2016年03月12日

岩倉使節団女子留学生の相関図を作ったら凄いことになっている!


 これまで誰も書いていないことを書くのが本サイトの特徴ですが、今回は、岩倉使節団に同行した5名の女子留学生の人間関係図を作ってみました。これって、ありそうで見たことがありません。作ってみたら、驚きの相関が見えてきました。

 岩倉使節団派遣当時の日本の人口は、3千3百万人くらいいたようです。
 それなのに、教科書に載ったり、テレビ、雑誌、ネットで話題になるのは多く見積もっても数百人程度でしょう。

 その一人一人については、ネットで調べるとある程度の情報を入手できます。しかし、それぞれの人とのつながりはよく分かりません。有名人、あるいは高貴な出の人なら、それぞれが知り合いであるのもうなづけます。

 しかし、岩倉使節団に同行した5名の女子留学生の場合はどうでしょうか。
 旧幕臣たちの幼い娘たちが10年間もの長期にわたり留学の途に着いた。涙を誘うようなお話しです。このような環境の彼女たちに有意な相関はありそうもありません。

 ところが、彼女たちの人間関係相関図を作ってみると、今まで見えなかったことが見えてくる。
 目から鱗です。もちろん、史実にはなんら変更はないのですが、「既存の情報で抜け落ちている点」が見えてきます。

 情報が抜け落ちると全く別の評価をしてしまう。恐ろしいことです。
 この相関図は現在作成途中ですが、とりあえず版をアップします。この記述が消えたときが最終版になります。

Human_relationship_diagram_of_five_women_students_in_1871.png


 クリックすると拡大表示できます。
 今回は内容について解説しませんが、岩倉使節団に詳しい方でも「なにこれ!?」と思う方がいると思います。この人間関係は、まさに、なにこれ! という感じです。

 既存の資料で人間関係の相関が分かり難い原因は、たとえば、Wikipediaの編集姿勢にも一因があります。Wikipediaでは、相関図ではなく、文章で表記することを優先するように指導しています。

 相関図を作れば、簡単に理解できることでも、それを文章で表そうとするととても難しい。時系列、複層的な事柄に対して、文章で表現するのはとても難しい。

 5名の女子留学生は旧幕臣たちの子供達だった・・・ということは、どこのサイトでも書いています。しかし、5名のうち2名は、外務省職員の子供だった。5名のうち1名は、兄が10ヶ月前に留学生として既に渡米しており、しかも、広いアメリカの中で同じ土地で兄妹が住んでいた。

 このような情報を見たことがありますか?

 これが相関図から分かる一つの事例です。上の相関図をよくご覧下さい。自分の目で確かめ、考えて見て下さい。33,000,000分の数百の奇跡がここで起きています。

 出会いの不思議さということも感じます。見えない糸が確かに存在し、距離、時空間に関係なくつながっている。そんな気がします。新島襄の本当のお目当ては別のところにあったのでは? という憶測も容易に生まれます。

 永井の帰国後すぐの結婚もこの相関図からよく分かります。瓜生と永井が米国で恋に落ちていたことを無視した記述は、読者をミスリードします。

 このように、情報が抜け落ちるときに生じる弊害も改めて認識している管理人です。
 幼いのにたった一人親元を離れ・・・。よく目にする記述です。でも、そもそも、遠く離れた土地に里子に出されている子もいました。親元からはとっくに離されています。「里子」についての情報が抜け落ちているから、「親元から」という誤解を生じさせる表現になります。

 この相関図を作ったきっかけは、歴史の書籍を読んでも意味不明だからです。歴史をやっている人の特徴がよく表れているように思います。自分にとっての歴史的常識は読者も知っていて当たり前。自分が言いたいことはこうだ! それ以外の常識はいちいち説明する必要は無い!  そんな印象を受けました。

 さらに、収集した情報があちこちで食い違っている。食い違うはずのない箇所が資料によって異なる記載になっている。素人の管理人にとって、もうお手上げです。このため、とても手間がかかるのですが、相関図を作ってみました。

 今日はとりあえず版です。後でこの記事を正規版に差し替えます。

5名の女子留学生選考の謎


 5名の女子留学生の選考はどのように行われたのでしょうか。
 募集は二度行われています。一度目の募集で応募者がなかったことから、二度目の募集を行い、応募のあった5名全員が合格しました。

 どのような手順で募集が行われたのかは記録がありません。しかし、募集条件については分かっています。松邨賀太氏の書籍「明治文明開化の花々: 日本留学生列伝 3」から引用します。

「五名の派遣枠の許可を取った黒田次官は急いで応募者を求めたが、出発の二ヶ月前の明治四年九月頃は「時間がないから募集は難しい!」と危惧していたという。
 参加の条件が発表された。
1.女子の留学期間は十年
2.必要経費は全て官費として支給する
3.小遣いは年間八〇〇ドル
 いたれり尽くせりの条件といわれた。当時の為替レートは一ドルが一円といわれ、一円で一俵近い米が買えたという。
 ところが、期限が来てもひとりの申込者も来なかった。娘を異国アメリカに送る親は皆無、唐人お吉の物語でもお分かりのように外国人嫌いが当たり前の時代であった。無念の黒田は急拠第二次募集を急がせて、そしてなんとか五名の応募者を得たのである。」

「申込者はいずれも旧幕臣であり、彼らの方が新政府首脳より海外交流時代の到来を意識していた結果といえる。」
「明治文明開化の花々: 日本留学生列伝 3」松邨賀太、2004、pp.21-23

 10年間もの間、娘を見知らぬ外国に行かせるなど、どこの親も尻込みします。応募した5人はいずれも戊辰戦争において賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女でした。賊軍となった家の娘たちが汚名返上の機会と捉え応募した。

 これについて、Wikipediaでも同様のことが書かれています。
「戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させたのである。その一方で、女子の応募者は皆無だった。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。」(Wikipedia 「大山捨松」)

 これが定説となっているようです。しかし、それは本当でしょうか。管理人には、情報が意図的に隠されているように思います。

 女子留学生の募集が行われたのは、岩倉使節団の出発予定日1871年12月23日の、わずかひと月ほど前のことでだったようです。寺沢龍氏の著書『明治の女子留学生』(平凡社新書)では、女子留学生派遣の建議が承認された時期を、1871年11月22日過ぎと推察しています(陽暦に変換して表示)。このわずか1ヶ月の間に二度の募集を行い、直ぐに出発。そんなことがあり得るのでしょうか。

 管理人は、これは出来レースだったのではないかと推測しています。つまり、外向けには公募したように見せかけて、実際には決まっていた。

女子留学生派遣は奇妙なことばかり


 この女子留学生の派遣は奇妙なことばかりです。
 まず、なぜ、10年間もの長期留学なのでしょうか。これについて、誰も答えることができません。開拓使の留学予算が10年間だったからと書いている人もいますが、男子留学生にはそのような期間の縛りはありません。現に、捨末の兄、山川健次郎は、同じ年の2月か3月に、同じ開拓使の予算でアメリカに留学し、4年後の1875年、イェール大学を卒業して帰国しています。

 3年間など短期間にすれば応募者が殺到する。しかし、10年なら誰も応募しない。理由は、結婚の適齢期を過ぎてしまうため。だから、あえて10年という留学期間に設定したのではないだろか?
 
