2017年02月15日

中国、ゴビ砂漠の巨大モザイクのターゲットマーカーは北京だった!


 いつまでたっても「ナゾだ! ナゾだ!」と書いてある本を読むと、ネットが発達した今の時代、時代遅れという印象を受けます。

 今日は、中国のゴビ砂漠でGoogle Earthにより見つかった巨大なモザイクの正体に迫りたいと思います。

 これについて、ネットでかなり調べたのですが、最初に話題になったのは2011年11月15日の記事のようです。

 当時、「Google Earth 6.1」が2011年10月21日にリリースされたばかりで、多くの人がGoogle Earthを利用して、衛星から見える不思議な物を見つけたようです。このバージョン(Ver.6.1)からルーラーに高度表示機能が追加されたため、高低差のある地形をより実感しやすくなったようです(高度表示機能は以前からありましたが、改良されたと言うこと)。 Google Earth 6.1のリリースノートには次のように書かれています。

「高度プロファイルにおけるラインやトラックの解像度が向上しています。」(「Google Earth のリリースノート」)

 今回の奇妙な図形に対して、憶測記事はたくさんあるものの、結局何なのかは分からないという結論のようです。ミステリー好きの管理人の好奇心に火がつきました(笑)。

 よく見かける記事は、「衛星用キャリブレーションマーカー」ではないのか、というもの。この手の記事でいつも登場する(笑)"NASAの専門家"の推測のようです。大抵の記事は、それで終わり。憶測を並べただけで、"権威のある組織に所属する人物の発言"により、すべてが解決した・・と思わせる。この手の謎を解明するいつもの手口です。結局、誰もまじめに調べていないのです。

 「不思議な物が見つかった」、「何なのか科学的に立証して欲しい」、「科学者がコメントした」、「ナゾは解決した」。こんな流れかなぁと思います。

 でも、この流れはとても危険に感じます。「衛星用キャリブレーションマーカー」という専門的な言葉が出てくると本当のことのように感じてしまい、それ以降の思考が停止する。

 ・・・などと、思ったのですが、原典で確認したところ、この「衛星用キャリブレーションマーカー」説を述べた方は、インチキNASA技術者ではなく、本物の科学者のようです。管理人も、この説を採用することにします。

 そもそも、ゴビ砂漠の不思議な模様が確認されたのは2011年頃のことのようです。それなのに、現在でも、その正体が分かっていないのは腑に落ちない。

Google Earthで見つかった不思議なマークとは

 中国のゴビ砂漠と言われていますが、実際にはタクラマカン砂漠の東縁に位置していると思います。

 Google Earthで見つかったというゴビ砂漠のミステリアスなオブジェクトは一つではありません。

Mysterious-objects-china.jpg
 Source: Google Earth、以下、同様。

 地面に描かれたモザイク模様の白いラインが注目を集めたのは、2011年11月15日が最初のようです。その時点で二つの図形が確認されています。

 さらに、この周辺には明らかに軍事目的であると思われる施設がいくつか確認できます。
 この不思議なオブジェクトは、不思議なことに、ほぼ同じ緯度に並んで存在しています。北緯40度27分から28分付近です。

mosaic-location1.jpg


mosaic-location2.jpg


 北緯40度27分の緯度に沿って、西から東に見ていくと、最初に巨大なプールのような施設が目にとまります。

pool-1.jpg


 同じ緯度を東に行くと、同心円上に飛行機が数機、軍用トラックが多数並べられている場所にたどり着きます。

Satellite -calibration- marker-china3.png


 さらに東に行くと、問題のモザイク図形とその横に四角の図形が描かれています。

mosaic01.jpg


 さらに東に進むと、二つ目の図形が見えてきます。

Satellite -calibration- marker-china2.png


 次に見えてくるのが「滑走路?」らしき施設が二つ。

Runway.jpg


 緯度は少し下がるのですが、明らかに軍事施設のターゲットのような施設もあります。

Satellite -calibration- marker-china4.png


 いくつもある不思議なオブジェクトの中で注目されるのは、白いラインのモザイク模様の二つのもの。これが、「衛星用キャリブレーションマーカー」ではないか、と言われているものです。

 三角形で区切られている様に見える図形は、横1.74km、縦1.36kmの大きさがあります。白いラインの幅は、太いラインで30m、狭いラインでも20mもあります。

 これらのラインがいつ描かれたのかは不明ですが、Google Earthで時代を遡ってみると、2004年から2005年にかけて描かれたものであることが分かります(2003年8月13日の衛星画像には写っていない)。

 これらのラインは、1987年に世界遺産に登録された仏教遺跡莫高窟(ばっこうくつ)にほど近いところにあります。これらのモザイクラインは非常に広範な地域にまたがっており、地形が激しく変化する所でもまっすぐなラインを保っています。

 また、経年変化を見ると、ラインの縁は劣化がまったく見られません。このことから、この白いラインはペイントしたものではなく、何らかのフレキシブルな部材を地面に敷いて造られていることが分かります。一部にはささくれだって見える箇所があります。

 とても大きな図形なので、これを造るためには膨大な資材が必要だったと思います。また、地形の凹凸にもかかわらず、上空から直線構造に見えるような部材が使われています。地形に対して柔軟にフィットし、かつ、ラインは正確に直線を保てる材料。しかも当時、安価で入手できるものといったらトタンのような部材が使われたのではないでしょうか。

 この不思議なオブジェクトがどこにあるのか自分で確認してみたい方のために、リンクを貼ります。
 上で紹介したオブジェクトの位置が分かるGoogle Earthのkmlファイルはこちらからダウンロードできます。(ダウンロードパスワード: 02xj38t3)

  Source: Google Earth

YouTubeにアップされている動画

 このミステリアスなラインについて、YouTubeにたくさんの動画がアップされています。しかし、中身が無い! どれもこれも金太郎飴のような内容で閉口します。

Source: YouTube, "Mysterious Shapes Spotted in China Desert"

Source: YouTube "What is this? China builds Gigantic structures, incomprehensible, in the middle of the desert."

