2016年07月21日

和宮は本当は大奥にはいなかった! 知られざる歴史


 今日は、皇女和宮について、ちょっと違った切り口から迫りたいと思います。

 その切り口とは、『和宮は大奥に何日間いたのか』という疑問。

 何が疑問なのかと思ってしまいますが、この問いに答えられる人は少ないのではないでしょうか。
 
 昨年、皇居に行った時、天守台跡地から江戸城本丸があったあたりを見わたしました。
 江戸城本丸跡地は現在では広大な公園になっていて、当時の面影は全くありません。

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 和宮が住んでいた場所はどのあたりだったのか、などと思いをめぐらします。

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 ふと、疑問が湧きました。本丸はいつ無くなってしまったのだろう。

 調べてみると、驚くべきことが分かりました。
 和宮は大奥にいたとばかり思っていたのですが、それは間違いでした。和宮は大奥にはいなかった!

 正確には(本丸にある)大奥にいた期間は短かった。

 文久元年11月15日(1861年12月16日)、江戸に到着した和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入りました。現在、日本武道館の東半分が清水徳川家跡地に建っています。

 同年12月11日(1862年1月10日)、和宮は江戸城本丸大奥に入ります。江戸到着から入城まで1ヶ月近くを要したのは、御所風の遵守という点で和宮側と幕府・大奥側の調整が難航したためだそうです。(Wikipedia)

 さて、和宮が本丸大奥にいたのはいつまでだったのでしょうか。
 「えっ? 江戸城開城までじゃないの?」

 それが違うのです。

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Source: Google Earth

和宮は本丸の大奥にはいなかった?

 和宮が本丸、天守台手前にある大奥にいたのは、文久3年11月15日(1863年12月25日)までです。それ以降はここには住んでいません。

 なぜそう断言できるのか?

 できるのですよ。旧暦11月15日に本丸の大奥はこの世から無くなってしまったから。

 それには次のような事情がありました。

 『文久ノ本丸二之丸炎上』と言われる火災により、大奥も含めた本丸一帯は全て焼失してしまい、以降、本丸は再建されることなく現在に至っています。この日以降、和宮は(一般に考えられている本丸の)大奥にはいなかったことになります。

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 すると、和宮が本丸の大奥にいた日数を算出できます。
 その日数は、714日間(1年11ヶ月2週1日)になります。二年足らずだったのです。

 江戸城開城で和宮が江戸城を去ったのは、慶応4年4月9日(1868年5月1日)のこと。江戸城滞在日数は、2303日間(6年3月3週)になります。

 このように見ると、天守台から見下ろした手前の右手に見える大奥の御台所住居跡地、大奥御殿向(おおおくごてんむき)は、和宮が一時的に過ごした大奥ということになります。

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火事で焼け出された和宮はどこに行ったのか

 では、火事で焼け出された和宮は、その後、どこに住んでいたのでしょうか。

 天璋院篤姫の場合は、この年の8月に、大奥から二の丸に移りました。それから4ヶ月後の火事の当日(1863年12月25日)、篤姫の住んでいた二の丸御殿も焼失したため、彼女は吹上の滝見茶屋に避難し、その後、清水邸に引っ越します。

 また、14代将軍家茂と御台所の和宮も住む場所を失い、一旦は清水邸に入りますが、後にお向かいの田安邸に移っています。

 和宮が降嫁した時、江戸城で最初に入ったのが清水邸です。また、江戸城開城で江戸城を出た和宮は、やはり清水邸に入っています。この清水邸とは牛ヶ淵の清水邸となっています。田安門橋の東側が牛ヶ淵なので、現在の日本武道館の位置になります。清水邸は上屋敷や下屋敷など何箇所かあったのではないかと思うのですが、和宮に関して言えば、日本武道館の場所にあった清水邸に逗留したということのようです。

 その後はどうなったのでしょうか。西の丸に御殿が造られ、そこに引っ越しています。天璋院篤姫が西の丸に引っ越したのが慶応元年4月29日(1865年5月23日)のこと。火事後清水邸に滞在していた期間は515日間(1年4月4週)となります。和宮もこの日付の前後に西の丸の御殿に引っ越したと思われます。

 この時の火災の後、幕府の機能は全て西の丸に移したので、大奥にいた女性達も西の丸に引っ越したようです。火災前に大奥で働いていた女性達の多くは暇を出されたそうです。西の丸に広大な本丸を再現する予算もなかったと言うことでしょう。

