2015年08月20日

財宝の現在位置を割り出す:海賊の財宝伝説に迫る6

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 財宝伝説には多くのトラップが仕組まれています。そもそも、財宝の隠し場所など人に教えるようなものではありません。だから、伝説の場所に財宝がなかったからといって、伝説がウソだと言えないと思います。

管理人が気になったこととは!?
 ココ島の財宝伝説を読んでいて気になったことは、「なぜ、見つからないのか」ということでした。7km四方の小さな島なのに、300チームのトレジャーハンターが挑んでも海賊の財宝を見つけることができない。

Isla del Coco


 ココ島に隠された海賊の財宝に魅了されたトレジャーハンターの一人にアウグスト・ギスラー(August Gissler)がいます。彼は、20年もの間、奥さんとともにココ島に住み続け、財宝探しをしましたが、結局見つけることができずに島を去りました。

 「彼らは、大きな見落としをしていた!」 そんな気がします。「ココ島に本当に財宝が埋められているとすれば!」


地震と津波
 中南米は日本と同様に地震がとても多い地域です。環太平洋火山帯に位置する国々では、日本人が想像する以上に多くの巨大地震が発生しています。

 1823年まで約250年にわたりコスタリカの首都だったカルタゴは、1841年と1910年の二度の大地震で街が崩壊してしまいました。管理人がコスタリカに住んでいたときも大きな地震があり、インフラが甚大な被害を受けました。

 16世紀以降、スペインの植民都市はたびたび地震に襲われ、壊滅的な被害を被った都市もたくさんあります。カリブ海の海賊たちの拠点であったポート・ロイヤルが、1692年6月7日に発生した地震で壊滅し、その直後に発生した津波により町はカリブ海に沈みました。  

 中米地域において、1539年から1996年までの457年間に49回の津波の発生が確認されています。9.3年に一度津波が起きている計算になります。このうち、37回が太平洋側で、12回がカリブ海側で発生しています。一方、19世紀中期以降、津波の発生頻度は劇的に増加しています。1850年から1996年までの146年間をみると、津波は43回発生しています。これは3.4年に1回の頻度になります。このように1850年以降に津波が多い理由は、沿岸近くに人々が住み始めたことから、津波を認識する機会が増えたというのが実際のところかも知れません。

 津波を発生させた地震源は、太平洋側では、ココ島−カリブ沈降帯(CO-CA)によって引き起こされています。カリブ海側では、北アメリカ−カリブプレート境界(NA-CA)で5回発生しており、また、北パナマ変成帯(NPDB)で7回発生しています。

 津波の経験的発生評価によれば、表面波マグニチュード(Ms)7.0以上の大きな地震が発生したとき、中央アメリカの太平洋沿岸地域で43%、カリブ海側で100%、津波を発生させることを示します。

 (Source: “Tsunamis and Tsunami Hazards in Central America”, Natural Hazards, Volume 22, Mario Fernandez, Enrique Molina, Jens Havskov, Kuvvet Atakan, 2000)

 1854年、コスタリカの太平洋側沿岸の都市は津波により大きな被害を受けたとの記録が残されています。
(Source: Universida de Costa Rica,RSN)

 ハワード船長が処刑されたのが1819年から1820年頃と考えられます。メアリー・ウエルチが流刑監獄から釈放されたのはそれから20年後のこと。1839年から1840年頃と考えられます。その後彼女は結婚し、相当な老婆になってから宝探しを始めます。英国海軍に逮捕された時の彼女の年齢が、仮に20歳だったとすると、釈放されたのが40歳の時で、直ぐに結婚。年齢的にはその可能性が高いと思います。

 宝探しを始めたのが60歳と仮定すると、1860年頃ということになります。それは、ココ島を襲った1854年の大津波の後ということです。

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  Foto: Nekoshi

 コスタリカの太平洋岸を襲った大津波は、当然ココ島にも押し寄せたでしょう。そして、地形を変えるくらいの変化をもたらしたのではないでしょうか。

 津波は、海底が浅くなるにつれて波が大きくなります。そして、津波が高く押し寄せる場所は、浜辺ということになります。海賊が財宝を隠したとされるココ島の数少ない浜辺であるウエハー湾の砂浜にも津波が押し寄せたのではないでしょうか。そして、そこで6ヶ月もの間キャンプ生活を送ったメアリー・ウエルチでさえ元の姿が分からなくなるほど地形が変わってしまった。もちろん、目印の大木など跡形もなく流されてしまった。

 大津波といっても波の高さは10m以下だったと考えられますが、ウエハー湾に浜辺ができるということは、その周辺は比較的遠浅な海底が続いているのだと思われます。そこでは、津波は高さを増し、内陸深くまで押し寄せます。

 伝説では、捕鯨船のクルーが薪の採取で財宝の隠し場所の目印だった大木までも切ったとされていますが、これはおかしい。木がたくさん生えているココ島で、海賊が目印に使うような杉の大木を切り倒す必要はありません。さらに、船で使う薪材としては針葉樹の杉は使わない。火持ちが悪いからです。

 数十年前まで、日本の遠洋漁業船は、燃料として薪炭を積み込んでいました。炭づくりに使う樹木の種類により薪炭にも色々な種類があるのですが、遠洋漁業船に積み込む薪炭は、広葉樹のナラから作られた最高級のものでした。それに海水をかけて燃えにくくして大切に使ったそうです。

 「津波」に不慣れな欧米人たちの記録では、目印が根こそぎ無くなっていることを論理的に説明できなかったために、捕鯨船の仕業ということにしたと思われます。これが、管理人が考えた新たな視角です。

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    Foto: 財宝を発見! 写っているダイバーはうちの息子たちです。撮影場所:グアム


目印が消えた原因が津波だとすると財宝は今どこに?
 欧米のトレジャーハンターたちは大きな過ちを犯しました。「津波」により地形が変化するということを知らなかったのです。

 ココ島で20年もの間、海賊が隠した財宝を探し求めたアウグスト・ギスラー(August Gissler)はドイツ人でした。彼には、「津波」という発想が全くなかったのだと思います。

 では、「津波」という要素を入れると財宝探しはどう変わるのか? 

 トレジャーハンターたちは、財宝を探すとき、@ 海賊たちはいつでも掘り出せるように、海岸から近い場所に埋めた、A そして、埋めた深さは、掘り出すことを考えて浅いはず、B もし、洞窟に隠したとすれば、その入り口は海に面しているはず、・・・・、などと仮説を立てたのではないでしょうか。

 しかし、「津波」が起こったとすると、彼らの立てた前提はすべて覆ることになります。
 @ 津波により財宝は内陸部まで砂と一緒に運ばれ、地下数メートルの場所に埋もれた、A 海岸の洞窟は津波により崩れてしまった、B 津波の引き波により、財宝は海底に引きずり込まれた、・・・・、という全く新しい仮説を立てることができます。すると、これまでの探査方法が一変することになります。

 従来は、金属探知機を使った探査が主流でした。しかし、この方法は"最新のテクノロジーを導入した探査"だったにもかかわらず、成果を上げることができませんでした。それもそのはず、彼らは、「海賊が埋めた財宝」を必死に探していました。しかし、「津波が埋めた財宝」という発想が全くなかった。だから、いくら探しても見つからない。