Source: YouTube "Mysterious Structures - Possible Aircraft Base - Xinjiang China - Arial View"

台湾のニュース
 Source: YouTube "Mysterious Structures in Gobi Desert"

CNNのニュース
 Source: YouTube "Why Is China Building These Gigantic Structures In the Middle of the Desert ?"

これは結局、何なのか?

 この白いラインのオブジェクト(グリッド)は、「衛星用キャリブレーションマーカー」だと言われています。管理人もその意見に賛成です。

 でも、疑問が残ります。「衛星用キャリブレーションマーカー」って、こんな形をしているの?

 違います。だから、不思議なのです。
 まず、中国の「衛星用キャリブレーションマーカー」を見てみましょう。こんな形です。

Satellite -calibration- marker-china.png


   Google Earth, 中国の衛星用キャリブレーションマーカー位置

 「衛星キャリブレーション」とは、衛星が取得した各種データを校正したり、ノイズを取り除いたりするための作業です。例えば、衛星が撮影した画像は、衛星のカメラの向き(角度)、衛星の高度、周回軌道などを加味してデータの校正をしなければ使い物になりません。このため、地上にマーカーを設置し、それを既知情報として、それと照合することで衛星データの校正をします。

 たとえば、ウユニ塩湖の大きさ、円滑な表面、かつ高い反射率を活用し、塩湖の表面が水で覆われた期間を利用して、人工衛星による海洋面積の校正に使われていました(現在は、もっと高精度の手法が開発されており、この方法は使われていないようです)。

 このため、「衛星用キャリブレーションマーカー」は、平坦な地面で、正確に距離を計測できるものである必要があります。つまり、山の中に「衛星用キャリブレーションマーカー」を設置しても、マーカーが正しく設定されているのかというマーカー自体の精度が問われることになり、また、地形の凹凸をどのように評価するのかも問われます。その意味で「キャリブレーションマーカー」としては失格です。

 この問題のオブジェクト(グリッド)は、通常のマーカーではなく、より高度なキャリブレーションを行うために設置したものなのかも知れません。

 いずれにしても、このオブジェクトは軍事用であることは間違いありません。これらのミステリアス・オブジェクトは、甘粛省と新疆ウイグル自治区との境界線の周辺にあります。中国の宇宙開発本部と発射基地のある甘粛省の酒泉市からは160KM程度の距離です。さらに、中国の核実験場であるロプノール湖(羅布泊)も近くにあります。

不思議の一部を解明

 管理人が不思議に思ったことは、白いラインが織りなす形状です。二つのオブジェクトのうち、三角形で構成されているオブジェクト(グリッド)に着目しました。

 これって、何なのだろう? なぜ、このような形状をしているのだろう? まるで道路配置のようにも見えます。

 ある記事に次のように書かれていました。

  「建造物の正体はまだわかっていないが、一部の専門家は、これらの物体は中国のミサイル発射実験における模擬射的ではないかと推測する。複雑な格子状の物体は市街地の道路に見立てているという。」

 それはどの都市か? それも特定しないでいい加減なことを言う。この「一部の専門家」とは、「素人まるだしの専門家」のようです。

 ネット上には、ワシントンやニューヨークを示しているという記事もありましたが、口からでまかせ、・・記事です。「複雑な格子状の物体は市街地の道路に見立てているという。」のが本当なら、その証拠を示して欲しいものです。

 その市街地とはどこなのか。これから管理人は、このナゾに深く沈み込んでいくことになります。

 管理人が最初に思ったのは、この配置はどこかで見たことがある、というものでした。

 それは以前、スペイン人侵略者ピサロを調べていたとき、彼の出生地をマップで探しているうちに迷子になってしまった、という記憶でした。ピサロが生まれた町は道路がとても入り組んでいて、地図で見ているだけでも迷子になってしまう。そんな複雑な地形でした。

 そこで、スペインの古都市を調べてみたのですが、問題の図形は見当たらない。

 同じ発想から、手当たり次第に古都市を調べたのですが、徒労に終わりました。
 道路配置が三角形になっている都市はほとんどありません。理由は道路配置が三角形だと、三角地ができるため土地が無駄になるためです。また、交通の面からもとても不便です。

 これは、道路配置を示したものではないのかも。そんな気持ちになります。
 さらに、この白いラインの幅がとても広いことも古代都市の道路配置ではないことを示しているように思いました。区画整理をして広い道路にしたら、三角形の配置は残らない。

 ワシントン、ニューヨーク、さらには、トルコのNATO基地、台湾など様々な土地を調べましたが、ナゾのオブジェクトに合致するような都市は皆無でした。

北緯40度27分のなぞ

 次に着目したのが緯度です。

 不思議なことに、これらのオブジェクトは北緯40度27分のライン上に並んで点在しています。この緯度に何らかの意味があるのでしょうか。

 Google Earthでこの緯度を辿ります。地球を一周する頃には、指が腱鞘炎になりそうです。

 この作業をしていると、不思議なことに、この緯度上にアメリカの軍事施設を見つけました。それも、ただの軍事施設ではありません。フランシス E. ワーレン空軍基地。ミニットマンICBMを装備した米国の最重要核戦略基地です。

 「フランシス E. ワーレン空軍基地(Francis E. Warren AFB: 41° 8'40.03"N 104°51'46.91"W)
第90ミサイル航空団(90th Missile Wing)はアメリカ空軍の部隊。空軍宇宙軍団第20空軍(20AF)傘下の部隊であり、作戦指揮上はアメリカ戦略軍の指揮を受ける。大陸間弾道ミサイルを運用する部隊であり、司令部はワイオミング州フランシス E. ワーレン空軍基地に所在。人員は約4,500名。
1963年にミニットマンICBMを装備し、フランシス E. ワーレン空軍基地で再改編により第90戦略ミサイル航空団(90th Strategic Missile Wing)となった。1986年からはピースキーパーを運用する4番目のミサイル中隊(第400ミサイル中隊)が編成されたが、これは2005年に廃止された。この間、名称も第90宇宙航空団(90th Space Wing)に改称され、2008年7月1日からは第90ミサイル航空団となっている。」 Wikipedia "第90ミサイル航空団 (アメリカ軍)"

