2017年01月20日

スカイツリーが描かれていると話題の浮世絵


 東京スカイツリーができあがる前年に話題となった歌川国芳の浮世絵「東都三ツ股の図」に描かれた奇妙な『塔』。まるでスカイツリーのようだと注目を集めました。

 遠くに見える二つのタワーのようなものはいったい何なのでしょうか。
 多くのサイトでこの解明をしようとしているのですが、あまり良い結果が得られていないような気がします。

歌川国芳 東都三ツ股の図


 そこで、本サイトでもこの謎に迫りたいと思います。「何を今さら」という気もしますが、やはり、気になります。

塔の高さは何メートルなのか

 まず、誰もやらないことからスタートしましょう。

 川の対岸に見える二つの塔はかなりの高さがあるようです。では、何メートル?

 一つは「火の見櫓(やぐら)」のようです。もう一つの高い方の塔は井戸掘削用の櫓でしょうか。
 この高さはどのくらいあるのでしょうか。早速、計測してみます(笑)。
 
 当時火の見櫓の高さは何メートルだったのでしょうか。『火の見櫓図鑑』の『火の見櫓の歴史』を読むと、「最も格が高い定火消の火の見櫓で高さがおよそ五丈(約15m)、町火消の火の見櫓で三丈(約9m)以下とされていた」そうです。

 江戸時代、構造物の高さは厳しく制限されていました。逆の見方をすると、「規格化」されていたということ。

 浮世絵の火の見櫓は、二階建ての家の屋根よりもはるかに高いので、定火消の15mサイズの火の見櫓だったと考えられます。

 これをベースにして、比例計算すると、問題の井戸櫓のような塔の高さを算出できます。

measuring-towers.png


 計測結果は、33.8m。ベースラインの位置の誤差を考慮すると、概ね35m(約15丈)程度だったと考えられます。東京スカイツリーって何メートルでしたっけ。さて、これは、井戸櫓なのでしょうか? 

櫓の位置を特定する

 この櫓の位置については、他のサイトさんでも特定を試みているようです。でも、それを参考にせず、自分でやってみます。

 歌川国芳がこの絵を描いたのは、絵のタイトルにもなっている『三ツ股』と呼ばれた隅田川の中州。制作は、1831年頃とされています。

 絵の右側に見えるのが永代橋。対岸が深川。深川には三つの橋が架かっており、北から順に上之橋、中之橋、下之橋と言いました。火の見櫓があった場所は、下之橋の北側のたもと。

 1858年の古地図と現在の地図をGoogle Earth上で重ね合わせてみます。猫の足跡マークが歌川国芳が描いた場所であると、管理人は考えます。

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Source: Google Earth上に表示

 火の見櫓の位置は、「深川佐賀町惣絵図」、寛永3年(1850年)[1]を使っているのですが、これだと、上で書いたように「下之橋の北側のたも」になります。しかし、「東都三ツ股の図」では、下之橋の南側に火の見櫓が見えます。歌川国芳がこの絵を描いたとされる1831年から20年の間に火の見櫓の位置が変更になったのかも知れません。

高い櫓は一体何か?

 管理人は、井戸掘り櫓だと思います。深川は埋め立て地なので、浅井戸では海水が混じり飲用に適しません。このため、30m程度の深井戸を掘ったようです。深層の伏流水を狙う方法です。ちなみに地質学上のデータでは、この地域は、海の底ではなく陸地であった期間の方が長いそうです。

 井戸を掘ったことのある方は少ないと思いますが、管理人は学生の時、井戸掘りのアルバイトをしたことがあるので、やり方は何となく分かります。

 管理人が掘った井戸は、櫓を組み、足場材に使われる「単管パイプ」を錘(おもり)を落下させることで打ち込んでいく工法でした(「掘り抜き井戸」)。錘を高い位置から落下させ、その反動で「単管パイプ」を地中に差し込んでいきます。この作業はすべて人力で行い、機械は一切使いません。そのための学生アルバイトでした。この作業のためには、ある程度の高さの櫓が必要となります。

 しかし、35mもの高さの櫓が必要か、と問われれば、必要ない、と答えるでしょう。長さ2mものの単管パイプをつないゆくので、落下させる錘の高さは1.5~2メートルもあれば十分。というか、それより高いと打撃で管が壊れてしまいます。深川の地下で岩盤が出るとは考えられないので、必要な櫓の高さは10メートル以内。実際には5メートルといった所でしょう。

 この他に、『金棒掘り』といって、径2寸、長さ4間、重さ24貫(90キロ)の丸棒を継ぎ合わせ、それを上から落下させることで井戸を掘る工法もありましたが、その落下高さは2尺程度のものでした。このため、35mもの高い櫓は不要なのではないでしょうか。

 ところで、深さ30メートルまで掘った水をどうやって取水するのか? 水中ポンプがない時代です。昭和30年代まであった手押し井戸ポンプも当時はありませんし、このポンプで揚水できる深さは10メートルが限界です。では、どうやって取水したか分かりますか?

 この現場で、地下30メートルの地下水層にある水は被圧されており、放っておいても地下水位が上昇しするのではないでしょうか。被圧地下水がある場合、場所によっては、地表面から吹き出ることもありますが、深川では、地下2~3メートル程度の水位だったのではないかと思います。つまり、その深さまで井戸の直径を広げればよいのです。

 では、なぜ、高い櫓が必要となったのか。

 真相は分かりませんが、硬い層にぶつかったのではないかと想像します。この層を破るために高い櫓を設置しなければならなくなった。または、水をたくさん必要だったため、打ち込む管の太さをかなり太いものにし、長尺ものを使った。この管は竹だったと思いますが、井戸が深いため、竹管を二重構造にしたのかも知れません。やはり、『金棒掘り』が使われたのでしょう。

 深川の地層で、たかだか30メートル程度で岩盤が出るわけがないので、この土地の埋め立ての材料に入っていた転石の可能性があります。それを高い櫓を使って力ずくで掘り抜いたというのが真相のように思います。仮設の櫓なので、幕府の規制はある程度免除されたのではないかと思います。そもそもの江戸町民の飲み水の供給は幕府の仕事だし。本所深川に水を供給していた本所上水が1722年に廃止されたまま復活しないし。