 いつの日か、・・・・、ココ島に、・・・・管理人が、・・・・財宝を探しに・・・、行く日が来る・・・

 ということはありません。管理人は船に弱いのでココ島までは行けません。机上で推論しているだけならタダですが、実際に行くとなると膨大な費用がかかります。さらに、下手に財宝が見つかってしまうと、欲に目が眩んだ同行者から殺されてしまうかも知れません。

 やはり、宝探しは、机上でやるもの。手を出したら人生を棒に振ってしまいます。

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 「海賊の財宝伝説に迫る」シリーズはこれでひとまず終了します。約5ヶ月かけて書いた記事です。
 なぜ、財宝が見つからないのか、それが管理人にとっての疑問でした。自分なりに推論を提示できたので、満足しています。「宝島」の財宝の歌は、スチーブンソンの創作ではなく、当時伝わっていた話をそのまま書いたものだと思います。 “Fifteen men on the dead man's chest Yo-ho-ho, and a bottle of rum! Drink and the devil had done for the rest Yo-ho-ho, and a bottle of rum!"
 海賊船には100人以上のクルーが乗っているのに、財宝を隠したのがなぜ15人なのか。この小説は、ココ島の伝説を色濃く反映して書かれていることが分かりました。

 
ココ島の財宝、ついに発見される!? (2015年3月10日報道)
 2015年3月10日付け「ワールド・ニュース・デイリー・レポート」が「ココ島で2億ドルの伝説の財宝出土」という見出しで、ココ島で財宝がついに発見されたと報じました。ほんの5ヶ月前のことです。

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  『Fabulous 200 Million Dollar Treasure Hoard Unearthed in Cocos Island

 この記事の内容は以下のようなものです。

 2105年3月10日、サン・ホセ発
 ココ島に駐留するコスタリカ国立公園レンジャーのグループが、最近発生した嵐の後で、現在、歴史上、最も価値のある驚くべき財宝を発見した。発見された宝物は、金貨や銀貨、金銀の延べ棒、宝石、燭台、宗教的な用具で構成されており、その価値はおおよそ200,000,000ドル(約249億円)と推定されている。

 ココ島は太平洋に位置する小さな島で国立公園に指定されており、コスタリカの太平洋岸から約550キロ(342マイル)に位置している。 この島には様々な宝物が隠されているという伝説はよく知られていたが、この島は「保護区」として1978年以来、そこでの宝探しが禁じている。

 6名のパークレンジャーたちが、渡り鳥など海鳥の営巣コロニーの嵐によるダメージの状況を評価するために、島の周りに調べていたとき、彼らは、波打ち際で埋もれた古い木箱、もしくは木製の衣装箱らしきものを見つけた。それを掘り出してみると、衣装箱は5つあり、他にも様々な物品が出土した。それらはかなり昔に埋められたものであることが分かった。

 「私たちは浜辺を歩いていました。すると、砂から何かが突き出ているのが目にとまりました。」パークレンジャーのイグナシオ・ラミレス氏(Ignacio Ramirez)は言う。

 「私たちはそれを掘り出しました。すると、いくつもの古い木製の衣装箱が出てきました。これらの箱は、すべて金と銀を満たされていました! その後、私たちは、二体の黄金の聖母マリア像、さらに、その他の宗教的な用具を掘り出しました。私たちは、自分たちの上官たちを呼び、『財宝を見つけた』と報告しました。 彼らは、私たちが冗談を言っていると思っていましたが、私たちが見つけたものを説明すると、専門家チームを派遣することを決めました。」

 宝物の中身は、天文学的数である89,000枚のコイン、金銀のインゴットと金銀細工の工芸品が含まれています。多くの宗教的用具は金や銀で作られており、貴重な宝石で飾られています。それらには、36の十字架、3つの聖杯、そして、幼子イエスを抱いた等身大の金無垢のマリア像2体が含まれます。

 (以下、略)

 この記事はとても良く書けていて、全く違和感を感じさせません。スペイン語の文章はいつもこんな感じです(この記事は英文ですが、たぶん、その原文はスペイン語でしょう)。

 しかし、この手のweb上の記事は、気を付けて読まなければなりません。書かれていることが本当にあったことか、まずはその真偽を確認する必要があります。

 この確認はとても簡単です。

 もし、上の見出しのような財宝が発見されたら、金の国際市場価格は少なからぬ影響を受けます。需要と供給の関係から、大量の黄金が発見されたというニュースは、急激な供給量の増加懸念から、金の価格低下を招きます。
 
 そこで、金の先物取引のチャートを見てみましょう。
 すると、2015年3月6日(金)に金の先物取引価格が大幅に下落しているのが確認できます(31.90ドル安)。財宝発見の記事が公開されたのは3月10日(火)なので、事前に情報を入手したグループが売り抜けたようにも見えます。

金先物取引チャート2015
Source: http://chartpark.com/gold.html

 実際のところ、上のような金価格変動は平時でも起きるので、別の方法での確認が必要です。

 そこで、次にコスタリカの新聞記事で確認します。2億ドルもの財宝が見つかったのが事実であれば、現地の新聞報道は大変なことになっている筈です。

 コスタリカの全国紙として下の6紙がありますが、日刊紙では、"La Nación"と"La República"が有名です。コスタリカ赴任中はいつも読んでいた新聞です。この2紙の報道ぶりを調べてみました(実際には、以下の全部の新聞を調べました)。

 @ LA NACIÓN San José www.nacion.com
 A LA PRENSA LIBRE San José www.prensalibre.cr
 B DIARIO EXTRA San José www.diarioextra.com
 C LA REPÚBLICA San José www.larepublica.net
 D AL DÍA San José www.aldia.cr
 E LA TEJA San José www.lateja.co.cr

 すると、案の定、想定していた結果となりました。「コスタリカの新聞各紙はどこも、この内容を報じていない」
 つまり、「でたらめの記事」だということが確定しました。

 まったく人騒がせな記事です。この記事を書いたのは「Barbara Johnson」という人です。ばからしいので、これ以上深追いするのは止めます。宇宙人やUFO出現の記事ならば、それなりに楽しめますが、こんな記事をもっともらしく書くこのHPの管理人はどうかしています。やっても許される程度の遊びとやってはいけない遊びの判別が付かない方のようです。ココ島の財宝伝説は、オカルト伝説とは一線を画します。オカルト伝説は儲かりませんが、ココ島の財宝伝説は大儲けできます。

 以下のサイトでも、この記事がフェイクであると指摘しています。ところが、HPの作り方が偽記事の発信元と同じなので、同一管理人でしょうね。自作自演か。あほらしい。
worldnews_fake.gif

 Source: http://www.thatsfake.com/was-a-200-million-dollar-treasure-hoard-unearthed-in-cocos-island/

 書きかけの部分が過去記事のあちこちにあるので、順次、校正を加えます。最初から通読された読者の方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。一ヶ月後くらいに再度ご覧戴くと、きれいな文章になっていると思います。

 「悪意のweb管理人」はたくさんいるようです。「悪意のweb管理人」が発した、「悪意に満ちた情報」を垂れ流すのは、本人の意思にかかわらず、同罪です。ネット上の情報は、必ず複数のメディアでその真偽を確認した方が良いようです。


posted by ネコ師 at 00:44 | Comment(3) | 海賊が隠したココ島の財宝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月16日