 下の画像は、フランシス E. ワーレン空軍基地とICBM発射台をGoogle Earth上に合成表示したものです。中国にとって、ICBMは自国の安全を脅かす脅威でした。ここをターゲットとしてキャビテーションを行うためのマーカーを設置したのでしょうか。

 当時の中国のスパイ衛星がどのような地球周回軌道を描いていたのかは不明ですが、同一緯度上に多くの軍事施設が並んでいることから、この緯度を中心に周回していたように思えます。

ICBM-launch-pad.png


どこをターゲットとしていたのか

 ズバリ! それは北京です。

 まず、下のGIFアニメをご覧下さい。

Mystery_china_line01.gif


 最初に気づいたのは、問題の図形の西側にある四角形の存在からでした。

 これは何だろう。ただの四角形なので、誰も着目しません。
 北緯40度をずっと東に辿っていったとき、北京に出くわしました。北京ってこの緯度上にあるんだ!

 北京の地図を眺めていると紫禁城(故宮)が目にとまります。サイズを計測してみると、問題の四角形と似た大きさで、縦横の比率はかなり近い。そこで、問題の図形を故宮に重ね合わせてつくったのが、上のGIFアニメです。

 南北方向の道路配置は完全に一致しています。管理人としては、この結果に満足しています。自分でやってみれば分かりますが、このように一致することは通常ありません。

 キャビテーションのためには、精度が重要となります。誤差を最小化するために必要な基準線を正確に測定できるのは自分の国、ということでしょう。

 結局の所、三角形が何を意味するのかは分かりませんが、面積から積分して誤差を修正しようとしたのではないかと・・・思います。

終わりに

 今回のなぞの解明には、Google Earthの閲覧に多くの時間を使いました。高倍率での画面移動のため、指がボロボロ状態です。

 本当は、三角形の意味まで探りたかったのですが、指がもたないので、この記事はこれで終了とします。
 右手が痛いです(涙)。

 最後に、北緯40度27分のライン上で見つけた不思議な物をご紹介しましょう。それは、日本にあります。

 

 中国よりもこちらの方が面白そう。
 キリストの墓があるとされる新郷村も直ぐ近くです。キリストの埋蔵金を探しているのでしょう。失われたアーク(聖櫃)を探しているのかも。えっ? 石灰を掘っている? 欺されてはいけない。それはフェイク。本当の目的は・・・・。

 
posted by ネコ師 at 03:46 | Comment(0) | ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月31日

すみだ北斎美術館に行ってきました!


 2016年11月22日に開館した『すみだ北斎美術館』に行ってきました。
 北斎が90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残したことから、墨田区が葛飾北斎専門の区営美術館をつくってしまった。

 大変な人気らしいと聞いたので、混雑を避けるために平日に行ったのにやはり混んでいました。
 北斎がいかに人気のある芸術家なのかを改めて実感しました。外国人もたくさんいました。

 この美術館は、建物構造がとても奇妙です。訪問した人は、まずそれに驚くのではないでしょうか。

 美術館の外観はこのような形をしています。

Sumida-Hokusai-Art-Museum-S1.jpg


 どこから見ても同じ形です。

Sumida-Hokusai-Art-Museum-S3.jpg

 
奇妙な構造の美術館

 この美術館は、これまでに見たことがないほど奇妙な構造になっています。

 建物は4階建てですが、常設展示が行われているのは4階のフロアーだけ。そこへはエレベーターでしか行くことができません。階段の使用は制限されています。そもそも、階段がどこにあるのか分からない。防災上、問題がありそうです。

 4階が常設展示室と企画展示室、3階が企画展示室になっています。では、2階はというと・・・、何に使われているのか不明です。パンフレットには2階のことは何も書かれていません。図さえありません。

 1階は綜合案内・チケット売り場と売店になっています。しかし、やたらと狭い。これは、建物の1階部分が外とつながった通路で区切られた独立した4つのブロックに分かれているため、このようなおかしなことになっている。

 何がおかしいのか。

 美術館に来た人は、エレベータを使って4階まで行く必要があります。そして、エレベーターで1階まで戻ってくる。これ以外に方法はありません。このため、2基あるエレベーターは常時行ったり来たり。もし、展示室が2階にあるのであれば、エレベータを待つこともなく階段を使って移動できます。使われていない2階、3階を素通りして動いているエレベーター。なんとも無駄なことに電気を使っています。展示室の位置を変えるだけで電気代が半分になります。

 そもそも、階段がどこにあるのかが分からない。パンフレットには2階の図面がないし、1階の階段の位置も不明。火災や地震など防災上、問題がありそうです。たくさんの人で混み合っているので、まず感じたのはそのことでした。怖い構造物だと思いました。美術館は、不特定の人間が出入りするものの消防用設備の設置条件等が厳しい特定防火対象物にはなっていません。だから、よけいに怖いと言えます。

 図がないと理解できないと思いますので、すみだ北斎美術館のパンフレットにある各階フロアー位置図で確認ください。

Brochure-Hokusai-Art-Museum.gif
すみだ北斎美術館パンフレットの各階案内図

 1階の入口のフロアーがとにかく狭い。1階部分のスペースをブロック分けしたため、エントランスがとても狭くなっています。しかも、地下に行くための螺旋階段もあり、エントランスフロアーが余計に狭く感じます。週末など、チケットを購入する人と、エレベーターを待つ人と、エレベーターから降りる人でごった返すのではないでしょうか。

Sumida-Hokusai-Art-Museum-S2.jpg


 すみだ北斎美術館のプレスリリースを見ると、開館記念展「北斎の帰還-幻の絵巻と名品コレクション-」開催期間中(2016年11月22日〜2017年1月15日、会期:45日間)の入館者数は98,673人で、目標としていた入館者数3万人を達成したそうです。それも、目標の3倍の入館者数です。考えただけでも恐ろしい。平均すると1日あたり2,200人くらい。平日ならその半分程度でしょうか。この期間の入館料収入は1億1千4百万円くらいでしょうか。