 しかし、あらためてこの浮世絵を見ると、当時としては想像を絶する高さの櫓です。このような工法を採用したのであれば、何らかの記録が残っていてもおかしくはない。そんな気もします。

この井戸はどこにあったのか

 深川は埋め立て地で、上水は通っていませんでした。隅田川を樋管で渡す技術がなかったからです。浅井戸を掘っても出てくるのは塩水だけ。このため住民は、洗濯などの生活用水には浅井戸の水を使い、飲料水は水売りから購入していたようです。

 ところで、この深川、そして井戸櫓が建っている場所である佐賀町には、『船橋屋(船橋屋織江)』という有名なお菓子屋がありました。ここの練羊羹はとてもおいしかったらしく、当時のさまざまな書物にも登場します。

 和菓子づくりには、良質な水が大量に必要となります。『船橋屋』ではその水をどうやって確保していたのでしょうか。実は、『船橋屋』は自前の深井戸を持っていました。近所でも評判の美味しい水だったそうです。

 この『船橋屋』があった場所は、現在の住所では『東京都江東区佐賀2丁目9 番地』。この条件で、井戸の場所を特定します。

 この住所を古地図上に表示すると、歌川の浮世絵にある対岸の橋は、「上之橋」であったことが分かります。そして、火の見櫓の位置は、上之橋のたもとであると特定できます。上で示した位置よりもかなり北側となります。

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Source: Google Earthに1858年古図を重ねて表示

 『船橋屋』屋敷跡の発掘調査の結果、100 平方メートルの範囲で4つの井戸跡が見つかっています。「東都三つ股の図」に見える井戸櫓の大きさから、当時としても大がかりな井戸掘りだったことが伺えます。近くで見つかった井戸跡では、最大直径1メートルの桶の底をくり抜き、それを逆さに積み重ねて井戸の壁にした遺構が確認されています。しかし、それが30m下まで続いている分けではないでしょう。直径1メートルの桶の中で30mもの深さの井戸を掘るのは無理です。そもそも、高い櫓を必要としないし。

 船橋屋の主人が、天保12年(1841)に出版した近世菓子製法書の最高峰といわれる『菓子話船橋(かしわふなばし)』という書物があります。甘味好きのためにお菓子の製法を被歴・伝授した本ですが、その中で、練羊羹の作り方も詳しく書いています。

 この本の挿絵には、以下の絵が使われています。火の見櫓の位置が悩ましい。この挿絵では火の見櫓は上之橋の北側にあります。しかし、この位置だと浮世絵のようにはならない。つまり、この火の見櫓は、「東都三つ股の図」が描かれた1831年から『菓子話船橋』が出版された1841年までの10年の間に位置が変更になった、という結論になります。

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  船橋屋織江、『菓子話船橋』、1841

 火の見櫓の位置が変わるのは、大火災があった場合でしょう。この期間に発生した大火災としては、天保5年2月7日(1834年3月16日)の『甲午火事』があります。深川についての被害は確認できませんでした。

 最後に、井戸櫓の高さを補正しておきます。上で示した33.8mという高さは、火の見櫓を基準にして、そこの真横にあった場合の高さになっています。実際には、歌川の位置から見て、井戸櫓は火の見櫓よりも108mあまり遠くにあります。これを勘案して、補正すると、井戸櫓の高さは、「43.18m」になります。現代で言えば、10階建てのビルと大体同じ高さです。40m以上の高さまで荷を吊り上げることのできるラフタークレーンもあるので、我々の目からは驚くほど高いとは感じないと思いますが、当時はとても目を惹く櫓だったと思います。

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 以上で謎解き終了です。

1. 「資料館ノート 第112号、長屋と人々の暮らし④」、江東区深川江戸資料館、平成27年11月16日
2. 「水の歴史館 わが故郷の打抜師たち」、西条市
3. 「下町文化243号」、2008.9.25発行、江東区
4. 「資料館ノート 第113号」、平成28年1月16日発行、江東区深川資料館


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2017年01月17日

葛飾北斎の謎を追う


 江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎。「富岳三十六景」「北斎漫画」などの代表作で知られる北斎を知らない人はいないのではないかと思います。

葛飾北斎の肖像


 そして、海外でもとても有名な人物です。1999年にアメリカの雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一選ばれたのが葛飾北斎でした(86位)。

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       海外で最も人気のある北斎の「神奈川沖浪裏」 GIFアニメーション版

 北斎のお墓は、浅草の「誓教寺(せいきょうじ)」にあります。
 ぶらりとお墓参りをしたとき、墓前に花が添えられていると、故人の現在における人気のバロメーターのように思えます。

 例えば、2013年11月8日に亡くなった歌手の島倉千代子さん。彼女のお墓は品川の東海寺にあります。長州ファイブの一人、井上勝のお墓の隣にあります。井上のお墓には花1本供えられていないのですが、島倉千代子のお墓にはたくさんの花が供えられていました。

 
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  Photo: なんでも保管庫

 葛飾北斎については、調べている人がたくさんいて驚いてしまいます。
 今回、管理人が『北斎のなぞ』を書くにあたり、他の研究者にはとても太刀打ちできないので、視角を変えることにします。

 このサイトのなぞ解きの記事は、誰も見たことも聞いたこともない新たな説を唱える・・・ことに執着しているのですが、なかなか思い通りにはなりません。

 管理人が北斎についての様々な情報に触れて感じたことは、北斎がなぜ長寿だったのか、という極めて素朴な疑問に誰も答えを持っていないということでした。書かれている内容は、とても"なおざり"。知識としての情報しか持っていない人たちの書き方のように感じました。

 そこで本記事は、葛飾北斎がなぜ長生きをしたのか、という視点で書いていきたいと思います。
 記述は、「葛飾北斎伝」(飯島虚心著、1893)をベースとします。その理由は後ほど出てきます。

北斎の生まれは?

 北斎は、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉に生まれました。他の資料では、『江戸本所割下水の百姓・川村某の子として生まれる。幼名は時太郎。四、五歳の頃、本所松坂町に住む幕府御用鏡師・中島伊勢の養子となる。』というような記述も見受けられます。これがおかしいことは直ぐに分かります。

 宝暦10年に江戸本所割下水という場所に百姓の川村氏が住んでいたのでしょうか? そもそもその場所は、現在の住所でいうとどこにあたるのでしょうか?