ベネット・グラハム船長とデボンシャー号の宝:海賊の財宝伝説に迫る5

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 ココ島にまつわる海賊が隠した財宝について、次に紹介するのが「海賊ベネット・グラハム船長」が隠したとされる「デボンシャー号の財宝(The Devonshire treasure)」です。

 この伝説は1818年から始まります。トンプソン船長の「リマの財宝」より2年ほど前のことです。

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プロローグ
 1818年、ベネット・グラハム船長(Bennett Graham)は、ネルソン提督の指揮の下で1805年10月のトラファルガーの海戦に参加し殊勲を立てた英国海軍士官で、ホーン岬とパナマとの間の海岸の調査をするために英国巡洋戦艦「デボンシャー号」(HMS Devonshire)を率て、南太平洋に派遣されました。

 ところが、グラハム船長と彼のクルーは、調査を行う代わりに海賊行為を始めます。そして、それは大成功を収めます。やがて、彼らの海賊行為について英国政府が批判されることになったことから、英国政府はグラハム船長と彼のクルーを捕らえるために軍艦を派遣します。

 しかし、この戦艦は彼らによって打ち負かされてしまいます。生き残った軍艦の士官と乗組員たちは、海賊の仲間になるか、それとも船縁から突き出た”渡し板”の上を歩くか選択を迫られます。もちろん、彼らは海賊になることを選びました。

 デヴォンシャー号は戦闘でひどい損傷を被り、グラハムは人数が増えた乗組員を移動させ、船の装備を拿捕したスペイン船に積み替えました。

 英国政府は、彼らを捕らえるため、新たに三隻の軍艦をカーニョ島近くの「ゴロ・ドゥルセ」に派遣します。ここでの戦闘で、グラハムの船は沈みました。

 彼らはボートで逃げようとしましたが全員捕らえられ、イギリスに連れて行かれました。グラハム船長と彼の士官たちは処刑されました、そして残りのクルーはタスマニアの流刑地に送られました。


メアリー・ウエルチ
 この終身刑を受けたクルーの中に一人の若い女性がいました。彼女は、グラハム船長の冒険に同行していました。彼女の名前はメアリー・ウエルチ(Mary Welch)。コーヒー・プランテーション農場主の娘でした。グラハム船長と恋に落ち、海賊と共に暮らしていたようです。二人のロマンスをLisaGraceという作家が"True Treasure: Real - Life History Mystery"という小説で発表しています。

 メアリーはタスマニアで20年間過ごした後に、釈放され自由の身となり、すぐに結婚します。

 その後、メアリーは年を重ね相当な老婦人になったとき、彼女は、埋められた宝物を掘り出そうと考えるようになります。しかし、自分ひとりではとてもできるようなことではありません。そこで、誰かに埋められた財宝の発掘に関心を持ってもらい、出資者になってもらおうと1853年、サンフランシスコに行きました。一時期、彼女は、海賊ベニート・ボニートの愛人だったと言っていましたが、その真意は不明です。いずれにしても、グラハム船長、ベニート・ボニート船長、トンプソン船長の三人の海賊船船長は、1821年頃にココ島を根城にしていた海賊たちであり、仲間でもありました。(グラハム船長とベニート・ボニート船長が同一人物であると考える人たちはかなりいるようです。)

 伝承によれば、「デヴォンシャー号」がメキシコのアカプルコに向け北上していたとき、グラハム船長は3隻の軍艦に護られ航行する財宝を積んだ2隻のスペインのガレオン船を発見します。勝算にかかわらず、グラハム船長は、躊躇なく攻撃を開始し、5隻の船全てを打ち負かし、財宝の掠奪に成功します。

 グラハム船長は、その後、ココ島に向け航海し、ウエハー湾の山の断崖に面した狭い渓谷に、四角いシャフトを沈めました。そして、そのシャフトの底からトンネルを掘り始め、洞窟まで10メートル(35フィート)の距離を掘り進めました。

 掠奪したスペインの巨額の財宝は、この洞窟に移され隠されました。このシャフトはいつでも財宝を取り出せるように、固定されました。

 それからしばらくして、グラハム船長は次の獲物を探しに、略奪の航海に出発しました。そして、この時、傷から回復しなかった14人の水夫、船の外科医とメアリー・ウェルチが島に残されました。

 6ヵ月が経過し、グラハム船長がココ島に戻る前に、宝物を積んだスペイン船を見つけ、これを押収して島に持ち帰ろうとしました。

 しかし、この時期、グラハム船長の悪行を英国海軍本部は耳にしており、海賊に変節した英国の海軍士官と彼のクルーを捕らえるため2隻のフリゲート艦が太平洋に派遣しました。そして、デボンシャー号はフリゲート艦に発見されてしまいます。グラハム船長は、逃げることはできないと覚悟を決めます。
 
 グラハム船長は、宝の洞窟のありかを示す地図を作り、それを常に身につけていました。彼は、自分の逮捕が間近に迫ったとき、メアリーにその地図を渡しました。それは、自分よりも彼女の方が責任追及の尋問から逃れられるチャンスが大きい、と考えたからでした。

 彼女は、長い年月、この地図を護り続けました。後年、財宝を回収する時に使うためです。

 メアリーは裕福な出資者を見つけ、財宝探しの航海に出て、再びココ島に上陸します。しかし、彼女の努力は不首尾に終わりました。

 6ヶ月間をココ島で過ごした彼女でさえ財宝の隠し場所を見つけることができなかったのです。その理由は、財宝を隠した洞窟があるウエハー湾の外観が年月の経過とともに大きく変化していたからでした。

 彼女が目印の1つにしていたものは巨大な杉の木でした。そして、彼らはココ島に滞在していたときに、しばしばその近くでキャンプをしていました。そこは、グラハム船長の船が航海に行っている間、彼女と船医、そして、治療中の14人のクルーたちと滞在していた場所でした。

 ところが、この杉の木だけではなく、近くの樹木は全て伐採され、跡形もありません。すべての目印が消え失せていたのです。これは、水と燃料の補給基地としてココ島に立ち寄っていた捕鯨船により伐採されたものでした。

 財宝は発見されませんでしたが、この女性の話は、探検の資金を出した人々に信用されていました。それというのも、財宝を隠した洞穴の掘削に関連して、メアリーは、とても詳しく説明することができ、その内容が現地の状況ととても良く符合していたからです。

 ココ島についての彼女の深い知識、たとえば、生えている植物、動物の生態、特に鳥の生態は、そこにかなりの期間居住した者以外には絶対知ることができない内容でした。

 さらに、財宝の洞窟の掘削に関連して、メアリーはとても珍しい土壌条件を説明していましたが、その後の遠征で、地図に示された場所を実際に掘削してみると、メアリーが説明した通りの土壌でした。このようなことから、彼女の話が虚構ではないと信じられるようになります。

 地図は英国当局の探索の手を逃れました。しかし、英国政府は、宝の洞窟の場所についてのいくつかの情報を他のクルーから入手していたに違いありません。事実、海賊ベネット・グラハム船長によってココ島に隠された盗品を探す最初の発掘調査は、英国海軍の手によって行われました。