 でも、管理人が行ったのは平日にもかかわらず混んでいました。常設展示室の中には少なくとも50人くらいはいたと思います。それでも何とかゆっくり見ることができたのですが、この人数が限界だと感じました。週末には行ってはいけない美術館・・です。

 この美術館は、もともと大人数を受け入れるようには設計されていないのでしょう。何しろ、トイレの数がとても少ない。常設展示期間中は、4階にしか行けないのですが、4階にはトイレがありません。使えるトイレがあるのは、1階と地下だけ。1階のトイレは個室が1個だけの小さなもの。地下のトイレは個室が2個で大きいとは言えない。

 この美術館のトイレを使おうと思ってはいけません。チケット売り場で行列、エレベータ待ちで行列、トイレ待ちで行列です。

常設展示

 常設展示は見応えがありました。

 まず、エレベータを降りたホールにある『須佐之男命厄神退治之図(すさのおのみことやくじんたいじのず)』が目を惹きます。

 この絵は、1845年、北斎85歳の時の作品で、幅2.76メートルの肉筆画でした。江戸・向島の牛嶋神社に奉納されましたが、関東大震災で焼失してしまいます。これを残された写真をもとに復元したのが展示されている絵です。2016年11月23日、NHKで放送された『ロスト北斎 The Lost Hokusai「幻の巨大絵に挑む男たち」』でその復元作業が紹介されていたのでご覧になった方も多いのではないでしょうか。

葛飾北斎 須佐之男命厄神退治之図


 常設展示室に入って直ぐ右手には、北斎アトリエの再現模型は圧巻です。北斎とお栄の等身大フィギュアがあります。二体とも少し動きます。本当によくできています。実は、これを見るために美術館を訪れた管理人でした(笑)。

北斎仮宅之図フィギュア


北斎仮宅之図フィギア2


 北斎が84歳の頃、区内の榛馬場に娘の阿栄とともに住んでいました。その様子を門人で浮世絵師の露木為一(つゆき いいつ)が絵(『北斎仮宅之図』)に残しており、それを元に模型で再現しています。北斎の下半身はコタツに入っているのだそうです。

 すばらしい出来栄えです。これには感動しました。

露木為一「北斎仮宅之図」
 露木為一「北斎仮宅之図」

 展示物は、ネットや本でいくらでも見ることができるので、それほどの感動はないのですが、絵や版画の大きさは興味を惹きました。写真では分からないので。

 北斎の肉筆画で感動する作品は『富士越龍図』。この絵は1849年、北斎が亡くなる年に描かれたものです。龍が非常に細部まで描かれています。本物を美術館でみる醍醐味を味わえます。

富士越龍図.jpg


 展示については、すみだ北斎美術館のホームページを見た方が分かります。


posted by ネコ師 at 17:20 | Comment(0) | ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月27日

北極海にこつ然と消えた二隻の英国軍艦 フランクリン探検隊の謎を追う


 2017年1月23日放送の『世界まる見え!テレビ特捜部』で、『フランクリン探検隊』失踪のナゾについてやっていました。同番組では、過去にこの謎について誤った報道をして謝罪をおこなったといういわく付きのナゾです。今回は、どうなのでしょうか(笑)。

 「2004年1月に放映された「甦るミイラ伝説」の中で、1845年、フランクリン探検隊がアルミの缶詰に含まれる鉛の大量摂取により死亡した可能性があると放送した。しかし当時アルミ缶は存在しておらず、鉛中毒を引き起こすようなアルミ缶は存在しないことが判明し、翌週のエンディング後にお詫びの放送を行った。」(Wikipedia,「世界まる見え!テレビ特捜部」

 この番組は、過去のニュースを、あたかも最近"判明"したかのように報じる、というイカサマをよくやるのですが、"アルミ缶の鉛?"も、いつものように"判明して"、初めて分かったようです。なかなか笑えるテレビ局ですが、番組としては楽しく見ました。

 この記事では、最新情報を交えて、(イカサマ)番組の中で語られなかったことなども書いていきたいと思います。

フランクリン遠征隊の謎とは

 1845年5月19日、イギリスのテムズ川下流の港グリーンヒザ(Greenhithe)を二隻の軍艦が出港しました。船の名は、エレバス号(HMS Erebus)とテラー号(HMS Terror)。船名の前についている「HMS」とは「英国軍艦: His(or Her) Majesty Ship」の略です。

 この航海の目的は、ヨーロッパとアジアを結ぶカナダ北極諸島を経由した新たな『北西航路(Northwest Passage)』を開拓することでした。

 この遠征隊を指揮したのは、海軍大佐のジョン・フランクリン卿(Sir John Franklin)で、彼の名を取り「フランクリン遠征(Franklin's expedition)」と呼ばれました。しかし、グリーンヒザ港を出帆した二隻の軍艦は、二度とイギリスの港に戻ってくることはなかったのです。129名の乗組員と共にこつ然と消えてしまいました。

 この二隻の軍艦は、1845年7月28日、グリーンランド近くのバフィン湾(Baffin Bay)に停泊行しているところを、近くを通った捕鯨船団に確認されたのを最後に消息を絶ちました。どこに行ってしまったのか。船と乗組員はどうなったのか、なぜ、消息を絶ったのか、など、イギリス、そして、軍艦が失踪した海域を管轄するカナダにとって、長年のナゾでした。170年前に現実に起こったミステリーです!

 ところが、このナゾが解き明かされたのです!

