思えます。

 和宮と縁のある要人が和宮の葬儀に誰も参列していないという謎はこれで説明できます。

 和宮の薨去から葬儀・埋葬の記録がほとんど存在しないということも、これで説明できます。

 和宮の葬儀の形式を仏式にするか神式にするかでもめたということもこれで説明できます。神仏分離と廃仏毀釈が盛んに行われていた時代です。宮内省がなぜ神式を採用せず、仏式にすることを容認したのか。通説では和宮の遺言に従ったとされていますが、もしそうなら、最初からもめる必要もない訳です。本当の理由は、「早く埋葬したかったから」ではないでしょうか。

 塔ノ沢から麻布のお屋敷まで和宮のご遺体を搬送する時、一泊した藤澤の遊行寺のことが記録から抹消されていることも説明できます。

 神式で行った場合、和宮は、豊島岡墓地に埋葬されることになったと考えられます。
 和宮薨去の4年前、1873年(明治6年)に明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊が死産した際には、東京市周辺に墓所及び葬送儀式を行う広い面積を持つ場所が必要となり、明治政府が複数の候補地の中から護国寺の一角にある現在の豊島岡墓地を選定し、1873年(明治6年)9月22日に「豊島ヶ岡御陵」と命名されています。本来であれば、和宮はここに埋葬されることになったと思います。

Toshimagaoka01.JPG
 豊島岡墓地入口。この門が開くことはほとんどない。2016.11.6撮影

5.謎の短歌に隠された暗号


 最後に、環翠楼の当時の楼主で塔ノ沢村の戸長でもあった中田暢平が残した歌。

 この旅館は和宮終焉の「環翠楼」として有名ですが、当時は「元湯 中田暢平旅館」と言いました。現在の環翠楼は大正8年に建てられた木造4階建の建物です。オーナーも中田暢平とは他人です。和宮・篤姫が泊まった部屋「早川」は、当然、現在はありません。「環翠楼」という名前は、明治23年に伊藤博文が命名したとされています。このため、和宮がここに滞在していた当時は「環翠楼」などなかったことになりますが、混乱を避けるため、本記事では当時の旅館も「環翠楼」という呼び方をします。

 明治10年9月11日の東京日日新聞を読むと、宮内省は、和宮が環翠楼滞留中に用意していた道具類をお金とともに中田暢平に贈呈しています。現在、環翠楼に残るわずかばかりの和宮ゆかりの品物はこのようにして取得したことが分かりました。旅館に大変な迷惑をかけた代償ということでしょう。現在の環翠楼のオーナーも知らない話ですね。

 明治16年(1883)、この歌は、静寛院宮が身罷られた後、環翠楼当主中田暢平が和宮追慕のあまり七回忌の折りに詠んだもので、勝海舟が筆を執った「静寛院宮に奉る歌」として碑に残されています。

『行人過橋』
月影の
かかるはしとも
しらすして
よをいとやすく
ゆく人やたれ


 『月影の 架かる橋とも 知らずして 世をいと(た)やすく ゆく人や誰』

 この歌の意味は、実際よく分かりません。いろいろな解釈ができるので。

 ここで、この歌のお題『行人過橋』に着目します。塔ノ沢、行人過橋といえば『西遊日記』でしょう。執筆者は『福田行誡(ぎょうかい)』。伝通寺、増上寺を歴住し、浄土宗東部管長となり、和宮が亡くなった明治10年に浄土宗管長となった方です。そして、明治12年、73歳の時、増上寺の住職となりました。

 『西遊日記』は『行誡上人全集』で読むことができます。

 その日記の中に、福田が箱根塔ノ沢で環翠楼に宿泊し、『行人過橋』というお題で詠んだ次の歌が掲載されています。日記の中に「和宮」や「環翠楼」という名前は出てきませんが、前後の文から宿泊場所が環翠楼であり、和宮薨去の部屋でお念仏を称えたことが分かります。

 この日記が書かれたのは辰の年となっているので、明治13年ではないかと思います。次の辰の年には福田はこの世にいないので。明治13年1月31日、福田は塔ノ沢に到着します。福田が和宮が眠る増上寺の住職になったのはその前年のこと。和宮薨去から2年半しか経っていない環翠楼での描写は貴重です。