 この文久3年(1863)という年は、江戸城にとって災難の年で、二度の火災が発生しています。6月の火災では、西の丸が全焼しています。そして、11月(西暦では12月)の火災で、本丸と二の丸が焼失しています。江戸城で残っているのは三の丸と吹上、北の丸のみという惨たんたる状況でした。

 ついでに書くと、安政6年10月17日(1859年11月11日)の火災で江戸城本丸が焼け落ちますが、その時、篤姫は吹上へ避難し、後に西の丸に移っています。この時、和宮は14歳で、もちろん京都にいました。

 江戸城の火災に焦点を当てて調べてみると、これまで知らなかったことがたくさん分かりました。
 幕末に、江戸城本丸はなかった。このことを初めて知りました。そして、大奥もなかったことを知りました。

 その後、本丸にあった施設は、大奥も含め西の丸に再建されます。幕末の江戸城明け渡しという言葉から、本丸を明け渡したと思っていたのですが違いました。本丸は再建されなかったのです。本丸を再建できない徳川幕府。幕府の崩壊は、誰の目にも明らかだったのでしょう。

 そういえば、最後の将軍、徳川慶喜は江戸城には住まなかったそうです。江戸城にやってきたのは、鳥羽伏見の戦で敗走し、江戸に逃げ帰って、篤姫と和宮に取りなしを頼むために登城したのが初めてだとか。新しい西ノ丸御殿はその時に初めて見たのでしょう。そして、慶喜は、歴代将軍の中でただ一人、本丸に住まなかった将軍ということになります。

 幕末に本丸がなかったと言うことをほとんどの人が知らないのだと思います。だから、江戸城開城にあたり「天璋院篤姫や皇女和宮以下大奥3000人余りの女中衆と一緒で遂に江戸城を去ることになった。」などと思い込みで書いている人がいます。西の丸には、大奥女中が3000人も住めるスペースはありません。高層長屋を建てたのなら話は別ですが。

参考

 文久3年の江戸城大火の発生日について、島崎藤村の「夜明け前」及び他のネット上のサイトを参照して、文久3年11月15日としています。

 しかし、明治25年(1892年)刊行の「千代田城大奥」では、この火災の日付けを「文久3年10月14日五ツ時」、火元を「添番詰所と医者部屋二階の界なり」としています。

「千代田城大奥」(下)、永島 今四郎、pp.102-103、1892

 最後に、江戸城炎上の歴史をまとめておきます。

「江戸城炎上の歴史年表」
和暦西暦出来事、火災等
康正2年1456年太田道灌による築城開始、慶長12年(1607)に完成
天正18年8月1日1590年8月30日徳川家康、江戸城入城
慶長8年2月12日1603年3月24日徳川家康、征夷大将軍になり、江戸幕府を開く
慶長11年1606年本丸完成
慶長12年1607年天守台、5重天守が完成
寛永11年閏7月23日1634年9月15日西の丸御殿、焼失
寛永16年8月11日 1639年9月8日城下の火災から延焼し、本丸御殿、焼失。翌年再建された。
出典:東京市史稿(皇城篇 第3 p.665)
明暦3年1月19日1657年3月3日振袖火事(明暦の大火)で天守・本丸・二の丸、三の丸御殿が焼失。
以後、天守は再建されず
延享4年4月16日1747年5月24日二の丸焼失
天保9年3月10日1838年4月4日西ノ丸
天保15年5月10日1844年6月25日朝6時頃出火 本丸御殿、大奥など焼失
 (天保15年は12月1日まで。12月2日に弘化元年に改元)
嘉永5年5月22 日1852年7月9日西の丸御殿、焼失
安政6年10月17 日1859年11月11日本丸御殿、焼失。再建から188年もたっていた。
文久3年6月3日1863年7月18日西の丸御殿を焼失。
文久3年11月15日1863年12月25日本丸、二ノ丸焼失。 以後、本丸御殿は再建されず
慶応3年12月23日1868年1月17日大政奉還。二の丸御殿が焼失。以後、二の丸御殿は再建されず
明治元年4月11日1868年5月3日江戸城、無血開城、大総督府が接収。
明治6年5月5日 1873年5月5日旧西の丸御殿(皇居)焼失
明治21 年1888年明治宮殿が旧西の丸に建造される
大正12年9月1日1923年9月1日関東大震災で大手門、半蔵門など焼失
昭和20年 5月25日1945年5月25日空襲で宮城が焼失