北西航路と北極海航路とは

 ヨーロッパからアジアに北極海を経由して渡るルートとして、北西航路(Northwest Passage)と北極海航路の二つがあります。前者は、北アメリカ大陸の北方を通って大西洋と太平洋を結ぶ航路であり、フランクリン遠征が開拓しようとしたルートでした。これに対し、北極海航路は、ユーラシア大陸北方(ロシア・シベリア沖)の北極海を通って大西洋側と太平洋側を結ぶ航路です。

 この二つのルートは、一年のほとんどの期間氷に閉ざされるため、現実には航行するのは極めて困難でした。19世紀に航行に成功した例は数えるほどしかありません。しかし、現在では、地球温暖化の影響で、北氷洋の氷が溶け、夏の短い期間だけ航行することができるようです。

 下の画像の緑色のラインが、フランクリン卿が開拓しようとした航路になります。

 イギリス政府はそれまでにも数回の北極地域の探査を陸と海から行っており、残された空白部分を埋めるためのルートの確認がフランクリン隊の使命でした。カナダは1763年にイギリス領になっており、イギリス政府にとってカナダ北方の国境確定のためにも極地探検は重要でした。

 適当な画像がないので作りました。グリーンランドの下側が、フランクリン隊が最後に確認されたバフィン湾です。

Arctic route.jpg
Source: Google Earthをベースに管理人が作成

二隻の軍艦はどのような船だったのか

 この探検航海に使われた二隻の軍艦はどんなものだったのか。まず、これから見ていきましょう。

erebus-terror01.jpg


 二隻とも、艦首に装備した臼砲を主兵装とする三本のマストを備えた木造帆走蒸気軍艦(臼砲艦)でした。1813年に進水したテラー号は、全長31.09m、貨物の積載量が325トン(B.O.M)、総乗員数67人。もう一隻のエレバス号は、1826年に進水、全長32m、貨物の積載量が372トン(B.O.M)、総乗員数はテラー号と同じ67人でした。[1]

 日本の遠洋まぐろ漁船は、全長47m〜50m、漁獲量180〜300t、航海日数300〜700日、乗組員数は25〜30人なので、現代の遠洋まぐろ漁船よりも一回り小さな戦艦だったことが分かります。

 この二隻の軍艦は、南極探査船として改造され、船体は鉄板で外装が施されました。南極探査で大きな成果を上げた両船は、北氷洋に投入されることになります。

 旗艦エレバス号を率いるのはフランクリン卿、そして、僚船テラー号はフランシス・クロージャー(Francis Crozier)が船長を務めました。

 船は氷に閉じこめられ、身動きができない状態の中で、1847年6月に探検隊の指揮官フランクリン卿が死亡し、その後、テラー号船長のクロージャーが指揮をとることになります。そして、悲劇の死の行軍により、遠征隊員129人全員が死亡するという悲惨な結末を迎えることになります。

 これは、クロージャー船長の判断ミスだったのでしょうか?

 順を追って、そこに至る経緯を見ていきましょう。

 後で出てきますが、フランクリン探検隊が出発した年から8年後に、アメリカ合衆国のペリー提督に率いられた黒船船団が浦賀に現れます。この時の蒸気船は3隻でした。すべて帆船としても航行可能な機帆船です。これらの黒船と比べても、エルバス号とテラー号がいかに小さな船だったのかが分かります。

所属船名進水年全長全幅総トン数(英トン)総乗員
英国エレバス号182632m8.84m31567
英国テラー号181331.08m8.23m32567
米国ポータハイン号185077.32m14m2415-
米国サスケハナ号185078.3m13.7m2450-
米国ミシシッピ号184270m12m3230-


食料・石炭ストックのナゾ

 エレバス号とテラー号には、約3年分の保存食・缶詰のストックがあったようです。でも、これって変だと思いませんか?

 上で、わざわざ二隻の船の仕様を調べた理由がここにあります。
 3年分の食料って、狭い船の中に、どうやって保管するんだろう? その重さは? 容積は? 船に乗せられる大きさなの?

 現地補給できるのは、水くらい。氷山を溶かせば飲料水を確保できます。これは大洋を航海する探査船とは違い、局地探査船に付与されたメリットです。

 しかし、食料の問題は深刻です。
 大洋を航海する船であれば、魚を釣ったり、近くの島に寄港して食糧を補給することも可能です。しかし、局地探査では、氷が厚すぎて、魚を釣ることは不可能でしょう。他の食料として、野生動物を狩る方法も考えられますが、もし狩りができたとしても、隊員129名全員の胃袋を満たすことなどできません。やはり、持参した保存食を食べるしかなさそうです。

 船に積み込んだ食料は分かっているようです。

 「この旅は約3年続くと予想されていたため、船には136,000ポンド以上の小麦粉、3,684ガロンの高品質のアルコール、そして33,000ポンドの缶詰の肉、スープと野菜を積み込んだ」(Wikipedia)

 これをキログラムに直すと、61トン以上の小麦粉、16,578リットルの高品質のアルコール、そして15トンの缶詰の肉、スープと野菜を積み込んだ」ということになります。

 缶詰を1食あたり1缶食べるとすると、129名の乗組員のために必要な缶詰の数は、3年間で42万個となります。Wikipediaによれば、8,000個の缶詰が大急ぎで作られたと書かれています。もし、積み込んだ缶詰の総数量が8,000缶であったとすれば、一人当たり62缶になります。

 1846年1月1日、テラー号の乗員に最初の犠牲者が出ます。John Torringtonという名の船員で、当時20歳の若者でした。彼の遺体は、ビーチー島(Beechey Island)東海岸に埋葬されます。それから3日後の1月4日、今度はエレバス号から二人目の犠牲者が出ました。John Hartnell、25歳です。さらに3ヶ月後の4月3日、エレバス号で三人目の犠牲者William Braineが亡くなりました。32歳でした。彼ら三人の遺体はビーチー島に埋葬されます。

Franklins-3Crews.jpg
Image Credit: Kristina Gehrmann illustration

 1851年に、彼らの墓地が捜索隊により発見されました。その後、墓地のことは忘れられてしまいますが、1976年に再発見されます。1984年に発掘調査が行われ、完全に冷凍保存された三人のミイラ化した遺体が見つかりました。検死解剖の結果、三人の遺体からはかなり濃度の鉛が検出されました。このため、彼らの直接的な死因は鉛中毒であると判定されました。