 『其のころのしつくはいまもしたたりて ぬらす岩ねのこけのころも手』
 『何にしかもかけわたすらむ丸木橋 ゆきて歸(帰)らぬひともある世に』

 管理人には、この歌は『虎狼狸(コロリ)、虎狼狸(コロリ)』と詠っているように聞こえます。


 上述の明治16年の和宮七回忌に田中暢平が詠んだ歌とされるものは、明治13年の福田行誡の歌を意識して詠んだのではないでしょうか。あるいは、明治13年に福田行誡を迎え環翠楼で開催された歌会で、福田と共に詠んだ歌を明治16年に公開したという気もします。

 『和宮様の七回忌の法要が、明治16年旅館「元湯 (環翠楼)」で行われ、増上寺からは立譽大教正福田行誡が78歳の老躯をおして参列され、導師をつとめられました。』(阿弥陀寺の歴史)

 えっ、ここでも福田行誡が再登場しています。
 すると、『西遊日記』の塔ノ沢の記述が気になります。日記には、和宮の名前も旅館の名前も一切出てこず、分かる人には分かるという書き方になっています。この一連の歌には別の意味が隠されている。そんな気がします。というか、これだけ条件が揃えば、『陰符(暗号)』が隠されていると考えるのが妥当でしょう。そして、その内容とは、「和宮の死にまつわること」。

 該当部分のページ
 
googlebook0001.png

Source: 『行誡上人全集』、福田行誡、梶宝順、1906、p.153

 この明治13年にはもう一人、重要人物が環翠楼を訪れています。天璋院篤姫です。

 1880(明治13)年9月23日、天璋院は生涯ではじめて旅行します。千駄ヶ谷の徳川宗家を出て新橋から鉄道利用で横浜に赴き、東海道を人力車を利用して江ノ島に参詣、小田原に一泊、熱海に10月28日まで一月近く滞在しました。10月28日に熱海を出発し、箱根芦ノ湖を巡り、宮ノ下に2泊した後、小田原に向かう途中、塔ノ沢の環翠楼を訪問しています。亡き静寛院宮に涙し、和宮の面影を偲んで次の和歌を詠みました。(「熱海箱根湯治日記」)

「君かよわひ(齢)とどめかねたる早川の水のながれもうらめしきかな」。

 和宮の葬儀にも出席しないで何を今さら!

 慶喜は生涯、和宮の命日には増上寺にお参りしていたと慶喜の九男の妻が述べています(『和宮』辻ミチ子、ミネルヴァ書房、2008、p.167)。

 和宮の葬儀にも出席しないで何を今さら!

 この謎は今回の仮説が正しければ、解けていると思います。
 
 いかがでしたか。今回の記事。和宮にまつわるこんな謎があったのかと驚いた方もいると思います。楽しんで頂けたら幸いです。

明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く』にも書きました。ちょっと覗いてみてはいかがでしょうか。

6.暗号の解読


 暗号の解読をしてみます。(結論から書くと、現時点で、解読できていません。)

 和歌の下二句を暗号キーとする伝統的な暗号作成手法が用いられていると仮定し、その解読をやってみます。以前、この方式の暗号を解読するEXCELプログラムを作成、公開したのですが、今回は、その方法では対応できないのでプログラムを改造する必要があります。

chipher_waka_tonosawa1.png


 中田暢平氏の歌を暗号文と見立て、解読を試みたのですがうまくいきません。むしろ、福田行誡の歌の方が謎めいています。「こ・ろ・り」の文字がすべて入っているので。 

 キーが違うのか? 悩ましい。もしかして、キーは篤姫の歌か?