 二度の募集を行ったことはどのサイトでも書いていることですが、募集開始が出発の1ヶ月前だったということは誰も書いていません。10年の留学期間は長すぎるとはどのサイトでも書いていますが、なぜ10年に設定されているのかは誰も書いていません。

5名の女子留学生の父親とは


 次に、5名の顔ぶれです。確かに、戊辰戦争において賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女でした。それは間違いありません。でも、追加するべきことが抜けているように思います。

 できるだけ詳しく5名の留学生についてまとめてみました。ただし、どこにでも書かれているような内容は省略しています。

 上田梯子と吉益亮子の父親は、外務省の役人でした。
 上田梯子の父親上田oは外務中録という職に就いており、彼女たちが出発した翌年1872年8月、銀座万年橋に私立、上田女学校を開校し、校長になっています。そして、娘梯子は、その年の10月に早期帰国します。梯子は、同じく早期帰国した吉益亮子とともに、横浜のアメリカン・ミッション・ホーム、後の横浜共立女学校に入り、勉強を続けました。その後、医師桂川甫純と結婚し、家庭に入ったようです。1男4女をもうけたそうです。上田女学校では、米国長老派宣教師クリストファー・カロザース(Christopher Carrothers)の妻ジュリア・カロザース(Julia Sarah Carothers)が英語の教師をしていました。学校開設には長老派の資金が使われていると考えられます。

 吉益亮子の父親吉益正雄(1827-1891)は外務大録という職に就いていました。盛岡藩士で江戸詰の医師だったようです。吉益正雄についての資料はほとんどなく、当時の外務省職員録等から確認できる程度です。応募時の書類には「東京府士族秋田県典事吉益正雄娘」と記載されており、ほとんど全てのサイトや書籍がこれを引用しています。(たぶん)通訳として外務省に雇用されていることから、父親も留学経験があるのではないかと推測している方もいます。役職の中央での職位「大録」と秋田での地方職位「典事」は同列の職位で、それほど高いとは言えません。現代でいえば主任クラスといった感じです。
 資料から確認できるのは、1869-1870年に外務省職員、1871年には東京府役人。1872年2月に秋田県権典事に任ぜられ秋田に赴任したこと。また、岩倉使節団に理事官として参加していた侍従長東久世道禧(ひがしくぜ みちとみ)の茶の湯に関係する記録に1880年1月以降頻繁に登場します。茶の湯に造詣の深い方だったようです。この記録に吉益亮子も二度ほど登場します。
 吉益正雄は、文政10年(1827)年生まれ、明治24年(1891)6月6日に亡くなっています。享年64歳でした。正雄が頻繁に訪ねていた東久世の邸宅は渋谷にありました。東久世も正雄の自宅を訪れています。このことから、正雄の晩年、自宅は都内にあったものと考えられます。たぶん、築地あたりでしょう。梅子は、亮子のお墓が都内にあると話していたそうです。それがどこにあるのか。まだ、誰も知りません。

 亮子は、1875年から1877年まで、津田梅子の父が開校した「救世学校(のち海岸女学校)」で英語を教えました。1886年6月、父の吉益正雄が、亮子を校長とした私塾「女子英学教授所」を東京京橋に開校します。しかし、その秋、亮子はコレラで亡くなります。32歳でした。吉益正雄は、津田仙とともに、青山学院の前身の「耕教学舎」の設立に参画しています。

 吉益亮子の写真は数がとても限られており、画質が悪くどのような顔だったのか分からないため、解像度版を作ってみました。ここまで解像度の良い写真はネット上には他にないと思います。
Ryoko_Yoshimasu.jpg
吉益亮子(by Nekoshi)


 山川捨松の父親は会津藩の家老でしたが、咲子(捨末)が誕生する前に亡くなっており、親代わりの兄の与七郎(大蔵、浩)の名前で留学生に応募しました。応募書類では「青森県士族山川与七郎妹」になっています。捨末は函館に里子に出されており、いつ時点で山川家に戻ったのかは不明です。最初は坂本龍馬の従兄弟にあたる、函館のギリシャ正教会宣教師・沢辺琢磨に預けられ、後にフランス人の家庭に引き取られたそうです。

 兄の与七郎は、1866年、幕府の使者小出大和守と共にロシアに渡航しています。版籍奉還後は斗南を離れ、新政府に出仕しています。捨末の兄妹は皆優秀で、ドラマの舞台設定にうってつけ。「八重の桜」でご存じの方もいると思います。

 そして、この使節に同行した者がもう一人。上田梯子の父親上田oです。捨末の兄と上田の父親は知り合いだったことが分かります。このことは誰も書いていません。

 捨末は、1978年、名門バッサー大学((Vasser College)普通科に入学、常に成績優秀で1982年の卒業の際には演説を行いました。こうして、アメリカの大学を卒業した最初の日本人女性となりました
 卒業後に看護婦免状を取得し、1982年に津田梅子と共に帰国します。11年間のアメリカ滞在でした。英語、フランス語、ドイツ語を自由に話せるようになっていましたが、日本語は少々おぼつかなくなっていたそうです。
 
 永井繁子の父親永井久太郎は幕府軍医で静岡県士族。応募書類では「静岡県士族永井久太郎娘繁」となっています。繁子は永井の養女になっています。本当の父親は益田鷹之助(孝義)(1827-1904)で旧幕臣。長男が三井物産初代社長となる益田孝です。益田家は代々佐渡の土着与力をしていますが、鷹之助は佐渡奉行付目付役になります。功績が認められ、1855年江戸勤務、その後函館奉行所勤務となり、1863年第2回遣欧使節に進物取次役として渡航。数え16歳の息子孝を進と変名、甥と偽って同行。1872年戸籍寮9等出仕となっています。
 繁子は、1862年4月18日、益田孝義の四女として江戸本郷猿飴横町(現・東京都文京区本郷)に生まれました。5歳で幕府軍医永井久太郎(玄栄)の養女となり、1868年3月養父とともに沼津に移住しました。

 繁子の次兄益田克徳(かつのり)は、「明治4年(1871年)に山田顕義(あきよし)と欧米を視察し、司法省に出仕して検事となる。(Wikipedia 「益田克徳」)」とあります。これはウソですね。どうしてこんなウソをWikipediaに書くのでしょうか。出典も間違っていると言うことでしょうか。間違いの連鎖です。

 陸軍少将(兵部省)山田顕義は理事官として岩倉使節団に参加しているので、この記述が正しければ、永井繁子は実兄と共に渡米したことになります。実際には、1872年(明治5) 9月13日、司法制度調査団 として司法少丞 河野敏鎌、明法助 鶴田皓、権中判事 岸良兼養、警保助 川路利良、司法中録 井上毅、司法省七等出仕 沼間守一、同 名村泰蔵、同八等出仕 益田克徳、の8名がヨーロッパに派遣されました。帰国したのは1873年9月。「欧米を視察」したわけではないようです。