 この鉛は、缶詰の密閉に使われたハンダから溶出したものと考えられています。
 ビーチー島で亡くなった三人は皆若者ばかりです。しかも、イギリスを出てから227 日目で最初の犠牲者が出ています。保存食である缶詰に手を付けるのは他の食料がなくなってからと考えられるので、缶詰を食べて鉛中毒に罹り死亡するには早すぎるように思います。


 もう一つ気がかりなのが燃料です。二隻の船は機帆船で、帆を使ったり蒸気エンジンを使って進むこともできるハイブリッドタイプの軍艦です。当時の蒸気エンジン(レシプロエンジン)は燃焼効率が悪く、大量の石炭を必要としました。

 黒船来航で、ペリー提督率いる蒸気船3隻を含む船団が浦賀に姿を現したのは1853年のこと。フランクリン探検隊が北極航路探査に出発したのが1845年なので、黒船来航よりも8年も前のことになります。1846年には皇女和宮が誕生します。日本ではそんな時代でした。

 そもそもペリーが日本に開港を迫った理由の一つが蒸気船の燃料補給でした。石炭の確保です。

 浦賀に来航したペリーの船団のうち、蒸気船は三隻でした。ペリーが乗った旗艦ポータハイン号、ペリーがアメリカの港を出港したときに乗っていたサスケハナ号、そして、ミシシッピ号。これらはいずれも外輪を持った蒸気船でした。しかし、当時の蒸気船の運航には、大量の石炭が必要でした。たとえば、ミシシッピ号には一週間分の石炭しか積むことができませんでした。このため、蒸気の力だけで太平洋を渡ることはできず、途中に補給地が必要でした。

 話をフランクリン探検隊に戻しましょう。エレバス号とテラー号はどのくらいの石炭を積んでいたのでしょうか。ペリーの時代の蒸気船よりも20〜30年前の船です。英国海軍がスクリュープロペラを採用するのは1846年以降なので、エレバス号とテラー号の推進装置がスクリューでないことは確かです。蒸気機関を使って高速で航行できたようですが、その推進装置が何だったのかは分かりません。南氷洋や北氷洋を外輪船が航行できるとは思えないし、・・・。

 そう思って調べていたら、意外な落とし穴が。英国海軍のスクリュー推進装置を持つ艦船リストの中にエレバス号とテラー号が載っていました。[3]  どうやら、この二隻は、当初帆船として建造されたものの、フランクリン探検隊出発の前年あたりに、スクリュー式蒸気船に改造されたようです。

 ちなみに、エレバス号とテラー号が積むことができた石炭は、わずか12日間分でした。このため、石炭は暖房用に用いられたのだと思います。しかし、量が足りない気がします。

 この探検隊の失敗の要因は、とても小さな船二隻に129人もの乗組員が乗船していたことで、食料と燃料が枯渇したことにあるのではないでしょうか。大型蒸気船を造り上げた設計者ブルネルは、「船に積める燃料などの容積は船の長さの3乗に比例し、必要な燃料は船の2乗に比例する」という理論を持っていました。つまり、蒸気機関は小さな船ほどは効率が悪かったのです。

 この理論で計算すると、エレバス号に積める石炭の量は92トン程度だったのではないかと思います。[11] そもそもこの船に積める荷物の重量は315トンに過ぎません。

 3年分の食料を準備し、当時としては優れた装備を備えた最新鋭の軍艦。そんなイメージで見ていたのですが、実態は、かなり違っていたように思います。蒸気船としては非効率な小型船であったため、大量の石炭を積んでも12日しか蒸気機関を使えなかったこと、帆船操作のために67名ものクルーを乗船させる必要があったこと、そのために必要な食料は、現実には3年分は積み込めなかったように思います。

 このため、両船は、多量の石炭と食料を積み込むために、大砲類はすべて取り外した測量船だったのではないでしょうか。

 これらのことから、管理人は、このミッションの失敗は、船の大きさに原因があったのではないかと考えています。

消えた軍艦の捜索

 1848年になって、行方不明になった二隻の軍艦の捜索が始まります。しかし、二隻の軍艦の足取りはようとして不明でした。

 1854年、北極探検家ジョン・レー(John Rae)が驚くべき情報をもたらしました。

 彼は、現地の先住民イヌイットと出会い、イヌイットがキング・ウィリアム島で見つけたとされるフランクリン隊が残した遺物を取引で入手することに成功しました。それらの大部分はボタンや用具類でした。そのとき、乗組員同士で人食いが行われたという話をイヌイットから聞きました。イヌイットたちがその様に考えた根拠については不明です。

 フランクリン探検隊は、それまでに北極に送り出された探検隊と比べ、当時としては最高レベルの装備を持った調査隊でした。それ故、フランクリン探検隊の消失事故は、イギリス政府にとって信じられないものでした。

 捜索を通じて、次第にフランクリン探検隊の足取りが判明します。

 1845年、最初の冬、3人の乗組員が死に、ランカスター・サウンドのビーチー島(Beechey Island in Lancaster Sound)に埋葬されました。

 1846年夏に、彼らはキング・ウィリアム島(King William Island)に向け南下しました。そこで、彼らは氷の中で足止めされることとなります。

 1859年の捜索隊フランシス・レオポルド・マックリントックとW・ホブソン(Francis Leopold McClintock and William Hobson)は、この島に築かれた石塚の中から、乗組員が残したメモを発見しました。このメモは海軍の標準的な記録でした。しかし、そのメモには、最初の標準海軍記録が書かれてから9ヵ月後に書かれた本文を修正する走り書きが残されていました。この修正文には、1848年4月22日に船の放棄することがかかれ、そして、非常に短い文章でジョン・フランクリン卿が死亡したこと、23人のクルーも死亡したことが書かれていました。この短いメモ書きは、しばしば、「最後の記録」として引用されますが、残念なことに、その時発生していた最悪なこととは何だったのかは書かれていません。また、船を放棄した場所の座標が書かれていました。「北緯69度37分42秒、西経98度41分」です。この座標をGoogle Mapで表示するとキング・ウィリアム島の北西の突端あたりになり、どの収集でもこの位置が船の放棄位置として示されています。