 グラハム船長は、彼が海賊をしていたすべての期間、ココ島を基地として使っていました。そして、そこには未だに、ガレオン船から略奪した積荷が埋められているのです。

 「デボンシャー号の財宝」は、ローア・カリフォルニア、メキシコ、そしてペルーからの金塊350トン、その現在価値は控えめに見積もっても1.6億ドル相当と見積もられています。


この伝説は真実なのか?
 グラハム船長の伝説は、どうも脚色されているようです。そもそも、グラハム船長という人物の存在が英国の海軍士官名簿で確認できないらしい。不名誉なので抹消したということも考えられますが、果たして実在の人物だったかどうかは疑わしい。さらに、「デボンシャー号」は太平洋に行っていないとか、当時のこの船の船長名が違うとか、いろいろ明らかになっているようです。いや、明らかになっているのか、闇が広がっているのか定かではないのですが、もっともらしい伝承だけに、あら探しをするとかなりボロボロの伝承のようです。グラハム船長と 

 世の中には、一つの誤りを見つけただけで、すべてが間違っていると思い込む人がいます。ご本人は、間違いを見つけたのだから「論破」したと考えるようです。

 「公式記録に名前がないからその人物は架空の人物である。」

 このように言い切るためには、もっともっと多くのことを調べる必要があります。資料を孫引きするのではなく、自分で丹念に調べ直す必要があるでしょう。でも、それはたぶん無理でしょう。日本で調べることができる範囲は限定されています。できるとすれば、「公式記録を調べた」と書いた人物が信頼できる人物かを調べることでしょう。でも、これも難しい。誰が調べたのかが「記録にない」(笑)。記録がないのに結論だけが一人歩きしている、という事例が散見されます。

 海賊の財宝は、存在しないという前提で話を進めてもつまらない。やはり、「財宝伝説は真実」という仮説の下で推理していく方が楽しいですし、いろいろ勉強になります。

 ココ島に隠された財宝を探しに、これまでに300を超えるトレジャーハンターチームがこの島を訪れました。 絶海の孤島で宝探しをするためには多額の資金が必要になります。彼らは多額の資金を投じて、存在しない海賊の宝物を必死に探していたということでしょうか。

 トレジャーハンターたちは、自分たちだけが見つけた「暗号」を他人に教えるということはないでしょう。同様に、海賊の財宝にまつわる伝承をそのまま鵜呑みにすることはできない、ということも冷静に考えれば分かることです。本当のことは誰にも教えない。教えるはずがありません。

 
 (この記事は書きかけです。)

True Treasure: Real - Life History Mystery (English Edition) -
True Treasure: Real - Life History Mystery (English Edition) -

【Reference】

"Cocos Island - Old Pirates' Haven", Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
"Legends and Lore of Cocos Island" by Peter Tyson


posted by ネコ師 at 03:41 | Comment(0) | 海賊が隠したココ島の財宝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月08日

エドワード・デイビス船長の財宝:海賊の財宝伝説に迫る4

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 ココ島に財宝を隠したといわれている海賊は何人かいますが、今日は、「エドワード・デイビス船長」について書きたいと思います。

 前回のトンプソン船長の『リマの財宝』は1821年頃の話でしたが、エドワード・デイビス船長の財宝はそれより140年ばかり時代を遡った1680年代の伝説です。

Hourglass pirate's ship
Photo: Nekoshi



プロローグ
 とても頑固で頑丈なバッカニア(buccaneer)、エドワード・デイビス船長は、1680年代にカリブ海で活躍したイギリスの海賊です。彼は紳士であり、すべての海賊とそのリーダーたちの上に立ち、残酷で非人道的な残虐行為は決して行わない男だと信頼されていました。そして、暗黙のうちに全ての部下たちから信頼されていました。

 当時、彼は、海賊クーク船長(John Cooke)の「リベンジ号“The Revenge”」に乗っていました。 

 海賊クーク船長は、18の大砲を持つ砲艦「リベンジ号 」でチェサピーク湾から出港して 、すばらしいデンマーク船を拿捕します。彼は、全ての積荷を奪った後、「リベンジ号」を沈め、奪った船を「バッチェラーズ・ディライト号(“Bachelor's Delight")」と名前を変更し、新たな海賊船に仕立てました。「独身者の喜び号」という船名のようです。

 その後、ホーン岬を周り、ゆっくりと南アメリカの沿岸を北に航行し、そこでスペイン船を捕獲し、また、スペイン入植地を攻撃し略奪しています。

 クーク船長は日本ではほとんど知られていない海賊です。名前が似ているジェイムズ・フック船長(Captain James Hook)は、別人です。フック船長はディズニー映画に登場する手にかぎ爪(Hook)がついた片足の船長で、架空の人物です。海賊ティーチ「黒髭」がモデルになったと言われています。

 エドワード・デイビスは1683年から1702年までの20年間、海賊として有益な経験を積んでいました。エドワードは、ジョン・クーク船長の船の操舵手として、最初に西インド諸島で、後になって太平洋で海賊行為を働き、船の中で確固たる地位を築いていました。

 1684年2月、彼が乗ったクーク船長の海賊船「「バッチェラーズ・ディライト号」はホーン岬を周り、南米大陸を北上していました。

ロビンソン・クルーソーには実在のモデルがいた!
 エドワード・デイビスの船乗り仲間の中で、貿易についてかなり知識を身に付けていたのはウイリアム・ダンピール( William Dampier)とライオネル・ワッフル博士(Dr.Lionel Wafer)でした。後年、ワッフル博士が探検旅行について書いた雑誌は、この時代のベストセラーで、彼らと同時代の人である有名なダニエル・ディフォーのような作家たちにとっての極めて貴重な原資料となりました。

 前述のダニエル・ディフォーが書いた有名な冒険小説「(ロビンソン・クルーソー(1709))は、まるでノンフィクションであるかのような迫力がありますが、それもそのはず、この小説には原典があり、実在したモデルがいました。アレクサンダー・セルカーク(Alexander Selkirk)というスコットランド人です。

 ウイリアム・ダンピール(William Dampier , 1652-1715)が乗った船が、このアレクサンダー・セルカークを救出しました。

 ちなみに、探検家の高橋大輔氏が、アレクサンダー・セルカークが暮らした島、チリのロビンソン・クルーソー島を訪れ、彼の住居跡を発見しています。『探検家 高橋大輔ブログ』 。

 ココ島の「ダンピール・ヘッド」または「ダンピール岬」(Cocos島の南海岸にある)は、彼の名前に由来します。同様に、ウエハー湾と「ライオネル・ヘッド」は、ライオネル・ウエハー博士(Dr.Lionel Wafer, 1660-1705)の名前から命名されました。


ココ島に財宝を隠す
 話を続けましょう。
 南米大陸の太平洋岸を北上し、チリ沖を航行していた「バッチェラーズ・ディライト号」は、フアン・フェルナンデス(Juan Fernández、ロビンソン・クルーソー島:Robinson Crusoe Island)に投錨します。