 北斎生誕の地とされている「江戸本所割下水」は、東京都墨田区亀沢2丁目15−10。現地に「北斎生誕の地」という案内柱が立っています。

 ここを目印にGoogle Earthで幕末、1858年の古地図を重ね合わせてみると、そこには武家屋敷が並んでいます。昔は、武士・寺の区域と町民の住む区域は明確に区分けされていました。ここは『百姓の川村氏』が住める場所ではないようです。この百姓の子や養子の話は、北斎の孫娘白井多知女の遺書に依っているのですが、間違っているように思います。

北斎生誕の地 1858年古地図
  Source: Google Earth

北斎生誕の地 1858年古地図拡大
  Source: Google Earth

 「葛飾北斎伝」には、北斎の出自について次のように書かれています。

 父は、徳川家用達の鏡師であった中島伊勢、母は、吉良上野介の家臣で、赤穂義士の討ち入りの際に討ち死にした小林平八郎の孫にあたる人なのだそうです。北斎自身が自らの出自をそのように話していたとか。

 そもそも、百姓の子供が武家に養子に入るなどあり得ない。神童といわれるような、とりわけ聡明な子供ならばあり得るかも知れませんが、養子に出たのが4、5歳ということなので、この線はない。北斎の長男は旗本の家に養子に出ているので、やはり、北斎は武家の出身と見るのが妥当なように思います。「葛飾北斎伝」では、北斎の母は、吉良上野介の孫娘であったという説があることも紹介しています。

 面白いことに、他の説で出てくる養子先である本所松坂町の家があった場所は、吉良上野介が討ち取られた正にその屋敷があった場所。どちらの説が正しいかは分かりませんが、忠臣蔵との関係が深そうです。

北斎はなぜ長生きできたのか

 葛飾北斎は88歳の天寿を全うしました。亡くなったのは、1849年5月10日(嘉永2年4月18日)のこと。数えでは90歳。江戸時代後期に88歳まで生きたのですから、かなり長寿だったと言えます。

 弘化3年閏5月10日生まれの皇女和宮は、この時3歳でした。幕末については、和宮を中心に考えるのが管理人のスタイルです。

 管理人の最初の疑問は、北斎はなぜ長生きできたのかということ。というのは、北斎の生活はお世辞にも健康的であったとは言えないからです。

 家の中はゴミだらけ。ゴミが溜まると引越。これを繰り返し、生涯で93回も引っ越ししたことは有名な話です。さらに、食事は出前をとっていたとか、よそから頂いた生魚は調理が面倒なので誰かにあげた、布団に入ったままで絵を描き、眠くなったらそのまま寝た、など長寿とは無縁の暮らしぶりだったようです。

露木為一「北斎仮宅之図」
          お栄(応為)と北斎、露木為一「北斎仮宅之図」

 北斎は酒・タバコはやらなかったそうですが、健康的な情報はこれだけ。どう考えても、同世代の人たちよりも長生きしそうにありません。同居していた出戻り娘のお栄はタバコを吸っていました。北斎にとっては間接喫煙していたことになります。でも、北斎が肺の病に罹ることはなかったようです。

 管理人と同じ疑問を持った方が『Yahoo!知恵袋』に質問していました。その回答を参考に見てみましょう。この手の話題にとても詳しい方がたくさんいます。

 質問 「葛飾北斎はかなり長命でしたが、なにか特別な食事か療養をしていたのでしょうか?」(Yahoo!知恵袋

 回答 「着ている着物はボロボロ、まともに掃除もしないため部屋はゴミや埃や塵だらけ(部屋が汚れるたびに引っ越ししたという。引っ越し回数は生涯に93回。ただ70代半ばでも56回というので、死ぬまでの約15年で40回近く引っ越ししたことになる)、買ってきた食べ物も皿にもらず、箸も使わず手でつまみ、食べたものは散らかしたままという、まあ不潔極まりない状態で生活していたこと。
 生活は赤貧そのもので、版元にも借金を申し込み(そのくせ金には無頓着)、70代では素行の悪い孫には手を焼くなど、私生活も決していいという状態ではない、普通ならとても90歳まで生きられる状態ではありませんでした。
 ただ不潔極まりない生活をしていた北斎も、健康には気を使っていたようです。
 絵師の河鍋暁斎によると、北斎は酒もたばこも一切やらず、お茶も上等なものは好まなかったといいます。食事には全く気を使わず、娘の阿栄が買ってきたものや、人から貰ったものを食べる程度でした。ただお菓子だけは大好物でしたが。
 そのくせ薬は自分で作っていました。70歳手前で脳卒中に襲われた時は、自分で中国の医学書を調べ、ユズを煮込んで作った漢方薬で治療したといい、またリュウガンを乾燥させたものと砂糖、焼酎を混ぜたオリジナルの「長寿の薬」というものもあり、これを朝晩2回服用してたため、そのため晩年も健康であったといわれます。」("jasonkodai2199"さんのベストアンサーを引用)

 上の文中で「阿栄」とは「お栄(葛飾応為)」のことですね。北斎の生活を見ていると、とても長生きできるようには思えません。酒やタバコはやらなかったとしても、このような生活、そして食事では長生きできるとは思えません。でも、北斎は88歳まで生きました。

 管理人がこのことにこだわる理由は、もし北斎が68歳の時に患った中風(脳溢血)で死んでいたら、これほど有名にはならなかったと思うからです。代表作である錦絵『富嶽三十六景』が描かれたのは北斎が72歳の時です。そして、75歳の時に絵本『富嶽百景』、『絵本忠経』が刊行されています。

 幕末・明治維新の歴史を見ていると、結局、長生きした人が他の人の手柄を総取りにしている、という構図が見えてきます。北斎の場合はなんと言ってもその圧倒的な数の作品数。やはり、長生きが名を残す秘訣のようです。