 捨末と同じバッサー大学の音楽学校に入学。10年間をアメリカで過ごしました。明治14年(1881)帰国命令が届き、勉学の途中でしたが、病気がちだったため同年秋に帰国します。捨末、梅子より1年早い帰国となりました。帰国後は文部省音楽取調掛教授になっています。

 最後に、津田梅子。父親は津田仙弥(仙)。元佐賀藩士でのちに徳川家士の養子となり、東京府士族。1867年軍艦引き取りの通訳として渡米。1871年に開拓使の嘱託になっています。

 1874年11月16日、津田仙が麻布新堀町の自宅の隣に青山女学院の源流となる「女子小学校」を開校。米国メソジスト派の婦人宣教師ドーラ・E・スクーンメーカー(Dora E. Schoonmaker)が校長となります。1875年「救世学校」、1877年には、築地居留地に移転して「海岸女学校」と改称。救世学校、海岸女学校の英語教師として、早期帰国した吉益亮子がいました。
 津田梅子についてはネット上にたくさん情報があるので、省略します。

 以上です。
 ここまで調べると、5名の留学生たちに対して当初感じていたイメージは完全に払拭され、別の印象を受けます。
  • まず、吉益以外の4人の父親・兄は海外への渡航経験者です。うち、3人は通訳でした。
  • 捨末は、ワシントンに一時住んだ後、兄健次郎の住むコネティカット州ニューヘイヴンのレオナルド・ベーコン牧師の家に引き取られ、ニューヘイブンのヒルハウス高校を卒業します。
  • 津田仙と上田oは幕府外国奉行で一緒に働いていました。
  • 上田oと吉益正雄は外務省で一緒に机をならべていました


 当時、通訳は美味しい職業だったようです。
 「オランダ通詞・唐通詞(長崎奉行;遠国奉行筆頭の位置に在って、重要港湾長崎の外交・通商・司法・行政事務を扱う重要ポスト。地位と権限が強大で収入も良く、旗本垂涎の的)」
江戸幕府役職一覧

女子留学生派遣の謎に迫る


 この女子留学生募集がとても奇妙なのは、次の点です。

1.なぜ、5名なのか。
 女子留学生派遣は、後にも先にもこの5名で打ち切られます。
 女子教育という目的があるのなら、5名、10年間ではなく、同じ予算額で、3年、15名としても良さそうです。むしろ、そうするのが当然でしょう。さらに、早期帰国した上田と吉益の補充は行われていません。これではまるで、「この5名を留学させるのが目的だった」としか思えなくなります。

2.なぜ、派遣を急いだのか
 出発時期についてです。横浜−アメリカ間は月に1回以上のペースで定期旅客船が運行していました。募集開始が遅れたのならば、もっと時間をかけて選考してもよいように思います。女子留学生を岩倉使節団と一緒に送り出す必然性はどこにもありません。

 応募した5名の留学生候補に対し明治政府から正式許可(「開拓使令書」)がおりたのが明治4年11月4日(1871年12月15日)、横浜出航の8日前のことでした。何をそんなに急いでいたのでしょうか。

 これらのことから、「(特定の)5名を送り出すことが目的だった」という憶測もあながち的外れではないような気がしてきます。さらに言えば、早期帰国した2名には、当初から1年で帰国できるという条件が提示されていたのではないか。

 残るは10年間滞在した3名。
 ワシントンに到着した女子留学生たちは、一旦、日本弁務館書記チャールズ・ランマン夫妻の家に預けられますが、梅子だけがそこに残り、捨末と繁子はコネティカット州ニューヘイヴンに移動します。広いアメリカの中で、なぜ、コネティカット州なのでしょうか。なぜ、ニューヘイヴンなのでしょうか。そして、そこには、偶然にも、捨末の兄、山川健次郎がいました。捨末より、10ヶ月早く渡米してイェール大学に留学していたのです。健次郎も開拓使の予算で留学しています。

 これって、どう考えても偶然とは思えません。客観的に見れば、「女子留学制度は、捨末をニューヘイヴンに行かせるために考え出されたもので、残りの4人は当て馬。」 そのように見えます。そう考えると、女子留学生のさまざまな謎がすべて解けます。

 長期留学を10年間としたのは、他の子女の応募を抑えるため。募集開始から出発までの日数を異常と思えるくらい短く設定したのも同じ理由と考えられます。

 早期帰国した2名の補充がないのも、その後の派遣がないのも、捨末の派遣で目的が達成されたから。急いで派遣しなければならなかった理由も、捨末の兄、山川健次郎と関係があるのかも知れません。

 健次郎は、1871年3月24日に横浜を出航したアメリカ号か、あるいは、2月に出航した他の船で渡米したものと考えられます。アメリカ行きの船はいつでも乗れるので、女子留学生は12月23日に使節団と一緒に慌ただしく出発する必要はないのです。

 女子留学生5名の出自を見ても、捨末だけが異質です。他の4人は幕臣でも下級でしたが、捨末は会津藩家老の娘です。

 では、山川健次郎とはどんな人だったのでしょうか。実は、会津藩の『隠し球』でした。

 会津戦争で敗れた会津藩は、会津の将来を藩内でも最も優秀な二人の若者に託し、彼らを逃がします。それ以外の男子は、自決や処刑を覚悟していたのでしょう。この二人が「山川健次郎」と「小川亮」でした。

 会津戦争で副軍事奉行として篭城戦を指揮した秋月胤永(悌次郎)が、知人の長州藩士で長州千城隊参謀の奥平謙輔に二人を預けました。秋月は謹慎中の猪苗代に置かれた「謹慎所」から脱走し、新潟まで跡を追って奥平に面会しています。その後、猪苗代に戻った秋月により、二人の若者も「脱走」することになります。見つかれば死罪です。秋月をはじめとして、皆、この脱走に命をかけていました。それだけ重要なことだと考えていたのです。
 
 後年のことですが、奥平は1876年(明治9)の萩の乱に荷担し、斬首されています。「小川亮」は陸軍工兵大佐になり、49歳で亡くなっています。

 岩倉使節団の中に「小松済治」という人物が外務省から二等書記官として参加しています。名簿上の出身は和歌山藩になっていますが、実際は会津藩出身。幕末に、会津藩からドイツに藩費留学していました。全権委任状を取りにワシントンから日本に戻った大久保と伊藤のことは有名ですが、その時、小松済治も同行しています。そして、大久保らよりほんの少し早くアメリカに戻っています。なぜでしょう。小松は、1870年(明治3年)3月にドイツから帰国。帰ってみれば会津藩がなくなっています。あまりの変化に、浦島太郎になったような気がしたのではないでしょうか。そして、頭の中は幕末のまま。

 岩倉使節団に参加することになりますが、一緒に渡米した女子留学生の一人、捨末は家老の娘。健一郎の妹。会津再興を願う旧会津藩関係者たちから、小松に対し、さまざまな依頼があったように思います。藩のお金で留学した小松は、未だその恩を返していません。頭の中は、ガチガチの会津藩士。