 1848年のイギリス海軍の座標がGoogele Mapで使えるのですから、さすがはイギリスという気がします。1884年に開催された第1回国際子午線会議(ワシントン)で、多くの海図を出版していたイギリス案が認められ、ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が本初子午線に決められたことに起因しています。

 残された乗組員が船を捨てたのは、ロンドンの近くのグリーンヒザ港を出港してから1069日目(2年11ヶ月3日)のことでした。船を捨てた理由は明らかです。食料が尽きたのです。夏まで待つことができなかったのです。

franklin-Root-map1.jpg
   Image Credit: Canadian Geografic

彼らは船を放棄し、どこへ向かったのか

 残されたメモには、カナダ本土の"Back River"を目指すと書かれているようです。我々が推測できる唯一のことは、残されたクルーたちが船を放棄し、ハドソン湾会社(Hudson's Bay Company)の前哨基地(outpost)を目指し南に向かっただろうということです。

 ハドソン湾会社は、毛皮交易のため1670年に設立された英国の国策会社で、良質な毛皮を求め現カナダ北部に手広く展開していたようです。クルーたちは、闇雲に歩き始めたのではなく、ハドソン湾会社の前哨基地"Back River"を目指したのだろうと考えられているようです。

 "Back River"の位置は、軍艦を放棄した場所から直線距離で340kmです。実際の距離は、Google Earthで計測すると410km位になりそうです。
 
 下の画像で黄色のラインは、残された隊員たちが彷徨したルートです。このルートに沿って遺骨が散らばっていました。黄色のラインの最後の部分で、最後の隊員が息絶えます。青のラインは、最後の隊員が歩めなかった部分です。

 黄色のラインを見ると、海岸沿いに歩いていることが分かります。海の部分は平坦な氷で覆われていたのではなく、かなりの高低差があったことから、比較的平坦な海岸沿いのルートをとったことが分かります。

 それにしても、距離があり過ぎ。まさに死の彷徨です。

Wandering-of-death.gif
Image: Google Earthをベースに作成

 南に向け出発した彼らは、この前哨基地にたどり着くことはありませんでした。数年後、地元のイヌイットと捜索隊によってキング・ウィリアム島の岸に沿って散らばる隊員たちの遺骨が発見されました。

 最近の研究で、これらの遺骨には人肉食いが起こったかも知れないことを示すナイフの跡が見つかっています。狩猟民族で、動物解体の専門家でもあるイヌイットの考察が正しかったことが証明された形になったようです。

ジョン・フランクリン卿の遺体はどこにあるのか

 当初、ジョン・フランクリン卿の遺体はエレブス号の中ではないかと考えられました。船を捨てるほどの逼迫した状況の中で、お墓を造ったとは考えにくかったのです。つまり、エレブス号全体がフランクリン卿のお墓ではないのか。

 キング・ウィリアム島の石塚に残されるメモは、彼が1847年6月11日に死んだという記述から始まります。そには、彼の遺体がどこに埋葬されるかについては書かれていなかったので、彼の遺骸はそのまま船に残されたのではないかと考えられました。しかし、それはあり得るのでしょうか。

 1869年に捜索者C・F・ホール(Charles Francis Hall)に対するインタビューにおいて、彼は次のように語りました。

 イヌイットのハンターたちは、金属の道具を探すため遺棄された船の中に入りました。そこで、一人の巨漢の死人が船の中に残されているのを見つけたと話しました。

 それは、J・フランクリン卿の遺骸だったのでしょうか。

消えた二隻の軍艦がついに発見される!

 1848年4月に放棄された二隻の軍艦はその後どうなったのか。イギリス政府とカナダ政府にとって大きなナゾとして残りました。この船を捜索している理由のひとつは、フランクリン探検隊が全滅した理由が船の中に残されているのではないか、と考えたからです。

 本格的な探索が行われた結果、2014年9月2日に、深さ12mの海底からエルバス号が発見されました。
 そして、昨年、2016年9月12日に、The Arctic Research Foundationの調査チームが、深さ24mの海底でテラー号を発見しました。

 二隻の軍艦が見つかった位置を地名で書いても誰も分かりません。現地の詳細な地図が入手できないので、一般の人にとって、地名で書かれても何の役にも立ちません。そこで、沈没船の位置図を作ってみました。クリックすると拡大できます。

wrecked-ships-location01.jpg
 Image: なんでも保管庫

 エレバス号もテラー号も放棄された場所とは全く違うところに沈んでいました。これでは見つからないわけです。

 昨年見つかったテラー号は、ほぼ原形を留めており、ほとんどの窓にはガラスが残っており、圧搾空気を送り込めば浮上するのではないかと思えるほどの保存状態のようです。調査は始まったばかりで、情報はほとんどありません。今後の調査の進展が楽しみです。

wheel01.gif
      発見されたテラー号の操舵室

 エルバス号とテラー号を発見した"Arctic Research Foundation"は2012年に設立された民間の非営利団体ですが、ほとんど情報を発信していない。HPを見ると、トップページだけしかなく、まるで詐欺師グループのHPのような印象を受けます。どうも、いろいろ利権が絡む事案のようです。CNNの報道もとても中途半端で、まるで報道規制でもあるかのように基本情報さえ伝えない。「世界丸見え・・」でも中途半端な伝え方でした。この"Arctic Research Foundation"はちょっとうさんくさい団体なのかも知れません。このため、この組織名をあえて日本語訳していません。今回の記事を執筆していて、かなり勉強になったのですが、いまいち後味の良くない記事になってしまいました。

 今回はイギリス艦船の失踪にまつわる記事でしたが、日本でも、今から64年前に調査に出たまま、未だに戻ってきていない船があります。海上保安庁の海洋観測船「第五海洋丸」です。

 この船は、1952年9月24日、明神礁の噴火を観測中に大爆発に巻き込まれたと考えられていますが、真相は未だに分かっていません。醤油樽、木箱、ブイ、船体の一部が発見されたので沈没したのは間違いありません。