 生涯現役の絵師。北斎の人生は、現代人にとってもうらやましいと感じてしまう。高齢化社会の現在、北斎の長寿の秘訣こそ、大きな謎なのではないでしょうか。現代の健康法に従えば、長寿などあり得ない生活を続けていた北斎がなぜ長命だったのか。不思議ですよね。

 なぜ、北斎は健康だったのか? 『Yahoo!知恵袋』の回答を読んでもその答えは見つからない。確かに、この回答はよく書けていると思いますが、少なくとも、管理人の疑問の答えにはなっていないと思います。

 北斎の長寿の根源はもっと別のところにありそうです。

食事とゴミ屋敷のなぞ

 長寿の理由としてまず着目べき点は「食事」でしょう。

 北斎は、料理は買ってきたり、もらったりしており、自分では作りませんでした。

 料理もせずにゴミ屋敷? でも、奥さんがいたはずです。
 この辺の情報が怪しいことが分かります。

 北斎の後妻"こと女"が亡くなったのは、北斎が中風を患った翌年(1828年7月4日)のことで、この時、北斎は68歳でした。それ以降も娘のお栄が同居していました。このような状況で、料理もせず、家の中は『ゴミ屋敷』だったとはとても考えられない。もし、『ゴミ屋敷』だったことが真実ならば、"こと女"もお栄も、北斎に負けず劣らず考えられないほどの『変人』だったことになります。まあ、お栄は変人だったようですが。

 このため、管理人は『ゴミ屋敷』であったというのは都市伝説だと考えます。確かに、その現場を見た人物がいたのでしょう。その記録を軽視するつもりはありません。でも、北斎はたびたび転居しており、"こと女"が北斎と一緒に同じタイミングで転居していたとは、管理人には思えないのです。引越にタイムラグがあったのではないか? 北斎だけが先に転居し、そこを訪れた人物が「ゴミ屋敷」と感じた。そんな気がします。

 たいして大きくない長屋です。余程ずぼらな奥さんでもそれなりに片付けるのではないでしょうか。
 ある場面を見た人の言動がそのまま北斎の人生全体のことであるかのように曲解されていると、管理人は考えます。

 ここで、再度書きますが、管理人の関心は、北斎の長寿の秘訣。北斎が不衛生な生活をしていたという根拠はどこにもないように思います。ボロを着ているのと不衛生は違います。書き損じの紙があちらこちらに散らばっているのと不衛生とは違います。先行研究を読むと、ここら辺を混同しているように思います。

  Wikipediaで「料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置した。土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した」という記述があります。

 このような記述からゴミ屋敷が連想されるようです。でも、ゴミ屋敷の住民が長寿とはとても考えられない。情報が間違っているのです。ひとつひとつの情報は正しいのかも知れませんが、それぞれの状況説明を無視して、それをつなぎ合わせた時点で間違いが生じているように感じます。

 そもそも長屋は6畳のスペースしかありません。そこに、台所と土間で1.5畳。住居スペースは4.5畳。ゴミが溜まったから引越を繰り返した、という主張は腑に落ちません。「ゴミが散乱」と「引越93回」という伝聞をつなぎ合わせて誰かが創作したもののように思います。

葛飾北斎が作った脳卒中の薬を作ってみる
 
 北斎が68歳の時、脳卒中で倒れます。その時、自分で作った薬『そつちうのくすり』を飲んで完治し、その後はますます精力的に作品作りに励むことになります。

 北斎が作った『卒中の薬(そつちうのくすり)』とはどんなものだったのでしょうか。そんな良いものがあるのなら、是非飲んでみたい!

歌川国芳の団扇絵「名酒揃 志ら玉」改変「卒中の薬」
 元絵は歌川国芳、団扇絵「名酒揃 志ら玉」

 そこで、早速作ってみました(笑)。

 まずは、作り方を調べます。これは飯島虚心の『葛飾北斎伝』上巻の50ページから51ページにかけて書かれています。

『そつちうのくすりの事 
 二十四時(とき)たたざる内に用ゐる 二十四時半時かけてもききます。
極上々の酒壹合 ゆず一ツ こまかにきざみ、どなべにてしずかに、につめ、水あめくらいににつめ、さゆにて二度くらいにもちゆる。たねは につめた上にて とりすて候。』

 図には、
 ○ゆず 
 ○こまかにきざみ 
 ○竹へらにてきざみ候、鉋丁、小刀、鉄胴の類はきらひ申候
 ○鍋 鉄銅は、きらひ申候

Sotchuunokusuri-01.png
 Source: 『葛飾北斎伝』上巻 pp.57-58、国立国会図書館デジタルコレクション より作成

 原文は読みにくいので、現代語訳すると以下のようになります。時間は不定時法。
 『卒中の薬のこと
 二日以内に服用。その後でも効く。
 材料は、柚子1個、特上の純米酒1合。柚子を刻み、土鍋に入れて静かに煮詰め、水飴くらいになるまで煮詰める。これを白湯に入れ、一日二度ほど服用。
 作るときの注意として、柚子の成分が鉄や銅を嫌うので、柚子を切るときは竹へらを用いる。』

 レシピが分かったので作ってみます。

【材料】
 柚子 2個
 純米酒 180cc(1合)
 水 3カップ

【作り方】
  • 柚子をきれいに洗い、水気を拭き取る。
  • 竹ナイフがないので、柚子の皮を手で細かくちぎって土鍋に投入
  • 日本酒を入れて、弱火で30分煮る。
  • すると、酒がほとんど蒸発するので、そこに、水3カップを加え、1時間半弱火でコトコト煮る。


 北斎のレシピでは水のことは書いていないのですが、水を入れないと長時間煮ることができないので加えました。2時間煮た柚子がこちら。自家製の『葛飾北斎レシピによる卒中の薬』です。これで脳卒中の心配ともおさらばです。

北斎の卒中の薬


 味見してみたら、「・・・・」。砂糖が入っていないので、美味しいはずがありません。しかし、長時間の加熱により柚子の酸味はかなり飛んでいます。問題は、柚子の皮に含まれる苦み、というか"えぐみ"。

 これを美味しく飲むには、日本酒にこの液体を小さじ一杯入れて、・・・、(日本酒好きの管理人の発想です)。氷砂糖を入れても良いかも。また、できあがったシロップをホワイトリカー35度に漬け込むのも良さそうです。でも、グビグビ飲んでしまいそうで怖い!