出典:東京都編、「東京市史稿(皇城篇 第3 p.665〜682:本丸殿舎焼失)」、東大史料編纂所DB ほか
(注)日付けは複数の文献でクロスチェックしているので正しいと思いますが、もし間違いがあればご指摘下さい。

 本当に火事が多い。本丸が5回、西の丸も5回焼け落ちています。

東京都公文書館の困ったちゃん資料

 東京都公文書館の下の資料(「東京市史稿 皇城篇第1 目次」)をご覧下さい。

Tokyo_koubunsho01.png
 

 この資料を作った東京都の職員は、物事をまじめに考えない人のようです。

 表の一番下の年月日の欄で『1635(寛永12)年7月12日』の記述があります。
 この7月12日って、西暦でしょうか、和暦でしょうか。

 常識的に考えれば、西暦としか考えられません。括弧内は無くても意味が通じる。どこの資料でもそのような書き方をします。すると『1635(寛永12)年7月12日』は『1635年7月12日』であり、それ意外の読み方はできないことになります。

 ところが、赤枠のところをご覧下さい。『閏7月』の文字が見えます。このことから、日付けは和暦で書かれていることが分かります。つまり、『1635(寛永12)年7月12日』とは、『寛永12年7月12日』を表しています。『寛永12年7月12日』は、『西暦1635年8月24日』です。

 ネットで探すとたくさんのサイトで間違った記述をしています。東京都の資料編纂のミスが多くの人をミスリードしているようです。

 日付けを探すのはとても骨の折れる作業です。やっと見つけた日付けが間違った表記方法で表示されているのでは困ります。

 なお、ネット上で、西暦と和暦の換算に無頓着な人が多いことが気になりました。特に、年末の出来事は西暦が1年違うケースが散見されます。

 火事で焼け出された和宮の挙動を示すために篤姫の資料を使っています。篤姫の記録はたくさんあるのに、和宮の記録は降嫁の時に集中しており、それ以外では本当に少ない。歴史から忘れ去られた皇女だった? 和宮については意図的に歴史から消し去られたように感じます。もし、和宮墓の発掘調査がなければ、本当に忘れられた登場人物になっていたでしょう。


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2016年06月11日

和宮終焉の地、塔ノ沢に行ってきました


 明治10年9月2日、和宮が薨去された箱根湯本塔ノ沢に行ってきました。題して『和宮様を偲ぶ旅 〜塔ノ沢編〜』。

 『皇女和宮の謎』シリーズを書いていた頃から和宮が亡くなった土地を訪れたいと思っていたのですが、急に思い立ち、今回の旅になりました。天気も季候も良いし。過去記事で書いてあることはこの記事では書きません。同じことを書いても仕方がないので。

 新宿から箱根湯本まで「スーパーはこね13号」に乗ります。

super hakone 13


 箱根湯本で箱根登山鉄道各停 強羅行きに乗り換え、次の駅、塔ノ沢駅を目指します。

塔ノ沢駅付くのトンネル


 塔ノ沢駅に到着。駅に降り立った管理人は、山の中に取り残されたような気分になりました。



塔ノ沢駅


 塔ノ沢駅は無人駅で、駅舎があるだけ。周囲は山しか見えない。普通、駅といったら、大なり小なり駅前広場のようなものがあると思っていたのですが、ここは違いました。

 しかも、駅の外に道路が無い!
 幅1メートルくらいの小道が山の中に延びてはいるものの、車が通れるような道路ではありません。どう行ったら良いのだろう。心細くなります。

 地図を見るのが嫌いな管理人は、適当に歩き始めました。道はどんどん下っていきます。

塔ノ沢駅からのメイン道路


 山道を5分ほど歩いたら大きな道路に出ました。その道路をさらに5分ばかり登っていくと「環翠楼」の看板を見つけました。和宮が亡くなった場所です。

環翠楼正面


 本当は「環翠楼」に宿泊しようかと思ったのですが、料金プランを見ると「¥18,360〜¥30,240 」とかなり値が張ります。もし、和宮が泊まった部屋があるのであれば泊まっても良かったのですが、現在の環翠楼は大正時代に建てられたものです。旅館のオーナーも和宮の時代とは代わっているし。旅館自体には興味はないので宿泊せずに日帰りにしました。

 実際の環翠楼を間近に見て、イメージとかなり違っていました。現在の環翠楼の周辺の状況は、和宮が宿泊していた当時とは大きく変わっているように感じました。

 旅館の脇を流れる早川は、道路から見てかなり低い位置を流れています。逆に見れば、旅館や道路は早川の水面よりもかなり高い位置にある。

 長崎大学附属図書館所蔵の明治時代の環翠楼と早川の写真のイメージを持って現地に来たので、あまりの違いに戸惑います。明治10年、つまり138年前とは地形も変わってしまったようです。