 以上、女子留学生の謎はこのようにも解釈可能である、という一つの考え方を提示しました。
 尻切れトンボのような文章になっていますが、順次、追記します。

 数少ない登場人物たちが皆つながっているような気がします。 これではまるで、村社会の出来事のようです。なぜ、初めての女子留学生派遣というイベントの関係者が皆つながるのでしょうか。当時の日本の人口は、3千3百万人。それなのに、ほんのわずかな人たちだけが留学生5人を中心に回っている。さらに言えば、この登場人物に学校を作りたがる人が多すぎます。新島襄しかり。

 上田、益田と津田の3名の父親が宣教師の支援を受けて学校運営に携わっているというのが気になります。5人の登場人物の中で3名が学校運営ですから、偶然とは考えられない。普通なら、もしやったとしても学校運営の支援どまりだと思うのですが設立者になっています。様々な会派のキリスト教会が大きく関わっているような気がします。全てにおいて・・・。

 そしてもう一つ気になるのが茶の湯。永井繁子の兄、益田孝と益田克徳は茶の湯でかなり知られた存在だったようです。上で書いた吉益正雄の茶の湯の記述と重なります。正雄が茶の湯(点茶)を教えていた東久世通禧は、岩倉使節団の理事官として参加しています。明治4年(1871年)10月15日に侍従長になっています。そして、その前は『開拓使の長官』でした。


【参考】
明治前期の「貴紳の茶の湯」』廣多吉崇、国際日本文化研究センター 
『少女たちの明治維新 日本で最初の女子留学生たち』、岩崎京子、PHP研究所、1983
HP「呆嶷館」山川健次郎

posted by ネコ師 at 02:54 | Comment(2) | 岩倉使節団の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月07日

岩倉使節団をアメリカに運んだのはどんな船だったのか


 1871年12月23日、岩倉使節団一行を乗せた『アメリカ号』は、一路サンフランシスコをめざし出帆していきました。

 使節団を運んだこの『アメリカ号』とはどのような船だったのでしょうか。
 今日は、これを調べてみました。

アメリカ号とは


 アメリカ号は太平洋郵便蒸気船会社(Pacific Mail Steam Ship Company:PMSSC、太平洋郵船)の所有する当時最大の木造蒸気側輪船でした。側輪船というのは、スクリューが実用化される以前に用いられていた船腹の両側に取り付けられた水車のような推進機関を持つ船です。テーマパークでたまに見かけるタイプです。外輪船はまもなくスクリュー船に取って代わられます。

 ただし、アメリカ号の基本推力は帆でした。帆船だったのです。外輪は、出入港時や無風時の推進力として使ったようです。

 アメリカ号はニューヨークの造船所で造られました。1869年に進水し、サンフランシスコと横浜・香港間の定期旅客郵便船として就航していました。船体の大きさは、全長363フィート(111m)、幅57フィート(17m)、登録トン数が4,554トンでした。クルーが103人乗り込みました。旅客定員は92人(Wikipedia「SS America (1869)」という資料があります。この92人という定員は岩倉使節団に随行の久米邦武も「此回に発する飛脚船は、『アメリカ』と号す、太平洋会社飛脚船のうちにて、第一なる美麗の船なり」「天秤仕掛の蒸気器械にて、外輪の船なり」 、「上等の客室30、次等の客室16、総て46室あり、92人を容るべし」と書いています。つまり、92人とは一等船室と二等船室の定員であることが分かります。実際には、ステアリッジ(steerage)と呼ばれる三等船室があり、定員は全体で1500人程度だったようです。アメリカ号より小さいコロラド号でも1000人の乗客を運んだようです。
(引用:「太平洋郵船外輪船中国人ステアリッジ船客の統計的再検討(1867-1871年)」藤村是清、神奈川大学アジア・レビュー Vol.02)

 船の大きさが直感的には理解できないのですが、管理人が乗ったことがある東京−沖縄間を運行している客船飛龍21は、全長167m、幅22mなので、アメリカ号よりも一回り大きい。これで何となくイメージできました。現代の基準で見れば、そこそこ大きな船です。管理人が乗ったことのある船内にエレベーターが七つもある豪華客船とは比較になりませんが。

 船内ではどのような部屋割りだったのでしょうか。全権特命大使や副使などの幹部は一等船室を使ったのでしょう。使節団に同行しているアメリカ公使デロングも一等船室でしょう。それに、私費留学の元佐賀藩知事鍋島直大や黒田長知、前田利同などの旧藩士クラスや公家の人たちもやはり一等船室だと思います。私費で参加しているお金持ちですから。30しかない一等船室は直ぐに埋まってしまいそうです。アメリカ号の船内図を見つけることができなかったのですが、当時の他の客船をみると女性用キャビンの区画もあるので、女子留学生たちは女性用コンパートメントの一等船室に5人で入ったようです。すると、前回書いた『彼女らは「便所へ行くにも、必ず二人充て組み合ひ、一人が用を辨ずる間一人はその袴を持つという具合」』というのは誰が見たのか気になるところです。

 太平洋郵船は1848年に米国政府との郵便輸送契約に基づき設立された会社で、1925年まで続きました。1867年、太平洋郵船は、アメリカ合衆国とアジアを結ぶ世界初の定期運行便を開始しました。サンフランシスコ・横浜・香港間に航路を開設し、当時世界最大級の4,000トン前後の外輪船5隻を月1回のペースで定期的に往復させました。

 太平洋郵船は、郵便も運びましたが、貨物や乗客も運びました。特にアジアからの帰りの船にはシンガポールから乗船した中国人移民が多数乗っていました。

 岩倉使節団を乗せたアメリカ号は、1871年12月23日に横浜を発ち、翌1872年1月15日にサンフランシスコに入港します。

 1871年の運行記録を見ると、太平洋を1年間に4往復する航海を行っています。3月24日、6月23日、9月23日、そして岩倉使節団を乗せて12月23日に横浜を出港してサンフランシスコに向かっています。アメリカ号は、概ね3ヶ月ごとのシフトだったようです。

 ところで、この船にはまもなく数奇な運命が訪れます。
 サンフランシスコで岩倉使節団一行を降ろしたアメリカ号は、アジアに向けて出航します。
その後、一旦、サンフランシスコに帰港し、再びサンフランシスコから1872年8月1日出航、8月24日、横浜港に入港しました。その夜11時に船内で火災が発生し、沈没してしまいます。この事故で59名が亡くなっています。進水後わずか3年で、アメリカ号は歴史から消えてしまいました。

注:59名という人数は"The Ships List"によるが、他の資料では19-90人という記載が圧倒的に多い。

太平洋郵船の太平洋航路の外輪船リスト

 
船          名竣 工 年登 録 ト ン 数建造造船所名
@ コ ロ ラ ド 号 (COLORADO) 1865年3,728William H. Webb.
A グ レ ー ト ・ リ パ ブ リ ッ ク 号 (GREAT PEPUBLIC) 1867年3,881Henry Steers
B チ ャ イ ナ 号 (CHINA)1867年3,836William H. Webb.
C ジ ャ パ ン 号 (JAPAN) 1867年4,351Henry Steers
D ア メ リ カ 号 (AMERICA)1869年4,454Henry Steers
E ア ラ ス カ 号 (ALASKA) 1868年4,011Henry Steers