 ロビンソン・クルーソー島の西160Kmに島があります。この島には、ロビンソン・クルーソーの実在のモデルであるアレクサンダー・セルカークの名が付いています。

 この島は、ウエハーにちなんで別名” Juan Fernández”とも呼ばれています。
 ちなみに、Google Mapで検索窓に「Alexander Selkirk, chile」として検索し、次に「Juan Fernández chile」と入力してみて下さい。どちらも同じ島が表示されます。

 その後、エクアドルのガラパゴスに到着します。「バッチェラーズ・ディライト号」は進路を東にとり、エクアドルの沖合のドレーク島(Drake’s Island、現Isla de la Plata)に寄航します。

 彼らは覚えていました。1世紀前、フランシス・ドレーク卿(Sir Francis Drake)が、彼の船を軽くするために、鉛と勘違いした数トンの銀のインゴットを海中に投じたのがこの場所だったということを。

 「バッチェラーズ・ディライト号」の乗組員たちは、ここで、財宝を釣り上げようと、毎日、財宝釣りをしましたが、うまくいきませんでした。

 この海賊、著者は、海賊バーソロミュー・シャープ、そして悪名高い「紳士」、私掠船のエドワード・デイビス、そして、彼の海賊船の外科医で自然主義者であるライオネル・ウエハー博士と一緒に、太平洋岸のスペインの町を略奪しました。ライオネルは財宝を埋め、暮らしていた当時のココ島ついて、生き生きとした記述を残しました。

 ダンピール船長もまた、自らの冒険の歴史「A new Voyage Round the World, 1697」を書き残しました。

 しかし、スペインの新世界の植民地は、魚を釣るよりもたやすく、「ゴールデン・ハインド号(Golden Hind)」の赤ヒゲ船長の時代と同じように、1684年には多くの富を生産していました。

 「バッチェラーズ・ディライト号」がココ島に到着する頃には、船倉は宝で一杯になり、そして、船長が新しくなっていました。1684年7月、クーク船長はコスタリカのニコヤ湾(Golfo de Nocoya)で死亡し、エドワード・デイビスが新しい船長に就任していました。その時、彼は、1000人以上の海賊を従えていました。

 エドワード・デイビス船長の下で、事業は成功しました。彼はまったく有能な男性で、全ての活動がビジネスライクであり、彼は生まれながらのリーダーでした。彼は、自分が海賊や罪人だとは決して考えたことがなかったでしょう。彼は愛国的英国人としての義務を果たし、当時のイギリスの敵国の船や町を襲撃しました。

 デイビス船長たちはココ島に彼らの拠点を築き、バハ・カリフォルニアからグアヤキルに至るスペイン植民地を襲撃しました。

 彼はニカラグアのレオンの街を襲って数十万枚のスペイン銀貨(piece of eight)を略奪しました。島にはその戦利品を保管するための貯蔵庫が造られ、財宝を運び入れました。船を傾け修理、整備し、彼の部下を数週間休ませた後、、再び、更なる冒険に出港していきました。

 海賊船の外科医で自然主義者であもライオネル・ウエハー博士は、デイビスとその仲間たちが財宝を埋め、暮らしていた当時のココ島ついて、生き生きとした記述を残しました。

 「バッチェラーズ・ディライト号」は、、時折、他の海賊船と行動を共にしました。たとえば、スワン船長(Captai. Swan)の有名な「海賊船シグネット号(The Cygnet)」(後に、ウィリアム・ダンピールが船長となる)、イートン船長(Captain Eaton)の「ニコラス号(The Nicholas)」そして、あるときは、フランスの私掠船とも一緒に活動しました。これらの海賊は全て、略奪した財宝を隠すために、必ずココ島に戻りました。

 海賊たちは、この時期、「数トンの銀のインゴット、宝石とスペイン銀貨(piece of eight)で満たされた衣装箱、砂金で一杯の革袋などの財宝」を島中に埋めました。そして、現代のトレジャーハンターたちは、過去に発見されたのは、隠された財宝のほんの微々たる部分に過ぎないと考えています。

 記録によれば、「バッチェラーズ・ディライト号」は、スペインへの航路上にあるリマのカリャオ(Lima, Callao)からパナマにかけての海域でスペインの貨物船を襲い、その積荷をココ島に運び込みました。そして、これらの財宝は、デイビスがホーン岬を周りジャマイカに帰国する直前の最後のココ島寄航の時、島に埋められました。

(管理人心の声: “おいおい! どんだけの量の宝物があるんだよ!”)


エピローグ
 <突然ですが、> 彼は逮捕されますが、彼は罪状のほんの一部だけを認めて、「陛下の慈悲("Majesty's mercy)」に基づく大赦より、彼の罪は許されます。これは、イギリス国王ジェームズ2世(在位:1685 - 1688年)よって全ての海賊(プライベーター)に提示された恩赦でした。その後、彼は、ココ島に戻って彼の財宝を回収する機会を待つ間、バァージニアで楽く快適な隠遁生活を送ります。

 彼は小さな船で出港しましたが、昔の誘惑が彼を破滅に導きました。カリブ海を敗走しながら、中米の海岸に沿って小さな略奪を繰り返した後、ポート・ベロに無駄な攻撃を行ない、その後、不思議なことに歴史のページから消えました。

 (途中ですが、ここまでで、取り敢えずアップロードします。文献調査が途中なので、後日、追記します。)

 エドワード・デイビス船長、キャプテン・クーク、ウエハー及びダンピラーの公海上における功績に続き、物語は『デボンシャーの宝("Devonshire" treasure)』の移ります。


【参考】
"Cocos Island - Old Pirates' Haven", Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
Wikipedia: “John Cooke (pirate ) “  https://fr.wikipedia.org/wiki/John_Cooke_%28pirate%29

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2015年08月06日

『リマの財宝』の伝承に迫る:海賊の財宝伝説に迫る3

エンブレム2015.png

 海賊が隠した財宝を追い続けるトレジャーハンターたちの間で知らぬ者はいないというほど有名な伝説が『リマの財宝』にまつわる話でしょう。
 今日は、この『リマの財宝』について詳しく書きたいと思います。

Deck1.jpg



プロローグ
 『リマの財宝』とは、ペルーのリマから持ち出されたもので、それは当時の価値で12〜16百万ドルと見積もられています。Wikipediaでは、現在の価値で「 £160 million」、日本円に換算すると約312億円( 194.872754 円/ポンド)と見積もっています。

 この財宝が有名な理由は、この財宝の存在が史実に基づくものであると確認されていることと、その財宝の価値が他を寄せ付けないほど抜きんでて巨額であることによります。

 この財宝がなぜ奪われたのか、そして、なぜ一つの船に、後に『リマの財宝』と呼ばれるほど膨大で貴重な宝物が積み込まれたのか、疑問が残ります。その解明には、当時の状況を理解する必要があります。順を追って見ていきましょう。

 中南米、カリブの島々は、コロンブスによる新大陸到達以来ずっとスペインが統治してきたような錯覚に陥りますが、実際には、ヨーロッパ諸国もこれらの植民地を常に狙っていました。

 この記事のテーマである『海賊』たちは、結局の所、ヨーロッパ諸国の覇権争いの中で生まれた者たちでした。海賊の出身国を見ると、イギリス人の海賊が有名ですが、数の上ではフランスの海賊の方がはるかに多かったようです。