 北斎が中風を患ったのは1827年(文政10年)、68歳の時。では、何月に発病したのでしょうか。記録はないのですが、『柚子』がヒントになります。柚子が市場に出回るのは10~12月のみ。北斎が罹患したのはこの時期だったことが分かります。

 レシピを見て気づいたのですが、このレシピのままだと柚子が出回る10月から12月頃しかこの薬を作れないことになる。脳卒中はいつ発病するか分からないので、やはり焼酎漬けが良いように思います。

 やっと半分書き終えたのでアップします。

 「葛飾北斎伝」を原書で読んでいるので、執筆がなかなか進まない。
 実は、全体版で執筆していたのですが、書き終わらないので、前半部分だけ切り離してアップすることにしました。残りの部分は、このまま、この記事に追記します。この記述が消えた時点が最終稿です。

 記事の後半部分に使う画像をアップします。北斎ファンなら、この画像がなんなのかは分かるはず。そして、その意味することとは?

男浪・女浪の秘密
     男浪・女浪の秘密



1. 「北斎絵事典【完全版】」、永田生慈、東京美術
2. 「葛飾北斎伝」、飯島虚心著・鈴木重三校注 、岩波書店、1999
3. 『葛飾北斎伝』上巻・下巻、飯島半十郎 著、蓬枢閣、1893、国立国会図書館デジタルコレクション
4.  http://www.boston-japonisme.jp/japonisme/hokusai.html
5. 「飯島半十郎の生涯と思想」(その一)~(その三)、小林恵子、国立音楽大学、1999
6. 『北斎の七つのナゾ』、中右 瑛、里文出版、2002

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2016年11月11日

『聖ヨゼフの螺旋階段の謎』に終止符


 『ロレットチャペルの螺旋階段』のことをご存じでしょうか。『聖ヨゼフの螺旋階段』とも呼ばれるようです。この階段は、現代の技術では再現不可能な奇妙な螺旋階段として有名です。

 果たしてそれは本当でしょうか。
 今日は、この謎に迫りたいと思います。

ロレット礼拝堂(ロレット・チャペル)とは

 今回の謎は、アメリカのニューメキシコ州サンタフェ市内にあるロレット礼拝堂(チャペル)(Loretto Chapel)に設置されている130年以上前に造られた螺旋階段です。ゴシック様式の礼拝堂が完成したのは1878年のこと。この年、岩倉使節団がアメリカを訪れています。

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Loretto Chapel


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奇跡の螺旋階段、Photo: Butler Cain


 アメリカ観光に行ったことのある人でもニューメキシコ州までは行くことはあまりないように思います。サンタフェ(Santa Fe)は同州の州都ですが、人口は6万人程度。宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』が撮影された場所でもあります。

 この小さな市に毎年25万人も押し寄せる観光客のお目当ての1つがロレット礼拝堂の螺旋階段を見ることです。



 ロレット礼拝堂は初期のカトリック教会の一部でしたが、現在は売却され博物館及び結婚式の際に使われています。この礼拝堂は『支柱のない奇妙な螺旋階段』で知られています。階段は360度を完全に2回転して昇るこの不思議な螺旋階段の構造は、とても不安定に見えるのですが、人が20人乗っても落ちない。

 階段の建築に接着剤や鉄釘は一切使われていないとされています。ただし、木製のペグ(木釘)は使われているそうです。

 さらに不思議なことに、この精巧な螺旋階段を誰が造ったのかはわかっていません。

ロレット礼拝堂の螺旋階段の謎とは

 1872年、サンタフェの大司教区のジャン・バプチスト・ラミー(Jean Baptiste Lamy)が修道院礼拝堂を建設することとし、ロレット修道女会がその担当者になりました。

 ロレット修道女会がサンタフェにやってきたのは1852年のこと。翌1853年に「私たちの聖母のためのアカデミーAcademy of Our Lady of Light (Loretto)」を開設しました。当初の生徒数は約300人程度の小さな学校からの始まりでしたが、次第に成長していきました。学校の敷地には10の建物が建てられました。そして、礼拝堂が必要となります。

 礼拝堂の建設は1873年に始まり、1878年に完成しました。ところが、礼拝堂の建設が終わりに近づいたとき、二階の聖歌隊席に行くための階段がないことに気づきます。1877年のことです。礼拝堂の設計者アントワン・ムリー(Antoine Mouly)が急死したことが原因とされています。彼は、同時期に建設されていた『聖フランシスコ大聖堂』(建設期間:1869-1886)を造るために大司教ラミーにより招聘されたフランス人の建築家でした。この大聖堂は、ロレット礼拝堂の直ぐ近くに位置しています。

Loretto Chapel location Map
Source: Google Map


 礼拝堂は既に完成間近で、設計を変更して階段を付けるにも小さな礼拝堂にはそのためのスペースを確保できないことが分かりました。小説家でも書かないような設定ですが、真実は小説よりも奇なり・・です。

 ハシゴを使って二階まで昇るという案も出されますが、修道女たちによりそのアイディアは却下されます。ワンピースのような修道服を着る修道女たちにとって、ハシゴを使って聖歌隊席まで昇るという案は受け入れられなかったのです。まあ、修道女会の礼拝堂なので、ミサへの出席者は女性だけだと思いますが、・・・。だから、この案は却下されたのかも。

 修道女たちの服装は下の写真のようなものでした。この写真はサンタフェではないのですが、同じ修道女会です。カラー写真にしてみました。

Sisters_of_Loretto_Callege.jpg
Sisters of Loretto Callege

 困り果てたロレット修道女会の修道女たちは、9日間、(大工だった)聖ヨゼフに解決策を祈願しました。苦しいときの神頼みです。そして、お祈りの最終日、ロバを連れた一人の老人が現れ、自分ならば造れると言いました。

 そこで女子修道院長は、この老人に梯子の建設を依頼しました。
 この老人が持っていたのは、カナヅチとノコギリ、T定規などのわずかな大工道具だけ。修道女が作業場を覗くと、そこには木材を浸した桶とバスタブのようなものがありました。