 アメリカ号とジャパン号はHenry Steersという同じ造船所で建造されたもので、形がそっくりです。チャイナ号も同じ形をしています。同じ設計で建造された船のようです。

 チャイナ号
The America


 ジャパン号
The_Japan.jpg


ちょっと気になるトイレ事情


 帆船では、トイレはどこにあったのでしょうか。

 帆船のトイレは舳先の両舷に設置された2つの箱が使われていました。それに腰掛け、あるいは狙いを定めて用を足します。箱の底は無く、海に直結しています。このように船の舳先にあるため、船乗りたちはトイレのことを"head"と呼んでいました。

 舳先にトイレを置いた理由は二つあります。一つは、一般に帆船は船尾から風を受けて前に進むため、舳先が風下になるからです。トイレが風下の方が良い理由は説明不要でしょう。

 もう一つの理由は、喫水線より上で甲板の近くに空けられた穴なら、舳先から入ってくる波できれいに洗い流してくれるという効果があります。船長だけは船長室に専用のトイレを持っていたようです。(参照:Wikipedia: Head (watercraft)、他)

 ところで、ネットで探してみると、Wikipediaの記述とは違う写真を見つけることができます。それは、船尾から張り出した一角がトイレになっているもの。日本の「ぽっとんトイレ」のように床に穴が空いており、その下は海。

Ships_toilet01.jpg


 使節団が乗ったアメリカ号のトイレはどうだったのでしょうか。
 どうやら水洗トイレだったようです。さすがは客船です。トイレはきれいに掃除され清潔だったとメンバーが書き残しています。ただし、三等船室は分かりません。もしかしたら、海賊全盛期の帆船と同じような感じだったかも。三等の客はいつの時代も最低限の扱いを受けます。

 海外旅行をすると困るのがトイレ。日本のように整備されたトイレはどの国にもありません。パリの街を早朝歩くと糞尿の臭いが通りに漂っています。フランス人は自国の言語や文化の普及には熱心ですが、へそから下は文化とは関係ない、あるいは別文化だと思っているようです。

 誰も書かないのですが、岩倉使節団一行が船に乗って最初に驚いたのがトイレだったように思います。
 でも、文明開化で多くの外国文化が採り入れられますが、明治の日本ではトイレの文明開化はありませんでした。やはり、使節団幹部の人たちは、水洗トイレに驚かなかったということでしょうか?

出典
Shiping San Francisco's Digital Archive "Pacific Mail Steamship Company"
"Toilets of the World"


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2016年03月06日

岩倉使節団を乗せたアメリカ号内での女子留学生に対するセクハラ事件


 1871年12月23日、横浜港から一路サンフランシスコに向けて出港した岩倉使節団一行総勢107名を乗せた外輪船アメリカ号。その船内でちょっとしたセクハラ事件が発生します。

 岩倉使節団は46名で構成されていました。それに大使・副使の随従者18名、留学生43名の計107名が乗船していました。留学生の中には、5人の幼い女の子たちがいました。

 吉益亮子(17歳)、上田梯子(のちの桂川悌子、16歳)、山川捨松(のちの大山捨松、11歳)、永井繁子(のちの瓜生繁子、9歳)、津田梅子(6歳)の5名の少女たちです。(年齢は横浜出港時点の満年齢で算出)

 このセクハラ事件は船内での模擬裁判に発展します。事件とはどのようなものだったのでしょうか。

 船の中の女性と言えば、アメリカ公使チャールズ・デロング(Charles E. DeLong、1832-1876)の妻エリダ(Elida Vineyard)がいます。彼女は1844年生まれなので、この時27歳。二人の子供がいたようです。女子留学生と一緒に写るエリダの写真がありますが、27歳には見えない体格の良さで、どうもセクハラとは無縁な感じがします(個人の感想です)。(この部分の出典 ”Spoilsmen in a "Flowery Fairyland": The Development of the U.S. Legation in Japan, 1859-1906 (American Diplomatic History)” Jack L. Hammersmith,1998)

留学生とでロング夫人エリダ


 田中彰氏の書籍「岩倉使節団『米欧回覧実記』」から事件の概要を見ていきましょう。

 一行は長い船旅に退屈し始めます。12月23日に横浜を出航しサンフランシスコに到着したのが翌1872年1月15日のこと。途中どこにも寄港はしていません。暦のうえでは24日間の船旅ですが、日付変更線を超えているので、船に乗っている人たちにとっては25日間の旅になります。

 事件が起きた日付けは分かりませんが、この中間あたりではないかと思います。
 彼女らは「便所へ行くにも、必ず二人充て組み合ひ、一人が用を辨ずる間一人はその袴を持つという具合」だったそうです。「用を辨ずる間」とは「用を足す間」という意味でしょう。現代でもよく見かける光景でしょう。しかし、この光景を誰が覗いていたのかは分かりませんが、かなり詳しい記述です。

 この女子留学生に二等書記官の長野桂次郎がたわむれた、というのが「事件」です。

 どのように「たわむれた」のか、誰が被害者だったのかは不明です。まさに、「たわむれた」程度で、長野にしてみれば少しからかっただけ、という軽い気持ちだったのでしょう。なにしろ狭い船内です。

 ところが、彼女たちは副使大久保利通にこれを訴えたから、ことは大きくなりました。

 長野桂次郎は、万延元年遣米使節団(1860年)に16歳で通訳見習いとして参加しています。この時は、立石斧次郎と名乗っていました。彼は通訳・小花和度正の子で、叔父のオランダ通詞立石得十郎の養子となります。遣米使節団のメンバーである得十郎に同行して渡米しました。当時のサムライが口下手で恥ずかしがり屋で妙なプライドだけが高かったのに対し、陽気で誰とでもうまくコミュニケーションができる斧次郎はアメリカでアイドル並みの人気を博し、数千通のファンレターをもらったり、彼のことを歌った「トミー・ポルカ(Tommy Polka)」がヒットするなどしました。

 Youtube: "Tommy Polka"

 長野は岩倉使節団に二等書記官としての参加で、特命全権大使、副使、一等書記官に次ぐ地位ですから、旧幕臣としては高く評価されていたことがうかがえます。「トミー」の愛称でアメリカで親しまれた少年立石斧次郎(長野のこと)もこの時28歳になっています。長野は、持ち前の陽気な性格から、酔った勢いで幼い女子留学生をからかったのでしょう。詳細は不明です。

 ところが、彼女たちは長野の行為を笑って受け流すことはできなかったのです。5人の女子留学生は皆、旧幕臣か賊軍の汚名を着せられた藩士の娘たちでした。10年間もの長期留学という条件を承諾しての参加は家名を復権させるという彼女たち、およびその家族たちの願いでもありました。彼女たちから見たら、旧幕臣で渡米経験もある、そして、新政府に二等書記官として厚遇されている長野の行為だからこそ許せなかったのでしょう。たとえば、会津藩の家老の娘で会津戦争後、下北半島最北端の不毛の地斗南藩で極貧の生活を送っていた山川捨末などは泣き寝入りする気持ちはさらさらなかったと思います。