 スペインとイギリス、スペインとオランダ、オランダとイギリス、イギリスとフランス・スペインという二国間あるいは三国間の敵対関係から、敵国の商船を襲う海賊行為が公然と認められる時代でした。

 1590年代にスペインは護送船団方式により、イギリスの私掠船攻撃を回避します。

 「海賊の黄金時代」は、Wikipediaを引用すると、1650年から1730年までをいい、次の3つの時代に分けられるそうです。

 1.バッカニーア時代(1650年 - 1680年頃) - イギリス人やフランス人の船乗りがジャマイカ島やトルトゥーガ島を拠点に、カリブ海や東太平洋を周航しスペイン植民地を攻撃した時代。
 2.海賊周航時代(Pirate Round, 1690年代) - バミューダ諸島や南北アメリカ大陸から長距離航路に乗り出し、インド洋と紅海のムスリム商船や東インド会社の船を襲った時代。
 3.スペイン継承戦争以降の時代(1716年 - 1726年) - スペイン継承戦争が終結して職を失ったイギリス人、アメリカ人の水夫や私掠船員が海賊に転じ、カリブ海、アメリカ大陸東岸部、アフリカ西岸を襲撃した時代。
 (Source: Wikipedia 「海賊の黄金時代」

 この区分では、第三期の黄金時代の終わりを1726年としています。これは、同年に処刑された海賊ウィリアム・フライの死をもって海賊の黄金時代の終焉となった、とする歴史家マーカス・レディカーの記述を根拠としているようです。

 さて、この後はどうなったのでしょうか。

 イギリスは、海軍力を強化し、もはや私掠船は無用の長物となり、海賊船の取り締まりを強化します。
 一方、1805年のトラファルガー沖海戦で、フランス・スペイン連合艦隊はイギリスに惨敗し、スペイン艦隊はほとんどの艦船を失い、スペインは新大陸との交易にも支障をきたすようになります。翌1806年、ダックワース提督の率いる英艦隊がサンドミンゴの西仏艦隊を撃滅します。
 さらに、1808年、スペイン国王フェルナンド7世がナポレオンに幽閉されます。ナポレオンは、アメリカ大陸スペイン領内の自治化を促します。1814年にナポレオン戦争が終わりフェルナンド7世が復位すると、アメリカ大陸での独立運動が激化します。

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 凋落の一途を辿るスペインに対し、勢力範囲を拡大し、ラテンアメリカを経済で支配しようとするイギリス。そして、ラテンアメリカの独立運動の嵐。『リマの財宝』が奪われた1820年は、このような時代でした。


南米におけるスペイン植民地の崩壊
 この物語は、1820年のスペイン領ペルーから始まります。今から約190年前の話です。

 3世紀の間、ペルーの歴史は、実質的に南米スペインの歴史でした。リマに置かれた副王は、ペルーの副王領だけでなく、南米大陸のほとんどすべてのスペイン総督を管理する権限を持っていました。

 17世紀まで、1535年に設置されたヌエバ・エスパーニャ副王領、1543年に設置されたペルー副王領の、2人の副王しかいませんでした。ヌエバ・エスパーニャ副王はメキシコシティを首都とし、メキシコ、及び中米、北米、カリブ海とフィリピン諸島のスペイン領を統治しました。一方のペルー副王はリマに首都を構え、南米のスペイン領全域を支配しました。南米のベネズエラがヌエバ・エスパーニャ副王の統治下に入るときもありました。新大陸でのスペイン植民地の拡大に従い、1717年には新たにヌエバ・グラナダ副王領(首都ボゴタ)、1776年にはリオ・デ・ラ・プラタ副王領(首都ブエノスアイレス)に副王が置かれました。(Wikipedia 「副王」)。

 1700年代に入り、スペインの南米領土は縮小の一途を辿ります。そして、スペインは、1824年12月9日にアントニオ・ホセ・デ・スクレ率いる革命軍にアンデス高原のアヤクーチョの戦いで敗れます。これにより、スペインは南米のすべての植民地を失うことになります。

 この動きをGIFアニメでご覧下さい。赤がスペイン領土です。1700年には南米大陸の広範囲を占めていたスペイン植民地が、独立運動の激化により減少し、短期間に消滅していく様子が分かると思います。 
 
Southamerica1700.gif

 Source: Wikipedia "History of South America"を加工


 ペルーとその従属する地域で採掘される貴金属を国王への分け前(税)としてスペインへ送ることは、副王の義務でもありました。現在のボリビアのポトシで見つかった銀鉱山が富の唯一の源でありませんでした。金は、アンデス山脈で、インカ族の時代から採掘されました。エメラルドは、コロンビアからリマに送られ、卓越したインカ職人の技術によって複雑なデザインにカットされました。

 植民地からスペインに向けて定期的に蓄積された財宝が船に積み込まれました。しかし、この巨大な財宝をスペインへ毎年輸送するのは常に危険に満ちていました。1805年のトラファルガー沖海戦で、スペイン艦隊はほとんどの艦船を失い、「護送船団方式」を維持できなくなっていました。


独立運動の嵐
 当時、西半球すべてが革命の機運で覆われていました。
 北アメリカにおける13のイギリス入植地の結束は、旧世界支配からの束縛を捨て去ることになります。そして、他の地域の独立運動家を勇気づける事例となりました。

 1820年に、革命軍指導者ホセ・デ・サン・マルティン(José de San Martín)の指揮の下の反乱軍とトーマス・ロード・コクラン提督(Admiral Thomas Lord Cochrane)指揮下の艦隊は、チリからペルーに侵入を開始しました。1年後に、サン・マルティンはリマに入城し、自分自身をペルーの「保護者」と宣言しました。

 リマの財宝についての伝承のいくつかは、シモン・ボリーバルがペルーに侵攻し、リマを掠奪したと伝えていますが、それは史実に反します。サン・マルティンがボリーバルとの共闘を申し出て、両者がグアヤキル(Santiago de Guayaquil)で初めて会見したのはリマ陥落後の1822年7月のことです。

 反逆軍は、陸ではスペイン軍を破るのに苦戦します。しかし、海上ではコクラン提督(ダンドナルド伯爵)の活躍により優位を保ちました。彼の艦隊は、 1817 年にチリ海軍に編入され、1819年から1823年にかけて、太平洋からスペイン艦隊を駆逐する作戦行動を展開しています。

 戦闘はその後も続きます。戦わずしてリマを去った無傷のスペイン王党派の軍は、一時的にリマの奪還に成功します。しかし、1824年のアヤクーチョの戦い(Ayecucho)で敗れ、スペイン軍は壊滅し、南アメリカでのスペインの支配は永遠に終わりを告げました。

 当時の歴史的な流れはこのようなものです。しかし、リマに住む当時の人たちにとって、このような歴史的展開になるとは全く想像もできないことでした。

 ここで、1820年に話を戻しましょう。

 スペインへの海路は危険にさらされ、時折閉鎖されたことから、リマの副王は、何年にもわたり、国王へ「納税」することができずにいました。この間にリマに蓄積された金塊は膨大な量で、最も信頼できる記録によれば、その一部は、サン・マルティンがペルーを侵略する前の11年間、蓄積されていたものでした。