 都市伝説では、この大工は作業を引き受ける条件として作業場を覗かないことを申し出ます。謎を少しでも多くしようとする都市伝説ねつ造者のいつもの手口です。

 3ヶ月後に螺旋階段が完成すると、老人は修道女会が申し出た謝礼も受け取らず、いずこともなく旅立ったのでした。このため、この螺旋階段を誰が造ったのかは、今も分かっていません。

 この「3ヶ月」というのは怪しい情報で、6~8ヶ月という情報もあります。つまり、階段建設期間についての記録が残っていない。木材を螺旋状に曲げていく作業が必要なので、実際にはもっと時間がかかったはずです。別の資料には、この螺旋階段の建設期間を1877年から1881年までのいつかとしているものもあります。

 完成当時の螺旋階段には手すりがなく、階段を上るたびに揺れて怖いということで、建設されてから10年後の1887年に手すりが付けられました。

 完成以来、近年までこの螺旋階段は使われ続けたにもかかわらず、びくともしません。

 聖歌隊の少女達が20人くらいこの螺旋階段に乗っている画像が残されています。見かけによらずとても堅固な造りのようです。

Botched_Spiral_Staircase4G.jpg


 また、YouTubeにアップされているテレビ番組の動画で、レポーターが階段の上から降りていくシーンがあるのですが、全く揺れません。この点は着目する価値があります。



『聖ヨゼフの螺旋階段の謎』とは?

 巷では、この螺旋階段は支柱がないのになぜ落ちないのか、どうやって造ったのか、ということが謎とされているようです。

 たしかに、支柱のない螺旋階段は見たことがありません。しかも、360度を二回まわる階段で、外見上とても不安定に見えます。

 それを良いことに、「建築の専門家が現在の技術でも建造は不可能」と言っている、というデマを流している人たちがいます。この手の謎に必ず登場する『専門家の話では』というワンパターンです。

 これが嘘っぱちなのは下の写真を見れば分かります。『聖ヨゼフの螺旋階段』と構造的には同じ造りです。『専門家』の話というのが本当だったとしたら、その専門家のレベルがとても低いということでしょう。現在では、螺旋階段を設計するソフトをネット上で購入できます。

 つまり、この程度の階段は、専門家は簡単に造ることができると言うことです。

black-starcase.jpg


螺旋階段6.jpg


 
Botched_Spiral_Staircase_01.jpg


Botched_Spiral_Staircase_04.jpg


どうやって造ったのか

 上で、『簡単に造れる』と書きましたが、それは、現在の部材を使ってのこと。管理人が見てもこの螺旋階段は不思議な構造です。

 何が不思議かというと、階段自体の自重とそれに乗る人の体重をどこで支持しているのかが分からないこと。

 最初にこの螺旋階段の写真を見たとき、さらに、「揺れて怖いので、後になって手すりを付けた」という記述を目にしたとき、螺旋階段を支える最上部の構造はヒンジになっているのではないかと思いました。

 この構造体がスプリング構造と推測した「専門家?」もこの記述に依っているのでしょう。

 管理人もそうかもと思った理由の1つは、下の写真です。この写真は、「手すりを設置する前の写真」とされているのですが、実際には、合成写真でしょう。19世紀末、カラー写真があるはずもないので。

 管理人が特に気になったのは、写真に写っている螺旋階段の最上部の構造です。素人がイメージ写真を作るだけならこの部分にはこだわらない筈。これは何だろう?

Botched_Spiral_Staircase2.jpg
Photo: "The One Truth"


 この写真は、手すりを付ける前のオリジナルのイメージ写真として作成されたもののようです。しかし、上部の構造がとても気になりました。上部の接合部が「ヒンジ構造」ではないかと思ったのは、この写真と、「揺れて怖い」という記述からでした。

 ところが、YouTubeの動画を見ると全く揺れません。これは、螺旋階段と二階部分の床とが完全に結合されていることを示しています。すると、この螺旋階段の構造が何となく分かります。

どうやって造ったのか

 螺旋階段の底面を見ると、綺麗にカーブしています。また、階段の側面を見ても綺麗にカーブしているのが分かります。

 これはどうやって造ったのでしょうか。

 管理人が考えるには、薄い板を曲げて、それと同じ物を複数枚作り、それらを接着剤(ニカワなど)でくっつけたのではないかと考えました。合板は1860代にフランスで開発されたようです。

 どうやって造ったのか。頭で考えていても立体構造はイメージするのが難しいので、模型を造ってみます。

 この螺旋階段の高さは、22フィート(6.76m)。ステップは33段です。最後の1段は二階への上がり部分なので、螺旋階段本体のステップの数は32段になります。1段の高さ(けあげ)は21cmです。

 段ボール箱で試して見ます。
 まず、CDを使って型を取ります。

螺旋階段3.jpg


 ところが、これだと曲がらない。そこで、幅を小さくカットします。

螺旋階段4.jpg


 これを二階部分の床に固定します。そして、一階部分の床にも固定。

螺旋階段5.jpg


 このモデルでは、手近にあった箱を使ったので、高さが足りないのですが、雰囲気は分かると思います(汗)。

螺旋階段 模型1


螺旋階段 模型2


 このモデルでは、螺旋階段そのものではなく、背骨に相当する部分、船で言えば『竜骨(キール)』を表現しています。これを最上部で聖歌隊席の床と完全に結合しなければ、この構造では荷重を支えることは不可能です。

 この背骨部分に踏み板を載せ、その両側を板ではさむ構造なのではないでしょうか。この両側の板はかなりの厚さがあるようです。後付けで手すりを付けることができるほどに。

 背骨にあたる部分の構造は下のようになっているのではないでしょうか。360度を2周する螺旋構造では、側板だけでは荷重を支持できないように思います。

Loretto-Chapel-Staircase006.jpg


 木を曲げて螺旋状に階段を作る工程は下の動画が参考になりそうです。特殊な器具は使いません。木材を固定する工具としてクランプを使っていますが、これは18世紀後半には既に建築分野で使われていた工具です。

Source: YouTube "Custom Spiral Staircases by Zane Smith"