 彼女たちは、それを大久保に訴えました。なぜ、大久保だったのでしょうか。副使は大久保だけではありません。木戸孝允も伊藤博文も山口尚芳もいます。しかし、このメンバーをみれば、このような事案を真摯に聞いてくれるのは大久保しかいないのが分かります。

 大久保にとって、こんなめんどくさいことはない。国家の体系を案ずる自分がなんでこんな連中のトラブルに巻き込まれるのか、そんな気持ちだったでしょう。とうぜん、穏便に済まそうとします。しかし、これが「模擬裁判事件」へと発展していくことになります。

 この訴えに対する処置は、伊藤博文に一任されます。そこで、一等書記官の福地源一郎らが主唱して模擬裁判を開くということになります。この福地も旧幕臣で、海外経験者。1861年の第1回遣欧使節団に定役並通詞として参加しています。のちに東京日日新聞社社長になる人物です。

 長野より2歳年上の福地は、長野の行動や言動に危うさを感じていたのではないでしょうか。船内では、海外経験者の書記官が未経験者の理事官を愚弄するという状態が日常化しており、長野に対する他のメンバーの不信感をひしひしと感じていたのでしょう。

 実は、福地は5人の保護、監視役として彼女らの隣室に部屋を取っていました。福地とエリダが女子留学生たちの面倒を全面的に見ました。梅子の父津田仙弥は福地の家に住み込みで英語を学んでいたことがあり、また、上田悌子の父親上田o(外務中録)と吉益亮子の父親益田正雄(外務大録)も外務省職員で、外務少丞である福地とは知り合いでした。以上のような理由から、福地の取った行動が何となく理解できるような気がします。出航3日目に、船酔いのため持ち込んだお菓子ばかりを食べている少女たちから、福地は、身体に良くないとお菓子をすべて採り上げ海に捨ててしまったので、少女たちからは嫌われていたそうです。
(「高原千尋の暗中模索」を一部参照しました。)

 模擬裁判の裁判官には伊藤と理事官の山田顕義(あきよし)に決まり、弁護士役や書記(福地)も割り当てられます。以下、岩倉使節団『米欧回覧実記』より引用します。

 「保守的な理事官・司法大輔佐々木高行は新しがり屋の伊藤らのやり方が気に入らなかった。彼は猛反対した。暇つぶしの架空の裁判ならともかく、実際におこった問題で裁判沙汰にするのは、双方の恥辱のみならず使節団自体の恥になるのではないか、と。しかし、欧米ではこうしたことはよくやるのだ、ということで、彼の反対論はおしきられた。 不満を述べる佐々木に大久保は、「ことはもはや始まったのだから、この度は致し方ない。今後のことはとくと話しておく」と答えたという。」
 岩倉使節団『米欧回覧実記』田中彰、岩波書店、1994、pp.4-6

 この裁判の結果がどのようになったのかは分かりません。そして、被害者が誰だったのかも分からずじまいです。たぶん、5人の女子留学生の中で最年長の吉益亮子(17歳)か上田梯子(16歳)でしょう。残りの三人はセクハラというにはあまりにも幼すぎる。

 彼女たちが、もし大久保ではなく、最初から伊藤に訴えていたら別の展開になったような気がします。寡黙で一人で考えるタイプの大久保と違い、伊藤はあちこちの船室を訪ね団員との会話を楽しんでいたようです。大久保の目に見えないことも海外経験のある伊藤の目には見えていました。

 大久保から伊藤に丸投げされた形になったこの事案の処理について、伊藤の関心は、長旅で退屈しきっている団員の退屈しのぎという短絡的なものではなく、船室を訪れてわかった、内向きなわだかまりから脱却できないでいる団員たちに欧米式の模擬裁判を通じて欧米人の考え方を示そうとしたというのが本音のような気がします。

 知っている人にとっては当たり前のことが、それを知らない人にとっては不安の種になります。問題となるのは、分からないから同じところをぐるぐる回って考えが前に進まないこと。船内には渡航経験者が数名いますがほとんどが旧幕臣たち。国の将来を本気で考えている者はいなかったでしょう。

 ところで、もし、彼女たちが直接伊藤に相談していたら、伊藤は彼女たち自身の名誉ことを優先的に考えたでしょう。模擬裁判などに発展することはなかったように思います。


 今回は、岩倉使節団渡米の最中に起こったセクハラ事件と模擬裁判についてまとめてみました。
 明治が始まってまだ4年。残された資料を分析し、当時の人たちの行動や考え方を推測するのは楽しくもあります。

 岩倉使節団を乗せたアメリカ号の船内ではさまざまな珍事が起こっていたと思われますが、その記録は限定的です。しかし、当時の時代背景や他の関連情報に基づき、ある程度は推測できます。本記事はその手法に基づき書いています。残された既存資料の記載内容を踏み外さず、当時の状況を再現する。今日は、そんな記事にしてみました。

 女子留学生たちは、服装を動きやすい洋服に着替えたいと上層部に訴えましたが認められず、船中では着物を着用することとなります。上述したように、袴をはいていたことが分かりました。トイレの時は大変そうです。スカートなどはかれたら、またセクハラ事件が発生するという懸念が上層部にあったのでしょう。男たちには、見たことのないスカートの中身がやはり気になります。いつの時代でも同じ。

 そもそも、彼女たちはパンティを持っていたのでしょうか? また、謎が深まります・・・・。

セクハラ事件の真相


 どのようなセクハラ事件だったのか、記録がないので分かりません。しかし、推測することはできます。(追記で犯人を特定しています)

 上述した「「便所へ行くにも、・・・・」の記述は、一行の記録係だった全権特命大使使節秘書、久米邦武の「久米博士九十回顧録、下巻」に記載されているものです。久米は使節団報告書『特命全権大使米欧回覧実記』を残していますが、彼の報告書の特徴は、肝心なことは何も書かれていないということです。

 その久米が晩年に残したこの記述は、そのものズバリを指しているように思います。
 つまり、この記述の内容が長野によって行われたことで裁判に至ったのではないでしょうか。

 この記述を見て、「それは誰が見ていたの?」ということが管理人の疑問でした。
 二等書記官である長野は、彼女たちと同じ一等船室。船には女性用宿泊区画があり、通常はこのようなシーンを見ることはできないと思います。男女一緒の共同便所ではないのです。それを見てしまったから、長野が訴えられた。
 
 これが事件の真相のように思います。

 ここから追記部分です。「少女たちの明治維新 日本で最初の女子留学生たち」岩崎京子、PHP研究所、1983、に犯人の名前が記載されていました。やはり、犯人は長野でした。でも、別の長野でした(汗)。そして被害者はやはり最年長の吉益亮子でした。まあ、他はガキンチョなので。