 しかしながら、サン・マルティンの活躍によって達成された1818年のチリの独立にもかかわらず、ペルー副王は、反逆者のペルーへの侵入を真剣に受け止めませんでした。彼やリマの住民たちは、反逆者が副王の座を奪うことになるとは全く想像していませんでした。ここリマには、西半球におけるスペインの勢力が集中していたからです。チリ、ベネズエラ、そしてコロンビアにおける争いは、遠くの領域での周辺的な紛争であって、いづれそれは消滅すると、彼は自信をもって思っていました。

 特にサンマルティンと彼の軍が首都にあと50マイルに迫るまで、副王は、よき時代の幻想を回顧し、何ら心配していませんでした。


財宝をいかに輸送するか
 反乱軍が目前に迫る中、副王が最初に考えたのが、彼が保管している膨大な量の金銀財宝など貯蔵品の保全でした。

 同様の考えは、富かな教会の財産を管理しているリマの聖職者当局の心に浮かびました。当時、リマ市内には50あまりの教会がありました。そこには数え切れない程の金銀で装飾された宗教的調度品、彫像、金貨などがありました。もし、敵の軍隊がリマに侵入したとしたら、サン・マルティンとその軍隊は、スペイン王の財宝を保全しようなどと考えるはずもなく、ましてや、教会の財産などは論外でした。

 反乱軍が迫る中、恐怖と狂気が渦巻きます。急遽、真夜中に開かれた副王と聖職者との一連の会議を通して、対応策が話し合われました。何をすべきか? 財宝をリマの市中に隠すという考えは向こう見ずなものでした。誰かが、ほぼ間違いなくその所在を侵入者に密告します。副王と秘密評議会の聖職者たちに残された唯一の選択肢は、彼らの財宝を船に乗せ国外に持ち出すことでした。

 この計画では、最初に、リマから7マイルほど離れた積み出し港カリャオ(Callao)まですべての財宝を運ぶというものでした。副王が金銀財宝を保管していたリマ市内の倉庫は空になりました。また、教会は、純金と銀の装飾品が取り除かれて空になりました。リマの大聖堂の丸天井に設置された厚い金箔でさえ取り除かれました。

Catedral de Lima


 財宝の移動は成功裏に終わりました。財宝は衣装箱と生皮のケースに詰められ、牛車に積み込まれ、厳重な警備の下にカリォオまで運ばれました。


トンプソン船長の登場
 幸運なことに(不運なことに)、港には、英国ブリストルの商船「メアリー・ディア号(Mary Dear)」が碇泊していました。この船の船長は、スコットランド出身のウイリアム・トンプソン(William Thompson)でした。

 スペイン人たちは、この船を使えば、突進してくる反乱軍から財宝を救うことができるかも知れないと考えました。イギリス国旗を掲げた英国商船「メアリー・ディア号」なら、反乱軍の海軍の目を欺くことができると考えたのでした。

 そこで、副王の側近がトンプソン船長に接触します。この気の利いた英国人紳士は副王の提案を受け入れました。

 この計画は、すべての財宝を「メアリー・ディア号」に積み込み、そして、トンプソン船長は直ぐに沖に出て、数ヶ月間、危険地帯を出るまで航海する、あるいは、危険が経過したという連絡を受けるまで航海するというものでした。連絡を受けたら直ちに、船はカヤオに戻り、宝物を降ろすか、あるいは、パナマのスペイン当局にそれを送り届けることができます。トンプソン船長は、ペルー人によく知られた男で、信頼がありました。彼は、過去三年間、この沿岸で商売をしていました。彼は非常に有利な条件で彼の船をチャーターすること、さらに、積荷の財宝を見張るために、二人の司祭と6名の副王が信頼できる男たちが同乗することに同意しました。


「リマの財宝」の旅立ち
 すべてが順調に進み、1820年8月のある夜、メアリー・ディア号はカヤオを出港しました。この船に積まれた財宝は、当時の価値で、12百万から60百万ドルと見積もられました。

 このように価値の幅が広い理由の一つには、元の目録を最初に見た歴史家に原因があります。すなわち、彼らのうちの1人は英ポンドで合計を報告しました。

 その後のライターは、ポンドをドルに変更し、より高い値段になりました。財宝の中で最も価値のある品物は、すぐに交換可能な金と銀の地金を除いて、金無垢で宝石が全身にちりばめられた等身大の聖母マリア像です。その重量は1トンを超えていました。

 このような話は、1821年8月19日付けのコクラン提督の日記によって確かめられるという事実がなければ、とてもフィクションのように聞こえるかもしれません。彼の日記には、『スペイン人たちは、今日、カリャオ(Callao)の要塞を救援、補強して、何百万ポンドもの金と銀貨を、何ら問題なく送り出した。それは、実際のところ、安全のために砦の中に保管されていたリマにあるすべての富である。』と書かれています。


海賊になったトンプソン船長
 メアリー・ディア号は自国の国旗を掲揚しました。このあたりの沿岸をパトロールしているコクラン提督(Cochrance)率いる反逆軍のスループ帆船の検閲を逃れるために、大きく迂回する航路を採る長期間の航海のためには、どこかで水や食料品など必需品を調達する必要がありました。

 出港して幾日か経った頃、今まで正直な英国紳士であった船長が豹変します。夜が明ける前に彼らは、スペイン人警備員6名と二人の司祭に襲いかかり、彼らの喉を切り裂き、サメが出没する海へ投げ捨てました。

 その後直ぐに、彼らは、財宝をどうするかという問題に直面しました。進路を南に向け、ホーン岬を回ってイギリスに戻るのはとても危険でした。そのような長旅に必要な食料や水などの必需品を積み込んでいなかったからです。さらに、コクラン提督の反乱軍のスループ帆船が沿岸を監視しています。

 中米かメキシコのどこかに碇泊するということは、スペイン人に捕らえられる恐れがあります。ポリネシア諸島を通り、アフリカを回ってイギリスに寄港する西周りの航海について議論が行われました。しかし、そのルートは馴染みのないものであり、水がなくなる前にどこかの島にたどり着けるかどうかは、かなり疑わしい状況でした。最後に、財宝は、できるだけ早く隠すということで意見は一致します。トンプソン船長は、ある解決策を持っていました。


宝島に財宝を隠す
 「ココ島だ」、トンプソン船長は言いました。そこは大きさがほどよい無人島で、中米の陸地からは数百マイル離れており、誰の干渉も受けずに財宝を隠すことができる。それから、1、2年後、独立運動が落ち着き、ほとぼりが冷めた頃、船長は、事前に決めたとおり他の船員と落ち合い、ココ島に戻り、誰にも邪魔されることなく隠した財宝を掘り出して、それをイギリスに持ち帰ることができます。

 乗組員たちはこの案に賛成します。そして、トンプソン船長は、メアリー・ディア号の舳先をパナマから350マイル離れたココ島に向けました。

 ココ島は、190年前とほとんど変わっていません。起伏に富んだ地形で、島全体がジャングルに覆われています。不規則な海岸線が深く入り込み、島の北側には3つの絵のように美しい湾であります。