 環翠楼の玄関前に立って感じたのは、早川の水の音が相当うるさいということ。
 せせらぎの音ではなく、濁流の音という感じです。これじゃあ、ゆっくり休めないと思うほどの水の騒音です。たぶん、直ぐに慣れるのでしょうが。

 和宮が宿泊していた当時も水音はかなりのものだったようですが、現在の方がうるさいと思いました。

 河川の流速が早く、河床が洗掘されたために、川が深くなったのでしょう。川の中には大きな石が目立ちます。

明治の塔ノ沢環翠楼
     Source: 長崎大学附属図書館。画面左の建物が「元湯環翠楼」

 長崎大学附属図書館所蔵の写真とほぼ同じ位置から撮影したものです。川の深さや川幅が明治と現在とでは大きく異なります。

対岸から撮影した環翠楼
 

 環翠楼の正面玄関です。ここに使われている玄関のガラス板は相当古いものだと思いました。以前、フランクフルトのゲーテの家を訪ねた時に見た窓ガラスを思い出しました。

環翠楼正面玄関


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 当時の写真と現在の写真を比べると、河床が2,3メートル、あるいはそれ以上低くなっているように見えます。

 管理人は、大正時代に立てられた旅館に興味はありません。関心があるのは和宮が亡くなった場所、空間です。環翠楼の周囲を3往復して、当時の余韻に浸りました。

阿弥陀寺に行く

 和宮関連の記事でたびたび出てくる「阿弥陀寺(あみだじ)」。せっかく塔ノ沢まで来たのだから行ってみることにしました。かなりの山登りになるらしい。

 スマホでMapを表示したら、道路が標示されません。どうやって行くのだろう?
 とりあえず塔ノ沢駅まで戻ることにしました。

 道の途中で環翠楼を見下ろせる場所を通ります。川向こうに見える建物が環翠楼です。

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 塔ノ沢駅までは、今度は登りになります。それでも10分足らずで駅に到着。
 スマホで、Google Mapを表示します。すると、Google Mapでは阿弥陀寺までの道が表示されています。

 塔ノ沢駅で降り立ったホームの反対側に行くために、跨線橋を渡ります。すると、跨線橋の途中で山に向かう分かれ道があり、そこに案内板もありました。

 
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 そこで、跨線橋の上から山に入り、2、3分歩くと、「手打ちそば、営業中」の看板を発見。お腹がすいていたので昼食をとることにしました。『杣の栖(そまのすみか)』というお店です。「の」しか読めない。

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 出てきた蕎麦がこちら。蕎麦は大盛りです。

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 さて、お味は。・・・・・。美味しいと思います。かえしをもう少し熟成させると味に深みが出るのですが・・。グルメ記事ではないので、次に進みます。

 お店の人に、阿弥陀寺までの道を聞きました。すると、かなり大変な道のようで、最後に、「お気をつけて」と言われました。どんだけ険しい道なのだろう。体力に自信の無い管理人は、一瞬、あきらめかけましたが、気を取り直し、阿弥陀寺まで登ります!!!

 登り初めて直ぐ、登山口に到着。左脇に「杖」が吊してありました。ここで「杖」アイテムをゲット。これで少しは楽に進めそうです。

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 登りながら感じたのは、確かに息切れするのですが、呼吸自体は苦しくないということ。ボリビアとは違います。管理人が住んでいたのは標高2800mのボリビアのスクレ市。田舎に行くと標高3000mは当たり前。少し歩くだけで息切れして呼吸が苦しくなります。

 でも、日本には、そのような標高の場所はあまりないので楽勝です。「息切れしても酸素がたくさんある! 空気が濃い」と感じます。ボリビアでは、「酸素が足りない! ぜぇぜぇっ」という感じだったので、この程度の登りはたいしたことありません。

 いくら呼吸しても酸素が足りないという恐怖、分かりますか? トラウマになります。
 イメージが湧かないと思うのでボリビアの写真をアップします。写真の右端に見える家まで行くところですが、道路から家までの高低差は200mあります。下りは良いのですが、登りはまさに山登り。標高は3,200m位です。

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  撮影:ネコ師

 話を戻して、阿弥陀寺への道。急ぐ旅でもないのでゆっくり登りました。蕎麦を食べたところから阿弥陀寺までは25分弱で到着。うちの子供達なら15分で登れそう。高低差は150m程度です。