 「ある日、事件がおこった。随行のひとり、このさい名をいわせてもらうと、司法権少判事の長野文炳(ながの ぶんぺい:大阪府士族、18歳)が吉益亮子のそでをひっぱり、たわむれた。おとなしい亮子は、あいてにくってかかるなんてできない。部屋にかけこんで泣きだした。びっくりしたみんなはなにがおこったのかときいたけれど、亮子はくやしそうに身をもむだけ。いっしょにトイレにいった繁子も、はじめは亮子の気もちを思ってか、いわなかったが、あまりみんなが心配するので説明した。「まあ、ほっておくわけにはいかないわ。」ほこり高い梯子がおこりだした。」前掲書pp.63-64

 この記述でも、「たわむれた」内容が分からないのですが、おっとり屋の亮子が泣き出したくらいなので、内容は想像できます。そでを引っ張った場所がトイレだったということでしょう。長野は1854年生まれ。亮子と同い年の17歳です。今風に言えば、思春期の高校生がトイレで戯れたという感じでしょうか。  以上、追記。

 なお、松邨賀太著「明治文明開化の花々: 日本留学生列伝 3」では、この事件について次のように紹介しています。  

「その彼(長野)が、岩倉使節団にも通訳として乗船していたが、何かと梅子らにチョッカイを出すので副使大久保に訴えた。同じく伊藤に相談すると、伊藤は外務少丞の福地源一郎に善処を求めた。その結果、船内にて模擬裁判をやらせたという。なんでも学ぼうとする明治の精神が船中にも現れていたのである。」
「明治文明開化の花々: 日本留学生列伝 3」松邨賀太、2004、p.29

 「梅子ら」と書かれていますが、根拠はないと思います。著者はとても漠然とした書き方をする方のようです。

追記


 「長野」違いという恐ろしいミスを犯してしまいました。お恥ずかしい。これだから、歴史書はあてにならない。

 船内裁判の被告長野は、後に大審院判事になります。被害者の亮子は、生涯独身でした。


posted by ネコ師 at 08:17 | Comment(0) | 岩倉使節団の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月15日

明治のお雇い外国人にとって、日本でもらった給料は良かったの?


 明治になって、政府はたくさんの外国人技術者をいわゆる「お雇い外国人」として雇用します。

 お雇外国人とは、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人のことで、江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘されました。欧米人を指すことが多いようです。実際、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、オランダの5カ国でお雇い外国人の95.6%(給与ベース)を占めていました。

『御雇い外国人』って蔑称なの?


 「お雇い外国人」という言葉には違和感があったのですが、当時から使われていた言葉で、古い資料を読むと「御雇外国人」と書かれています(たとえば、『御雇外国人一覧』 中外堂、1872)。漢字で書くと字面(じずら)から受ける印象がかなり変わります。幕府による遣米使節や遣欧使節のメンバー表には、「御雇医師」という記載がみられ、他藩の人材を雇用した場合などに使われたようです。

誰から見て高額な給料だというのか?


 彼ら外国人の給料はどのくらいだったのか、興味があります。これは、ネットで探せばすぐに見つかります。政府高官と同程度あるいはそれ以上の給料をもらっていました。

 管理人の関心は、彼らにとって、日本での報酬は高額だったのかということ。
 たとえば、あなたが今から40年前の中国でお雇い外国人として働いていると仮定します。そのとき、ケ小平と同程度の給料を中国政府から受け取ったとしても、あなたにとって、その仕事は高収入とは言えません。

 その国で得た収入は、自国に戻って、自国の通貨に換算してなんぼのものです。
 明治期のお雇い外国人の給料が彼らにとって高収入だったのかは、当時の為替レートとその外国人の母国における給与水準の両方を知る必要があります。

 「お雇い外国人の給料」についてはたくさんの人が書いているにもかかわらず、その外国人にとって日本での仕事が高額なものだったのかについては誰も書いていません。つまり、「日本人の視点から、彼らに高額な給料を支払った」という一方的な見方をしていることになります。

 そこで、早速調べてみました。

 調査対象の時期は明治維新。岩倉使節団が出発した明治4年(1871年)頃で調べることにします。

 お雇い外国人の数を国籍別に見ると、幕末にはフランス人が7、8割を占めていましたが、維新後には2割程度にまで急速に低下しています。これに代わり増えたのがイギリス人で、そのシェアは5割を占めます。

 米国人は、1870年には1割に満たなかったのですが、その人数は徐々に増加し、15年後には3割程度を占めるようになります。

お雇い外国人と明治政府高官の給料


 お雇い外国人の給料をまとめてみました。
氏 名国 籍役 職 月給(円)記   事
グイド・フルベッキアメリカ(オランダ)大学南校教頭600岩倉使節団派遣計画立案。1859年来日
トーマス・ウィリアム・キンダーイギリス造幣寮首長1045元香港の王立鋳貨局長官。1870年来日
エドモンド・モレルイギリス工部省鉄道寮建築師長800イギリスの鉄道技術者。1870年来日
ウィリアム・スミス・クラークアメリカ札幌農学校教頭300元マサチューセッツ農科大学学長。1876年来日
エドワード・S・モースアメリカ東京大学教師350大森貝塚発見。1877年来日
ヘルマン・ロエスレルドイツ外務省顧問600外務省の公法顧問、内閣顧問。1878年来日
アーネスト・フェノロサアメリカ東京大学教師300東京美術学校の設立に尽力。1878年来日
注)フルベッキは無国籍でした。米国の国籍を得られず、また、出生国オランダの国籍も喪失しています。

 明治政府の高官の月給は以下の表のようになります。天皇の補佐官、太政大臣よりも高額な給料を得ていたお雇い外国人が何人かいました。
氏  名役  職月俸(円)
三条実美太政大臣800
岩倉具視     右大臣600
板垣退助    参議  500
伊藤博文 工部省・大輔 400


明治維新期の為替レートを調べる

 岩倉使節団が派遣された年、明治4年5月10日(1871年6月27日)に新貨条例が制定され、日本の貨幣単位として「圓(円)」が正式採用されました。その時の金1グラムは66.67銭、銀1グラムは4.12銭、1ドルが1.003円でした。これは、偶然にそうなったわけではなく、金貨に含まれる金銀の含有量を調整して1ドル=1円にしたということでしょう。

 明治8年(1875年)の為替レートは、1ドル1.01円です。1873年以降、諸外国では大不況に見舞われていますが、この時期、円ドルに関しては大きな為替の変動はありません。

明治維新期の米国の賃金水準を調べる


 お雇い外国人たちの出身国はさまざまで、また、時期によっても大きく異なっています。
 ここでは、米国における1870年の賃金に着目することとします。

 ネット上に公開されている資料として、1870年の米国ニューイングランドにおける賃金を見てみましょう。
 
 下の表から、農場労働者の平均賃金は月額19.87ドルです。非農場労働者の賃金は、日給で1.56ドルであることが分かります。ひと月25日間働けば、39ドルの賃金です。

 また、手間賃の高いレンガ工(石工)の日給は3.5ドルです。月給に換算するには22日をかけます。すると77ドルになります。これらの金額がだいたいの目安になるのではないかと思います。月給60ドルあたりが相場という感じです。

salary_USA_19century.png
  Source: See reference "a"

 為替レートが、ドル:円=1:1なので、300円(300ドル)とか600円(600ドル)とかの月給を得られる日本での職は、お雇い外国人にとって相当おいしいと言えます。