おわりに


 和宮の晩年を調べる中で、心の隅に残っていたいくつかの疑問点を洗い出し、その謎を解くための様々な仮説を考えて見ました。

 今回の記事を書くきっかけとなったのは、1886年にコレラで亡くなった吉益亮子の死亡日時を調べるため、当時の新聞を閲覧していた時のこと。新聞のどこにも吉益亮子についての記述は見当たりません。葬儀についての広告、訃報欄を期待したのですが、見つかりません。

 それもそのはず。毎日、数百人規模でコレラによる死亡者が出ていました。これでは、訃報欄はコレラ死亡者で埋まってしまう。そもそも、訃報欄は皇族・高官しか載らないし、訃報告知のための「死亡広告」(「黒枠広告」)の数も極端に少ない。

 コレラによる死亡患者の数が火葬場の処理能力を上回り、さらに埋葬方法自体も厳しく制限されているため、大変な状況だったことが分かりました。

 そして、流言飛語が飛び交う状況下、コレラに罹患すると周囲から迫害を受けることもあったようです。当時コレラで亡くなった場合、埋葬制限によりまともな葬式もできなかったと考えられます。だから、いくら探しても吉益亮子についての情報が見つからない。死亡、埋葬の記録が見つからない。

 ふと、同じような感覚に囚われた記憶が蘇りました。そう、和宮のケースと同じです。
 まさか、和宮がコレラで亡くなった? そんなはずない。そう思って調べ始めたら、なんと、1877年に19年ぶりにコレラが大発生していたことが判明。

 でも、和宮の薨去は9月2日だし、1877年のコレラの発生は横浜で9月6日だから、これは違う。

 そう思ったのですが、どうもこの定説自体が間違っている可能性があることがだんだん分かってきました。要は、資料がたくさん残っている横浜の記録をベースにして、この時のコレラの最初の患者は横浜で9月6日に発生! というストーリーでつじつまを合わせているらしいことが分かってきました。

 開港している港が限られていた江戸時代の知識を明治19年に当てはめたお粗末な定説。当時、開港している港はたくさんあり、どこからでも病気は入ってくる。現に、7月には関西で発生していたとの記述も見つけました。

 すると、和宮がコレラで亡くなったという可能性もゼロとは言えない。

 「あれ? もしそうなら、和宮の葬儀参列者の謎も解けるじゃん」
 「えっ! 和宮が裸体で埋葬された謎も・・・・解ける・・」
 「お棺の中の多量の石灰の謎も・・・解ける・・」

 「篤姫の不可解な行動の謎も解ける」

 「えっ、えっ、えっ。 埋葬時の謎がみんな解ける」

 最初は単なる思いつきであり、そんなはずないよ、という思いが98%くらいあったのですが、次第に、数々の謎を説明できる仮説になるのでは、という気がしてきました。

 こんな感じで、この記事を執筆することになりました。
 一度終了した和宮の謎の解明を新たに書き始めたのはこのような経緯がありました。

 短歌の中に暗号は本当に隠されているのか。暗号解読は闇雲にやってできるものではありません。
 少し時間をかけて考えて見たいと思います。

 田中、福田の和宮に対する追慕の情は相当のものだと感じました。追慕の情は、天寿を全うした人に対しては発生しない感情のように思います。そんな彼らが残したいのは、和宮の本当の死因だったのではないでしょうか。

 「和宮様は脚気なんかで亡くなられたのではない。突然の疫病で亡くなられたのだ。どんなに口惜しく思われたことであろうか。それを思うと泪が止まらぬ。真実を公表することは憚られるが、せめて、我々の手で、本当のことを後世に伝えていくことこそ、今の我々にできることではないのか。」

 和歌の暗号にたどり着いた(かもしれない)管理人としては、こんな二人の会話をイメージしています。すると、暗号を解くための暗号キーとなる和歌は何か? これが問題になります。

【参考】
1.「病者への否定的な眼差し ―巣鴨病院と駒込病院を事例に―」、小泉博明、p.314
2.『行誡上人全集』、福田行誡、梶宝順、1906
3.『虎列刺(コレラ)病予防法心得』、内務省、1877
4.阿弥陀寺の歴史
5.『勝海舟の嫁 クララの明治日記』、クララ ホイットニー、 一又民子訳 、中公文庫、1996
6.『神奈川のコレラ』、大滝紀雄、大滝紀雄、日本医史学雑誌 第38巻第1号、1992、p.7

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posted by ネコ師 at 06:22 | Comment(0) | 皇女和宮の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月27日

和宮で有名な板橋宿に行ってきました!