阿弥陀寺参道


 阿弥陀寺より20m程度低い位置に駐車場があり、そこまでは車で行けます。タクシーでも駐車場までは行けるようです。体力に自信のない方は車を使うという方法もあります。

 やっと阿弥陀寺に到着。管理人が目指すのは「和宮の写真が入った軍扇」。結論を先に書くと、「和宮の写真とされる軍扇に入った写真」は公開されていないのです。本物を見たかったのですが残念です。まあ、和宮の写真ではないので、本当はどうでも良いのですが。話題の写真のサイズや解像度を自分の目で確認したかっただけです。

 阿弥陀寺は別名あじさい寺と呼ばれており、あじさいのきれいなお寺のようです。時はまさにあじさいの季節。少し早いようですが。

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 下の写真は4枚の写真を合成して広角にしています。今回持って行ったカメラはかなり広角も撮れるのですが、そのカメラでも収まらなかったので4枚合成しています。

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 お寺の入り口にはピカピカの葵のご紋の入った賽銭箱が鎮座していました。お寺では、賽銭箱にかなり力を入れているようです。

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 さらに、賽銭箱の上には巨大な車輪のような丸い板が・・。マニ車と大数珠廻しを合わせたような構造で、御利益も2倍かも・・・。初めて見ました。『文化財指定 百万遍転法輪「轉輪」(ひゃくまんべん てんぽうりん 「てんりん」) はずれやすいので ユックリと回して下さい  和上』の張り紙が賽銭箱にガムテープで無造作に貼り付けてあります。

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 阿弥陀寺には数名の参拝客がいました。
 お寺の中に入ると、女性の「住職」(の奥さん?)が先客に説明している最中でした。和宮の記事を書くためにいろいろ調べた管理人には、その話の内容には特に新しい発見はありません。

 「軍扇」はどこにあるのだろう?
 決して広くはないお寺の中をきょろきょろと見回します。すると、一番奥手で発見!

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 近づいてみると、本物の軍扇ではなく、額に入った写真でした。つまり、「和宮を写したとされる写真が入った軍扇を写真に撮り額に入れたもの」が飾ってあるだけでした。これにはかなりがっかり。写真は小さく、画質も悪い。

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 20分ばかり阿弥陀寺で過ごしました。帰り道に「箱根湯寮」という温泉があったので汗を流すことに。この温泉は、日帰り客の入湯料が1400円と少し高いのですが、清潔な温泉で気持ちが良い。

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 温泉に浸かった後は、「箱根湯寮」の送迎バスで箱根湯本駅まで。ほんの3分程度で着きました。

 帰りも小田急電鉄のロマンスカーを使ったのですが、今回の座席は先頭車でした。
 ロマンスカーの先頭車は展望車になっていて、運転士はいません。そんなはずはない(笑)。

 実は、天井部分にハシゴがあり、その上に運転席があります。運転士の方がちょうど乗り込むところでした。運転席は立ち上がることができないほど天井が低いそうです。このハシゴは電動で天井に収納されます。このため、走行中は、まるで無人で走っている電車のような錯覚に陥ります。

小田急電鉄ロマンスカーの運転席
 

 今回の旅で感じたのは、外国人観光客がたくさんいるということ。なぜ、塔ノ沢まで外国人が押し寄せるのか分かりませんが、とにかくたくさんいました。台湾の方も多かったように思います。

 和宮の足跡を辿って来ている外国人はいないと思います。なぜ塔ノ沢まで来る外国人観光客がいるのか。今回の旅で新たな謎を見つけました。 

ルートマップ

 今回の旅のルートマップを作ってみました。和宮の足跡を辿る管理人の足跡です(笑)。
 塔ノ沢にお出かけの際に役立つかも知れません。画像とPDFファイルをアップします。画像をクリックすると拡大表示できます。

Tohnosawa_Rute_Map.png
     Source:Google Mapで作成した塔ノ沢・和宮を偲ぶ観光ルートマップ

 旅行にあたっては、様々な割引券を利用するとお得なようです。「小田原から早雲山まで、乗り降り自由 一日乗車券 トコトコきっぷ」というものもあります。管理人は時間がなく使わなかったのですが、時間に余裕のある方は探してみてはいかがでしょうか。


posted by ネコ師 at 09:19 | Comment(0) | 皇女和宮の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月12日