誰が造ったのか

 この螺旋階段を誰が造ったかを16年以上にわたり調べている方もいるようです。
 それによると、螺旋階段の製作者は、フランス人建築家Francois Jean Russia (Frank Rocha)のようです。

 彼は、1843年9月22日生まれで、1894年12月26日にサンタフェで満51歳で亡くなっています。彼の友人によれば暗殺されたらしい。このこと、さらに、Russiaがロレット礼拝堂階段の製作者であることは、翌1895年1月にサンタフェで発行された新聞の訃報記事で確認できます。

Newspaper_Construction_Chapel.png


 Russia がサンタフェにやってきたのは1881年9月のこと。螺旋階段の製作が1877年頃なので年代があいません。階段製作年について、1881年という説を採用すればピッタリ一致します。彼はサンタフェに着いたばかりなので、彼のことは誰も知らなかった。彼がサンタフェに着いたのは、37歳の時ということになります。老人ではないことが引っかかりますが。

 彼は、螺旋階段をフランスで加工し、それを分解してサンタフェまで運び、ロレット礼拝堂に設置した、と考えている方もいるようです。実際にこれをやるためには、聖歌隊席までの高さを正確に知る必要があります。分解して持ってきた螺旋階段をたまたまこの礼拝堂に取り付けたわけではないことは、正確に360度を2周する構造になっていることからも分かります。(本記述出典については、上のYouTube動画を参照)

追記

 本文中の翻訳を間違えていたようです。修正しました。
 "The sisters"を『姉妹』と訳していたのですが、Wikipediaの"Sisters of Loretto"を見ると、修道女会が正しい訳のようです。1852年、サンタフェの大司教ラミーの要請により、ケンタッキー州のロレット修道女会から7名のシスターがサンタフェに派遣されました。この旅は大変だったようで、コレラによる死者まで出て、一部のシスターはケンタッキー州に戻ったようです。

 この螺旋階段のあるロレット・アカデミーは、1968年に閉鎖され、1971年に民間に売却。現在は、冒頭に書いたように博物館及び結婚式の際に使われており、入場料を取られます。保存のため階段を昇ることはできません。もし、昇れるのなら行ってみる価値がありそうですが。

 以上で、謎解き終了です。
 管理人は、謎は大好きなのですが、根拠のない都市伝説は嫌いです。 

【出典】
 http://www.lorettochapel.com/history.html
 https://www.quora.com/How-do-I-design-a-steel-spiral-staircase
 https://en.wikipedia.org/wiki/Sisters_of_Loretto
 http://devotiontoourlady.com/miraculous-staircase-of-st-joseph.html


posted by ネコ師 at 04:00| Comment(2) | 古代の謎・歴史ヒストリー | 更新情報をチェックする

2016年11月04日

横浜「赤い靴はいてた女の子の像」の謎


 先日、横浜に行ったとき、山下公園に建つ『赤い靴はいてた女の子の像』を見ました。

 野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡『赤い靴』で有名になった女の子。
 この銅像は1979年(昭和54年)に建てられたそうです。

 銅像なので、女の子が履いている靴の色が分からない。
 そこで、カラーバージョンを作ってみました。

red_shoes_girl.gif

 
 この赤い靴を履いていた女の子は実在のモデルがいるらしいのです。

 「1978年(昭和53年)に『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組を北海道テレビで制作・放送した。その後、菊地は、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』(現代評論社刊)を1979年(昭和54年)に発表、この本の記述が「定説」として定着したとされる。」(Wikipedia, 「赤い靴」)。

 ドキュメンタリー番組を制作した菊地寛氏は5年にわたり調査したようです。この定説に対し、「捏造」が含まれているという説を作家の阿井渉介が提唱しました。詳しくは、Wikipediaをご覧下さい。

 日本人の大多数の人々は、『赤い靴』のモデルになったのが「佐野きみ」かどうかなどどうでもよいと感じると思います。それよりも、童謡『赤い靴』の持つ悲しい響きに心を打たれるのではないでしょうか。

 この童謡を聴いて管理人が思うのは『津田梅子』のこと。明治4年に太平洋を渡った5名に幼き女子留学生の一人です。梅子が横浜港から旅立ったときは、わずか6歳でした(船中で直ぐに7歳の誕生日を迎えますが)。

 アメリカで梅子を見た関係者たちは、人形のように幼い梅子に驚いたようです。そりゃあそうでしょう。7歳になったばかりの幼女が親元を離れ異国の地に来たわけですから。世話する側は大変です。彼らがどう思ったのかは容易に想像できます。「梅子の父親津田仙はいかれている」と。

 梅子は津田塾大を創設しますが、それは結果論の話。異国の地アメリカで死んでしまうというリスクも高かったのではないでしょうか。実際、留学した若者たちが留学先で客死するということはよくあったことでした。梅子がアメリカに渡ったのは、赤い靴のみきちゃんが生まれた年より30年も前の話です。

 『赤い靴をはいてた女の子』から、横浜、波止場、異人さん、という要素を取り除くと、当時の貧困層の悲哀に過ぎなくなります。その悲哀は昭和の時代まで続きます。

 こうしてみると、童謡の影響力の大きさを感じてしまいます。しかし、心に残る童謡になるためには、その歌詞に、横浜、波止場、異人さん、という要素が必要だったように思います。
 

posted by ネコ師 at 01:49| Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | 更新情報をチェックする

2016年10月07日

三つのピラミッドの大きさの謎を解明する


 ギザ台地にそびえ立つ三つの巨大なピラミッド。一般には、クフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッドと呼ばれています。

 世界の注目を集めているのが、これらの中で最も巨大なクフ王のピラミッド。不思議なことに、カフラー王、メンカウラー王のピラミッドについては、クフ王の影に隠れてネット上にはほとんど情報がありません。

 そもそも、この三つのピラミッドの大きさはどうやって決められたのでしょうか。
 とても不思議です。何が不思議か。それは、誰もこのことに疑問を呈さないこと。

 【クフ王のピラミッド】
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Source: Ⓒ Nekoshi

 【カフラー王のピラミッド】
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 Source: Ⓒ Nekoshi

 【メンカウラー王のピラミッド】
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 Source: Ⓒ Nekoshi