 今から154年前、1861年12月15日(文久元年11月14日)午後5時頃、和宮一行は中山道の最後の宿場町、板橋宿に到着しました。

 翌日には江戸に入ります。

 この板橋宿は、和宮にまつわる都市伝説で有名な場所で、一度は訪ねてみたいと思っていたのですが、やっと重い腰を上げて行ってきました。

板橋宿とは

 板橋宿は、現在の東京都板橋区本町、および仲宿、板橋1丁目、3丁目あたりにあった中山道の宿場町で、江戸からは最初の宿場町、京都から見れば最後の宿場町でした。

 「板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみしゅく。現在の本町)、仲宿(なかしゅく。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しもしゅく。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。」(Wikipedia、「板橋宿」)

 板橋宿は江戸まで10Km足らずと近いため、ここに宿泊する旅人はあまりいなかったようです。

 和宮一行の場合、前日は桶川宿に宿泊しています。桶川宿から日本橋までは40.8Km。1日で歩ける距離ですが、無理をしなかったということでしょう。実際、板橋宿に到着したのは午後5時ころ。冬の午後5時なので、あたりは真っ暗だったと思います。

 1861年11月22日(文久元年10月20日)に京都を出発した和宮は、24日かけて板橋宿に到着します。
 中山道は江戸日本橋から京都三条大橋まで結ぶ約百三十五里二町(約534q)の距離があります。和宮一行は京都桂宮邸から江戸城清水邸までを25日間で旅しました。当時の女連れの平均的な速さである一日、五、六里(20qから25q)の速度で行列は進んだことになります。

和宮降嫁行程表


 板橋宿に行こうと思っていたものの躊躇していた理由は、和宮が宿泊した板橋宿本陣跡がどこにあるのかよく分からなかったためです。ネット上ではいくつかのサイトで紹介されているのですが、サイトによって場所がバラバラ。結局どこにあるのか分からない。

 Google Mapを貼り付けているサイトもあるのですが、誤差が大きすぎて使えない。
 何しろ、板橋宿本陣は既に無く、あるのは跡地に建つ標識だけなので、適当に歩いても見つけるのは至難の業です。

 そこで、ネットで探すのはあきらめ、地図を購入。さらに、区役所から地図をもらうという作戦に切り替えました。

 まずは、板橋区役所に寄って観光地図を貰います。どこの役所も観光には力を入れているので、便利な地図を配布しています。

Itabashi_Kuyakusho.jpg


 地図を片手に、いざ、板橋宿本陣跡へ。

板橋宿地図

 Source: 「観光いたばしガイドブック」

 地図を貰っても方向音痴の管理人は、全く逆方向に歩いて行ったらしく、大きな道に出ました。地図で確認すると、板橋宿の南端まで来ていました。平尾宿のあったあたりです。東光寺の直ぐ傍らしい(地図の@)。そこで、最初に東光寺に行くことにしました。

東光寺

 お寺の脇にある案内板には次のように書かれていました。

東光寺(とうこうじ)
 創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳三年(1491年)に入寂した天誉(てんよ)和尚が開山したといわれています。当初は、船山(ふなやま、現、板橋3-42)あたりにありましたが、延宝七年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次太平洋戦争による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお、山号の円船山は、地名船山(ふなやま)に由来しています。
 境内には、昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文二年(1662)の庚申塔と平成7年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩座像、明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の墓などがあります。
平成9年3月  板橋区教育委員会


東光寺案内板


Toukou_ji01.jpg


 東光寺の中に入ったものの、案内板に書いてある板橋区の有形文化財とはどれだろう。さっぱり分かりません。

 たぶん、宇喜多秀家のお墓は下の写真だと思います。墓地内には宇喜多家のお墓がいくつかあります。宇喜多家の菩提寺なのでしょうね。

ukita_hideie01.jpg


 宇喜多秀家については、最近テレビでやっているので、知ってはいるのですが、あまり関心が無い。
 青山墓地を何度も徘徊していた管理人にとって、このお寺の墓地は「ちっちゃっ」という感じ。