和宮に麻布のお屋敷を売った南部麻子のお墓


 明治維新に和宮が住んでいた麻布のお屋敷。

 1874年(明治7年)7月8日、和宮は京都から東京に戻り、用意されていた麻布市兵衛町の御邸に居を定めることとなります。
 
 そこは、八戸南部藩の上屋敷があった場所です。この土地を和宮に売却したのが、南部栄信、麻子夫妻。

 このことについては過去記事『皇女和宮が晩年に住んでいた邸宅の場所は、現在ではどこになるの?』に詳しく書いているので、省略します。

 今日は、この南部栄信、麻子夫妻のお墓を見つけたというお話しです。
 麻子のお墓は、八戸市の八戸南部家墓所にあると思っていました。ネットでも確認していたので。でも、まさか東京で見つかるとは・・・。ピックリしました。

 実は、とあるお墓を探して、お墓巡りをしているのですが、そこでたまたま見つけたのが南部家の墓。最初は、南部という苗字の方のお墓なのだろうと思っていたのですが、墓誌を見てびっくり。南部栄信、麻子と書かれています。

Nanbu_Asako_Grave1.jpg


Nanbu_Asako_Grave2.jpg


 地面に白く見えるのは桜の花びらです。

 八戸藩のお墓は、東京では東京タワーの足下にある金地院が有名です。でも、今回見つけたお墓の場所は、なんと『青山霊園』です。

 それも、外人墓地の並びの道路に面した一等地。墓誌をみると、平成元年に章子さんという方が最後に埋葬されています。

cemetery_Nanbu.png


 しかし、不思議です。八戸から墓地を移したのでしょうか。
 とにかく、一度、お墓参りをしたいと思っていたので、念願が叶いました。

 墓誌から分かったことは、南部麻子が亡くなったのは、大正2年12月22日だったということ。Wikipedia『南部麻子』では、12月12日としているので、間違いですね。

 ちなみに、夫の栄信は、 明治9年(1876年)3月26日に19歳で亡くなっています。これはWikipediaの記述と一致します。


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2016年01月22日

皇女和宮は達筆だったか


 昔の人は皆さん字が上手です。字がうまいと教養がありそうに思われます。反対に、字が下手だと教養がないように思われてしまう。字のうまい人がうらやましい。

 さて、和宮は、字がうまかったのでしょうか。
 宮内庁書陵部に「静寛院宮御詠草」という和宮直筆の和歌集が保存されています。これは、全14冊からなる大変ボリュームのあるもので、収録されている和歌は1700首以上あるようです。

「袖に置く涙のつゆにうつしませ逢ふがまほしと恋ふる御影を」(静寛院宮御詠草 第1巻)

 (この歌は、国文学研究資料館の「静寛院宮御詠草」スライド番号 12/454に収録されています)

  明治3年(1870)正月、父帝(仁孝天皇)の25回忌に京都泉山の御陵に参拝した折に詠んだとされています。

 「千人万首 和宮」によると、この通釈は以下のような意味なのだそうです。

【通釈】父上のことを思いますたびに、私の袖に涙が落ちます。その滴(しずく)に映してください、お逢いしたいと恋うる父上のおん面影を。

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 「静寛院宮御詠草」をずっと見ていたのですが、和宮は達筆であることは間違いないようです。和歌の英才教育とともに、習字の勉強もしたのでしょう。

 和宮の字を延々と数時間も眺めていると、いろいろと文字の特徴が見えてきます。たとえば、「み」という文字がやたらとデカいとか。字がうまい下手については、管理人にはよく分かりませんが、和宮の字はのびのびと書かれているように感じます。

 神経が細やかで繊細な女性ではなく、何事にもおおらかで、天真爛漫といった印象を受けました。個人的印象です。

 どのような歌なのか、残念ながら管理人の力量では読むことができません。まさに、文字を眺めているだけです。和宮の字はあまり崩していないので読みやすいと思います。「静寛院宮御詠草」の全文をすらすらと読めるようになれるとよいのですが。

参考


 国文学研究資料館の「静寛院宮御詠草」巻別スライド番号

  • 1巻 4/454 明治3年
  • 2巻 31/454
  • 3巻 65/454 明治7年
  • 4巻 88/454
  • 5巻 119/454
  • 6巻 160/454
  • 7巻 186/454
  • 8巻 201/454
  •  (ここまで閲覧)

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2015年09月05日

皇女和宮の写真の真偽を確認する


この記事は引っ越しました。以下のリンクでご覧下さい。




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posted by ネコ師 at 00:21 | Comment(3) | 皇女和宮の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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