 ちなみに、米国人お雇い教師の平均賃金は他の外国人よりも安く200ドル程度でした。それでも自国で教師をしているよりも数倍の収入が得られたことになります。この数倍というところがミソです。2倍の給料をもらえるというだけでもかなり魅力的です。

 破格の条件を提示しなければ、極東の治安の悪に日本になど誰も来たがらなかったということでしょう。

 彼らお雇い外国人に対する高額な給与の支払いは明治政府の財政を圧迫することになります。
 岩倉使節団がなぜ多数の留学生を同行して大人数で構成されることになったのかは、この辺の事情も影響しているようです。ちなみに、万延元年遣米使節(1860年)では総勢77名、第1回遣欧使節は総勢38名でした。

 自前の技術者を養成するには、技術の発達した先進国に若者を送り出して学ばさせるのが一番の近道との判断だったのでしょう。

 実際、岩倉使節団に参加したメンバーの多くは、Wikipediaに名前が載るほどの有力者になっています。
 でも、管理人の関心は、そうではない人たちです。歴史に埋もれた人たち。他の多くの人たちが、帰国後、良い職に就き、とんとん拍子に出世しているのに、名前すら出てこない人たちもいます。

 彼らはどうなったのでしょうか。もちろん、早世した人も多いと思います。では、それは誰?

 岩倉使節団については、かなり多くの人たちが記事を書いています。同じような記事ばかり。本に書いてあることをまとめるのも業績なのでしょうが、新たな視点のないまとめは、読んでいても退屈です。

 今回の「岩倉使節団の謎」シリーズでは、これまで誰も書いていない全く別の視点から書いていこうと思います。いつの世も、お金は重要です。そこで、当時の相場感覚をつかむために調べたのが今回の記事です。

出典:
a "Wage Trends, 1800-1900, Trends in the American Economy in the Nineteenth Century" Princeton University Press, 1960
b 『御雇外国人一覧』 中外堂、1872
c 「明治〜平成 値段史
d 「新貨条例」(Wikipedia)


posted by ネコ師 at 21:50 | Comment(0) | 岩倉使節団の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月12日

岩倉使節団の謎に挑む・・・の準備中


 明治4年11月12日(1871年12月23日)のこと。岩倉使節団一行を乗せたアメリカの外輪船アメリカ号が横浜港から一路米国サンフランシスコを目指し出港しました。

 この使節団の目的は、不平等条約の改定にあったようです。しかし、この使節団はとても奇妙です。謎だらけのように思います。

 今回は、岩倉使節団の謎に迫りたいと思います。

 何が謎なのかを述べる前に、この使節団について少し整理しておきましょう。

 「岩倉使節団とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣した大使節団である。岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。(Wikipedia)

 Wikipediaにはいつもお世話になっているのですが、Wikipediaの「岩倉使節団」の項はできが悪い。自分の書きたいことを羅列するタイプの人間が執筆したようです。他のWikipediaの書き方を学んでほしいものです。

 岩倉使節団が奇妙なのは、明治政府の中心人物がごっそりと出かけていること。こんなことって前例がありません。外国政府でもないと思います。留守を預かるメンバーは視野の狭い人たちばかり。逆の見方をすれば、岩倉使節団への参加により、視野の広い人たちが育成されたとも言えます。

 それも、使節団派遣は明治4年です。条約改定が急務だったというのはいいわけにしか過ぎません。現に、条約が改正されたのは明治27年(1894)になってからです。急務だった問題の解決が20年後では、本当に急務だったのかを疑うのが普通でしょう。

 明治政府はやるべきことが山積みの状況の中で、なぜこの時期、岩倉使節団は600日を超える世界一周の旅に出かけたのでしょうか。

 もちろん、当初から、そんなに長期の旅行計画だったわけではありません。しかし、現実にはそのような旅が行われました。

 この分野に詳しい方は、この答えをお持ちだと思います。でも、次の質問に答えることができますか。

 留学生を含む使節団一行107名の中に、10歳以下の子供は何人いましたか?
 津田梅子や永井繁子の話をしてお茶を濁してはいけません。何人いたのですか。その人数を答えられますか。

 いろいろ探しているのですが、107名の完全なリストがネット上にはありません。どのサイトのリストも歯抜け状態です。文献も調べているのですが、そのような完全にリストが載っている本に未だ出くわしていません。リスト化すると107名にはほど遠い結果になります。

 リストがないのに、平均年齢は何歳だったとなぜ言えるのでしょうか。その根拠となる資料は?
 リストがないから、誰も統計分析ができない! 分かったような、よく読むと何のことか意味不明な記述しか書けない。議論のベースとなる基本資料が公開されていない?

 岩倉使節団と一緒に米国に向かった開拓使官費女子留学生5名の年齢もネット上では驚くほどバラバラです。史実を忠実に伝えようという姿勢は微塵も感じられません。年齢の数え方の「満、数え」の領域をはるかに超えています。

 女子留学生5名のうち2名は早期に帰国します。しかし、この「早期」という言葉はとてもくせ者です。

 あなたは、この「早期」という言葉から、この2名の女子留学生は出国してから何ヶ月後に帰国したと思いますか。

 彼女たちは、10年間という長期間の留学を期待された桁外れの国費留学生でした。
 女子留学生は5名ですが、有名なのは津田梅子と山川捨松(のちの大山捨松)でしょう。では、残りの3名はどうしたの?

 残りの3名について、どうなったか答えられる人が何人いますか?

 以上、女子留学生の話で説明してきましたが、結局のところ、「歴史の謎」というものは、本来存在しません。ていねいに調べていけば、その時代に生きた人たちの痕跡にたどり着くことができます。

 岩倉使節団については、同行した久米邦武が『米欧回覧実記』5冊を残しています。では、詳細はそれを読めば分かるはずです。ところが、彼は肝心な部分は何も書いていないということで有名です。だから、岩倉使節団は謎だらけなのです。 

 現在のところ、「幕末史」(佐々木 克(ささき すぐる)著、筑摩書房、2014)がこの時代の出来事を理解する上で最も優れた著作のように思います。京大名誉教授である佐々木氏の文章を読むと、歴史に精通して頭のいい人はこういう文章を書くのかと感心します。管理人の抱いていた多くの疑問を氷解してくれました。本記事冒頭のWikipediaの執筆者に対する批評は、この書籍のわかりやすさと対比したものです。

 Wikipediaの執筆者の無知と怠惰な執筆姿勢にあきれてしまします。調べれば簡単に分かることを「不詳」と書くのは執筆者として恥ずかしいことではないでしょうか。

 「岩倉使節団の謎」は、かなり長いシリーズになりそうです。資料をまとめるのに時間がかかるため、とりあえずバージョンとして、この記事をアップします。本来は、管理人が、「何を謎と思っているのか」を提示したかったのですが、現時点ではそれさえも定まりません。皇女和宮シリーズの時もこんな感じでスタートしました。調べるうちにどんどん疑問が生ずる。最初から確定した疑問群があるわけではないということです。


posted by ネコ師 at 05:40 | Comment(0) | 岩倉使節団の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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