 東光寺を後にして、旧中山道を北上します。

Itabashi_Juku001.jpg


観明寺と寛文の庚申塔

 次に出てきたのが観明寺というお寺。

観明寺1.jpg


 入口に何やら由緒正しき石像が見えます。

観明寺庚申塔2.jpg


 格子の隙間から覗いてみても、格子の間隔が狭いため、どのような石像なのかよく見えません。
 そこで画像処理して全体写真を作ってみました。12枚の写真を合成しています。

 
観明寺庚申塔.jpg

 
【観明寺と寛文の庚申塔】
 参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)8月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財になりました。

 平成12年6月 板橋区教育委員会


 青面(しょうめん)金剛像とは、この病魔・病鬼を払い除くといわれる神様で、腕が6本あり、脚が4本あるようです。右下に鶏、両脇には小さな童女が見えます。

 観明寺を後にして、さらに北上します。
 
板橋宿平尾脇本陣豊田家跡地

 次に目指すのは、板橋宿平尾脇本陣豊田家跡地。
 これがとても分かり難い。柱に「平尾宿脇本陣跡 この道50m先」の小さな縦長の看板を見逃し、通り過ぎてしまいました。

Itabashi_Juku002.jpg


 この小路を50mばかり入った先に「平尾宿脇本陣跡」があります。

平尾宿01.jpg


 脇本陣跡地はマンションになっていました。当時の面影を残すものは何もありません。

平尾宿0.jpg

 
平尾宿3.jpg


【板橋宿平尾脇本陣豊田家】
 豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正18年(1590)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。(中略)
 慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍にとらえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。

平成19年3月 板橋区教育委員会


仲宿 板橋宿本陣

 旧中山道をさらに北上し、仲宿に入ります。

Nakajuku01.jpg


 目指すは、和宮が宿泊した板橋宿本陣跡です。
 実際に行ってみて分かったのですが、Google Mapはピンポイントで正確に表示しています。

Itabashi_Honjin01.png


 スーパー「ライフ」の南の角、案内板が建っているのは、「ライフ」の敷地ではなく、お隣の飯田家の敷地内です。

Nakajuku_honjin01.jpg


 板橋宿の本陣は代々飯田家が務めていました。その跡地に建つ家の表札が飯田家だったのでうれしくなりました。不動産業を営まれているようです。

 案内板には以下のように書かれています。

【板橋宿本陣飯田新左衛門家】

 本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半(約10Km)の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。また、その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。
 板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようです。宝永元年(1704)、当家は飯田家より別家していますが、その際、世襲名「新左衛門」と本陣・問屋役を引き継いでいます。また併せて、屋敷地359坪、田畑1.5町余(約1万6000u)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家三大目新左衛門珎儀(ちんぎ)の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「旗本陣家」に指定されたことが窺えます。
 本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪97坪、門構え玄関付の建物でした。また、本陣指図からは、間口・桁行ともに12間半(約22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことが分かります。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。
 本陣の建物は明治23年(1890)に火災に遭い焼失しましたが、昭和39年(1964)、明治期に建てられた母屋を解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。

平成23年3月  板橋区教育委員会


 やっと和宮が宿泊した本陣(跡)を見ることができました。
 ・・と喜んでいたら、どうも違うらしい。

 和宮は、ここから50mほど離れたところにある飯田家総本家に泊まったらしい。
 ややっこしいのですが、和宮の下向の際には、飯田家本陣ではなく、飯田家総本家が本陣役を務めたのだそうです。区教育委員会の説明書きを読んでみましょう。

【板橋中宿名主飯田家(総本家)跡】

 当家は、飯田家の総本家で、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通でした名主などを務めました。世襲名は宇兵衛。
 飯田家は、大坂の陣で豊臣家に仕えたとされ、その後、区内の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃の宿場絵図には、当家の南側に将軍が休息するための御茶屋が描かれており、元和〜寛永期に板橋の御林で行われた大規模な鹿狩りの際に使用されたとみられます。当家は御茶屋守としてこれを管理していたとみられ、後に御林40町歩は、当家に下賜されたといわれています。
 江戸時代を通じ、名主と本陣家の両飯田家は、養子縁組を行うなど、その機能を補完しながら、中山道板橋宿の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営に当たってきました。
 そのような中で、文久三年(1861)の和宮下向に際しては、名主家が本陣役となっています。
 その後も慶応四年(1868)の岩倉具視率いる東山軍の本営となり、明治初期の明治天皇大宮行幸などでも本陣を務めました。