 メアリー・ディア号はこれらの湾の一つに船を乗り入れ、投錨し、船の貴重な荷物の陸揚げを始めました。

 船の大型ボート(Long boat)は荷の重さで船縁数センチのあたりまで沈んでいます。船から浜辺まで財宝を陸揚げするのに、大型ボート一杯に積み込んでも11往復する必要がありました。それから、船長と乗組員が熟考の末に選んだ”ある場所”に財宝は隠されました。残ったごく少額のコインだけが乗組員に分配されました。


トンプソン船長、逮捕される
 この後直ぐに、メアリー・ディア号は、海岸沿いの小さな村から掠奪して物資の補給をしながら、ホーン岬を周る航路を帆走していました。そして、その時、スペインの戦艦に遭遇します。

 この時の状況について、いくつかの言い伝えがありますが、その時出現したスペイン艦隊は、コクランの艦隊との戦闘で消滅を免れたスペイン王党派艦隊の可能性が最も高いと考えられています。いずれにしろ、艦隊の司令官は、副王とトンプソンとの間の契約のことを知っていました。

 戦艦の艦長は、当然、カリャオで彼に託された宝物に何が起こったのか知ろうとします。しかし、トンプソン船長から満足のいく答えが全く得られなかったため、メアリー・ディア号の乗組員たちは全員逮捕され、パナマに連行されました。

 パナマに着くと直ぐに、トンプソン船長と彼の乗組員たちは、公海上での海賊行為と殺人の容疑で裁判にかけられました。

 短い裁判の結果は、想像通りのものでした。トンプソン船長以下全員に対して、即座に絞首刑の判決が言い渡されました。

 判決後直ちに、絞首刑の執行が始まりました。そして、刑の執行は、乗組員の身分の低い者から始めて、航海士、そして最後に、船長という順番で執りおこなわれました。

 下級乗組員の最後の一人が絞首台に送られたとき、残った二人の男、トンプソン船長と航海士は、官憲に対しある取引を持ちかけます。

 「もし、自分たちの命を助け、そして、自由を保証することができるのであれば、あなたたちスペイン人を盗まれた宝物を埋めた場所まで案内する。」

 死刑執行人の中にペルー人がいましたが、彼らは宝物を取り戻すことを願っていました。彼らは船長たちの申し出を承諾します。なぜなら、この申し出が、財宝を見つけ、それを回収することができる唯一の方法であると、誰もが知っていたからです。

 ここから先は諸説あります。小説家が、事実よりもむしろ伝説に飛びついて、この後に続く物語をどのようにゆがめたかを知るのは興味深いです。

 ひとつの伝承として、たとえば、次のようなものがあります。

 トンプソン船長と航海士は、スペイン人たちをガラパゴス島に連れて行き、無駄足を踏ませたあげく、逃げ出して、後に、英国の捕鯨船に拾われ、結局、無事に本国に到着します。

 しかし、実際に起こったのは次のようなことでした。


ココ島へ! そして、囚人の逃走
 トンプソン船長と航海士、そしてペルー副王当局が派遣した財宝発掘隊は、財宝を回収しにココ島へ向かいました。トンプソン船長と航海士は密談し、地理に詳しい当局関係者たちを、違う島に連れて行くなどして欺くという行為は愚かだという結論に達します。このため、彼らが実際に財宝を埋めたココ島に案内しました。

 ガラパゴスの位置とメアリー・ディア号が拿捕された海域から計算される時間と距離から考えて、ガラパゴスに財宝を隠したというストーリーをねつ造しても、容易にウソがばれるのは明らかでした。

 そして、南米あるいは中米の本土への陸揚げというようなことは、実際行われていなかったことはかなり明白でした。なぜなら、何人かの船乗りたちが、絞首刑になる前に、すでにココ島について白状していたからです。

 捜索隊がココ島に到着したとき、チャタム湾(Chatham Bay)に投錨しました。捜索隊は、二人の囚人を連れて、当局者と完全武装した6人の兵士とともにボートで浜辺に上陸します。

 浜辺に上陸すると、トンプソン船長と航海士は、距離と方角を測る身振りをしたかと思うと、突然走り出し、水際まで繁茂していたジャングルの中に逃げ込みました。

 警備兵たちは驚いて、藪に向けてマスケット銃を乱射しましたが、囚人たちに逃げられてしまいました。スペイン人たちは、その後数日間にわたり、逃げた囚人たちを入念に探し回りましたが、結局見つけることはできませんでした。ジャングルに逃げ込んで隠れている二人の男を捜し出すことは、現実的に不可能でした。それほどココ島のジャングルは樹木がうっそうと生い茂る場所でした。

 結局、捜索隊は失意のうちにココ島を離れ、パナマに帰港しました。そして、逃走した二人の囚人の捜索は二度と行われることはありませんでした。


エピローグ
 伝承は次のように伝えます。数ヶ月の間、二人はココ島に留まります。ココナッツや鳥の卵をとったり、魚や獣を捕まえて食料にしました。1922年、彼らは、新鮮な水を求めてやってきたイギリスの捕鯨船に救われ、無事にイギリスに戻りました。

 島での自分の存在を説明するために、トンプソンと航海士は、捕鯨船の船長に対し、島で難破したと言いました。論理的に矛盾がなかったため、船長からは更なる質問はありませんでした。

 トンプソンと航海士がココ島に滞在している間に、財宝が元の場所にそのまま隠されていることを確認しました。しかし、彼らは、賢明にも、財宝の一部だけでも持ち出そうとはしませんでした。もしそうしていれば、彼らを救助した捕鯨船の乗組員たちに島に置き去りにされた本当の理由が知られてしまいます。

 捕鯨船は、コスタリカの港町プンタレーナス港に入港し、そこに数日間碇泊しました。

 最も信頼できる言い伝えによれば、航海士は、そこで黄熱病に罹り死にました。

 ココ島の財宝にまつわるあらゆね伝説と伝承において、航海士はこの時を最後に話の舞台からいなくなります。そして、最後に、トンプソン船長だけが残ります。

 名前がただの一度も出てこないメアリー・ディア号の正体不明の航海士は、忘却の彼方に姿を消します。
 その名が明らかになるのは、・・・・・、前回の記事をご覧下さい。

Referencia
"Cocos Island - Old Pirates' Haven", Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
 原書では、リマの財宝の船出を1821年8月としているが、この時点で既にリマが陥落していることから、他書の記述に従い1820年とした。
"El Enigma de la Isla Oak", John Godwin, 1968
『海賊の掟』山田吉彦、新潮社、2006
『カリブ海の海賊たち("PIRATES OF THE WEST INDIES")』Clinton V. Black著、増田義郎訳。新潮選書、1990
Wikipedia:
  "Piracy in the Caribbean"
  "Viceroyalty of Peru"
  "History of South America"
  "Treasure of Lima"
  「海賊の黄金時代」
  「副王」


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2015年06月23日

古い海賊の地図をつくる


 海賊の財宝関連の記事に使うために作った素材です。
 海賊と言えば、やはり、古い地図。

PiratepictureMap0.png


 古地図だけだとつまらないので、古いスペイン金貨を乗せてみました。

PiratepictureMap01.png


 ココ島の宝の地図も古ぼけた羊皮紙にすると本物らしくなります。革の質感、風合いが魅力的です。

Mapa de Tesoro, Isla del Coco


 素材ばかり作っているので、記事の方の執筆が終わりません。


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