 なぜ、爆発に巻き込まれたのかがナゾとして残っています。第五海洋丸は噴火している明神礁から離れ、一定距離を確保していたはずです。

 観測していた場所が、ベヨネーズ列岩と明神礁との中間地点で、観測中にその真下で発生した別の海底噴火の直撃を受けたとする説もあるようです。乗組員31名は全員死亡とされています。

 『明神礁に消えた"第五海洋丸"のなぞ』が解明される日が来ると良いのですが。

【出典】
1. B.O.M:ビルダーズ・オールド・メジャメント( Builder's Old Measurement)。イギリスで1720年から1849年まで使用されていた全長と全幅から船の積載量を計算する推定法である。
2. Wikipedia, "Franklin's lost expedition"
3. Wikipedia, "HMS Terror (1813)"
4. Wikipedia, "HMS Erebus (1826)"
5. Wikipedia, "Francis Crozier"
6. "OTTAWA CITIZEN, Has second ship in Franklin Expedition been found?", September 12, 2016
7. CNN, "HMS Terror: Franklin expedition 'ghost ship' found on Arctic sea bed",September 15, 2016
8.‘PERFORMANCE OF SCREW STEAM VESSELS IN HER MAJESTY'S NAVY., Table II.',“A treatise on the screw propeller: with various suggestions of improvement”, John Bourne, 1852
9. 日本製缶協会HP
10. http://www.rom.on.ca/en/blog/the-ongoing-mystery-of-the-franklin-expedition
11. 1837年にロンドンで建造された蒸気船シリウス号(SS Sirius (1837))は、全長54.4m、幅7.8m、乗客40名、乗組員36名という仕様で、450トンの石炭を積み込んだという記録があります。これを元にエレバス号の石炭積み込み可能量を算出すると、92トン程度であったと考えられます。


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2017年01月19日

鏡に映らない吸血鬼が撮影される、という動画が今さら話題に!


 米ジョージア州サバンナのシューズ・ショップの監視カメラに、鏡に映らない男性が撮影されていた・・と話題に。

 今年になって、いくつかのメディアに採り上げられているYouTubeの動画です。

 最近の動画かと思ったら、2013年11月に公開された動画です。何を今さら感満載の記事です(笑)。「トカナ」もネタに困った? 年始なので手抜きしたことがバレバレの記事。

   Source: YouTube "Guy has no reflection!! - Flip flop shop in Savannah " , 2013/11/21 に公開

 鏡に映らないから、彼はきっとバンパイヤなのでしょう。個人の秘密を暴いてはいけません! せっかくここまで隠し通してきたのですから、そおっとしておきましょう。これも"お・も・い・や・り"

 萩尾望都の漫画『ポーの一族』の「メリーベル」のように心臓に杭を打たれてしまわないように。

 日本人には、バンパイヤと言われてもいまいち実感が湧きません。"魑魅魍魎"が大好きな日本人ですが、日本の妖怪にはバンパイヤのような生き物はいません。日本人は、神道の流れから、死や血を穢れと感じているせいかも。

 日本の妖怪は鏡に映らないらしい。日本で同じような動画が公開されたなら、"バンパイア"ではなく"妖怪"ということになる。ワクワクしますね。

 管理人は、この動画のようなミステリーが大好きです。誰に迷惑をかけているわけでもないし。靴屋さんの宣伝にもなるし。何よりも、楽しめます! この動画、不思議だなぁ!

 この動画は本物でしょうか。本物ならもっと楽しいのですが。

 管理人が気になったのは、動画中の監視カメラのカウンターの「11:16:32」から「11:16:32」にかけて発生する光のライン。鏡の部分だけに発生しています。 

fake-video-01.gif


 どうせ作るのなら、つなぎが分からないようにもっと注意しろよ、と言いたい。

 この動画の真偽の判定は、実は動画の冒頭の1、2秒のところでできます。鏡の前を通る影のない黒ずくめの男性が二人いる! 明らかに同じ人物です。二重撮しでの消し忘れか、編集の都合上、スタート部分の重複を消せなかったのでしょう。

 通常、この手の動画は、「実は、○○の宣伝のためのプロモーションでした!」というパターンなのですが、この動画に関してはそのような情報はないようです。

 では、本物かも! きっと本物なのでしょう。「おもてなし」の心で、鏡に映らない人がいても見て見ぬフリをしましょう!



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2017年01月12日

葛飾北斎の肖像


 江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎。
 江戸時代の絵師の中でも異彩を放つ存在です。

 下の画像は、北斎が80歳頃に描いたとされる自画像です。背景は川越・喜多院にしました。

Hokusai's-own-portrait.jpg


 そのうち、北斎の謎を追う! という記事を書きたいと思いますが、皆さんと同じ記事を書いてもつまらないので、全く別の切り口から迫りたいと思います。

 北斎について研究している方が本当にたくさんいるので、書くことがない、と思ったのですが、まだまだ分かっていないことも数多くあるようです。

 北斎は88歳まで長生きしました。彼はむちゃくちゃな生活をしていたのになぜ長生きできたのか? 現代人にとってもヒントになりそうな気がします。

 そのヒントとなるのが、貝原益軒により書かれた『養生訓』(1712年)ではないかと管理人は考えています。『養生訓』は北斎が生まれる48年ほど前に書かれた書物ですが、現代まで読み継がれているロングセラーの健康指南書です。素食の北斎が好んで食べた『くわい』についても『養生訓』には書かれています。

 北斎は、1827年(文政10年)、68歳の頃中風を患いますが、自分で治したそうです。でも、どうやって?

 多くの人が50歳を待たずに死んでいった江戸時代後期、通常であれば、北斎は69歳以前に亡くなっていた筈です。すると、『富嶽三十六景(1831)』も世に出ることはなかった。北斎が長生きしたからこそ膨大な数の作品を描くことができました。

 北斎の最大の謎とは、結局、かれがなぜ長生きできたのか、にあるように思えます。そして、ただ長生きしたのではなく、生涯現役の絵師でした。

 今日は"前振り"ということでここまで。


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