平成27年12月  板橋区教育委員会


飯田家総本家03.jpg


 右手看板の向こう側の道路から少し引っ込んだところが総本家跡地です。
 左手奥に見えるのが首都高の高架橋です。

飯田家総本家02.jpg


飯田家総本家01.jpg


板橋宿における和宮にまつわる都市伝説

 皇女和宮は、ここ板橋宿で首を吊って亡くなりました。
 1861年12月15日午後5時過ぎ、板橋宿本陣、飯田家に入った和宮は、その夜、蔵に忍び込み、首を吊ってしまいます。15歳5ヶ月の短い生涯でした。

 それからが大変です。
 和宮に死なれてしまったスタッフは、急遽、和宮の身代わりを仕立て上げ、翌朝には何事もなかったかのように本陣を出発し、江戸城清水邸に入ります。この身代わりを仕立てたことは、115年後、有吉佐和子が長編小説『和宮様御留』(かずのみやさまおとめ)を発表するまで世間に知られることはありませんでした。

 この話は、飯田家ゆかりの女性が有吉佐和子に話したことから、表舞台に登場します。
 
 「ふ〜っ」。疲れたので、ここまで。
 この話の続きは過去記事に書いていますので、興味のある方はご覧下さい。和宮ファンの管理人としては、このような都市伝説は許せない!

  『皇女和宮の埋葬のナゾに迫る

板橋

 さらに北上すると「板橋」が見えてきました。石神井川に架かる橋で、江戸時代は当然、木橋、板の橋でした。

Itabashi005.jpg


 案内板には以下のように書かれていました。

【板橋】

 この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
 板橋宿は、南の滝野川村から北の前野村境まで20町9間(約2.2Km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会(えどめいしょえ)」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。(以下、略)
平成12年3月  板橋区教育委員会


 橋を脇から見るとこんな感じです。

Itabashi006.jpg


 橋を抜けると、交番の脇の広場に火の見櫓のような建物が建っていました。

Itabashi007.jpg


 さらに進むと、和宮が避けて通ったといういわく付きの「縁切榎」があります。

Itabashi008.jpg


 和宮と板橋宿という話の中には必ず出てくる「縁切榎」。
 とてもおどろおどろしい場所でした。怖っ!

 案内板を見てみましょう。

【縁切榎(えんきりえのき)】

 江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷(かかえやしき)がありました。その垣根の際には榎と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。
 板橋宿中宿名主であった飯田侃家(いいだかんけ)の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿に至る約1キロメートルの道のりでした。
 なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。

平成18年3月  板橋区教育委員会


 案内板には、さらっと書いてありますが、現実は違います。ここは、人間の業の強さを感じさせる憎しみや嫉妬、恨みといった感情が渦巻いている異界の入口でした。

 「縁切榎」の脇には小さな祠があり、たくさんの絵馬が奉納されています。
 それはよいのですが、問題は、絵馬に書かれている内容です。

 誰々がこの世から消えてしまえといった願い事や不倫の相手を呪う"呪いの絵馬"。そんな絵馬がたくさん奉納されています。しかも、絵馬には全て実名が記載され、奉納した人も実名を書いています。イニシャルやニックネームではなく、氏名がしっかり書かれています。書いた人の本気度が伝わってきます。

 とても怖いものを見てしまいました。見なければよかった。
 やはりここは異界です。こんなところに長くいる碌なことはない。さっさと退散しました。

Itabashi009.jpg


 以上で板橋宿探検の旅は終了です。
 管理人の目的は、和宮の足跡を辿ることだったので、板橋宿の他の名所は割愛しています。
 でも、この旅で、12000歩も歩いてしまいました。他の場所を回る余裕はありません。

 ちなみに、この記事を読んで「縁切榎」に行ってみたいと思った人がいたら、やめておいた方がよいでしょう。不幸が不幸を呼ぶ「負のスパイラル」に陥ってしまいます。


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