 【ギザの三大ピラミッド遠景】
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 Source: Ⓒ Nekoshi

クフ王のピラミッドに比べて巷の関心が低い二つのピラミッド


 世間の関心はクフ王のピラミッドがどうやって造られたのかということ。これよりサイズの小さいカフラー王、メンカウラー王のピラミッドが軽視されるのは、最も大きなピラミッドの謎が解ければ、その他のピラミッドの謎も解ける、という思い込みがあるのではないでしょうか。

 最初にクフ王のピラミッドを造り、次に息子のカフラー王、さらにその息子のメンカウラー王のピラミッドが造られた。これって本当なのでしょうか。

 Wikipediaの「ギザの大ピラミッド」というページに建造方法に関わる以下のような記述があります。

 「直線傾斜路説: ピラミッドまで緩い斜面をもつ1本の直線の通路を作り、ソリで石材を引き揚げて建築する方法。斜ピラミッドが高くなるにつれて通路も長くなり、最終的にピラミッドと同じ容積の材料が通路を作るために必要となる欠点が指摘されている。 一方、ピラミッドは高い部分になるにつれ必要な石材の量は減るので、建設が進行すればするほどピラミッドより通路の設置のほうが大変になることになる。斜面の傾斜を5度とするとピラミッドの頂上を作るときには長さ1.6kmの傾斜通路が必要となり、石切り場からピラミッドから逆の方向に1km運んでから直線傾斜通路に乗せることになる。またピラミッドが完成した後に、ピラミッドと同じ体積の石材をつかって作った通路を撤去する必要がある」
 
 この文章は、「直線傾斜路説」を否定するために一般的に言われていることです。読者の方も似たような文章を読んだことがあると思います。

 実は、管理人は、この文章を読んでいて引っかかったことがあります。それは、「最終的にピラミッドと同じ容積の材料が通路を作るために必要となる欠点が指摘されている。」の部分。

 大ピラミッドの建造方法について、これまでにも様々な説が出されています。しかし共通しているのは、「直線傾斜路説」。ピラミッドの建造には「直線傾斜路」が不可欠です。ただし、ピラミッドの上部への石材運搬方法について、「直線傾斜路説」では不都合が出てくるため、これに替わる様々な仮説が提案されています。

 管理人が気になっていたのが、カフラー王とメンカウラー王のピラミッド。大ピラミッドの建造後、これらのピラミッドが順次造られた。それは正しいとして、その意味は全く別の所にあるのではないか。そんなことが頭に浮かびました。

三大ピラミッドは雄大な設計の元に建造された

 三大ピラミッドの配置が夜空に輝くオリオン座の三つ星の配置と同じだということに着目して、ギザの三大ピラミッドはオリオンの三つの星を地上に投影したものだという説が唱えられました。

 下のGIFアニメでも分かるとおり、ギザ台地の三つのピラミッドの配置は、オリオンベルトの三つ星の配置と極めてよく似ています。

Orion_Pyramid.gif


 この説は面白いのですが、オリオン座のうち、三つ星以外の星座が地上に反映されていないなど、都合のよい部分だけ持ってきた説という感じは否めません。この説は、ピラミッドの配置のことだけに終始しているので、この真偽についての考察は他の方に譲ります。
 
 本記事では、この説が正しいと仮定し、壮大なグランドデザイン(全体構想)に基づき、ギザ台地の三大ピラミッドが建造されたという部分に着目したいと思います。

 すると、三つのピラミッドは、最初からその配置も大きさも決められていたと言うことになります。
 もしそうであるのなら、これまでと何が違ってくるのでしょうか。実は、『仮設工事』が違うのですよ。完全に!

仮設工事を考えると見えてくるピラミッドの建造方法

 管理人が以前から気になっていたことは、ピラミッドの建設中に使われた仮設資材は、ピラミッド完成後、どこに運ばれたのかということでした。直線傾斜路に使われた石材は膨大な量です。それは一体どこに行ってしまったのでしょうか。

 冒頭に取りあげたWikipediaの記述を再度確認してみましょう。

 「最終的にピラミッドと同じ容積の材料が通路を作るために必要となる欠点が指摘されている。」

 もし、ピラミッドを一つずつ単独で建造するとすれば、仮設材の処理が大問題になります。しかし、三つのピラミッドを建造することを前提に工事をするのであれば、話が違ってきます。最も重要となるのは、『仮設材の転用計画』ではないでしょうか。

 「仮設」は、建物などを建造するために必要となる仮の施設で、仮設道路、荷揚げ施設、足場、資材運搬機器、作業員宿舎などたくさんの種類がありますが、工事が完成するとそれらはすべて撤去されます。

 撤去された仮設材はどうなるのか。他の現場で再び使います。
 
 大ピラミッドの建造方法として直線傾斜路があり得ない理由として、大ピラミッド建設に必要な石材と同じくらいの石材が仮設道路建設に必要になる。だから、あり得ない。

 管理人には、これは「あり得る」と映ります。何を根拠にあり得ないと主張しているのか理解できません。
 
 三つのピラミッドを造るというグランドデザインに基づき、仮設計画を立てるとどうなるのか。
 
 「クフ王のピラミッド建設で使用した直線傾斜路の石材を、カフラー王のピラミッド建設とそのための直線傾斜路建設に使用する。」

 「カフラー王のピラミッド建設のために直線傾斜路で使用した石材をメンカウラー王のピラミッド建設および直線傾斜路の石材として使用する。」

 例えば、レゴブロックで考えてみましょう。突起が4つある四角いレゴブロックで考えてみます。

レゴブロック


 このレゴブロックが1000個あります。
 このうち、500個を使ってピラミッドを作ります。残りの500個を使ってピラミッドに沿わせて直線傾斜路を作ります。

 次に、この直線傾斜路のレゴを分解し、新たに425個でピラミッドを作ります。残り75個で直線傾斜路を作ります。

 さらに、この直線傾斜路を分解し、65個を使って三つ目のピラミッドを作ります。残り10個で直線傾斜路を作ります。

 最後に、直線傾斜路を分解し、できあがったピラミッドの周りに10個のレゴを配置します。これが三大ピラミッドの周りにある衛星ピラミッドになります。

 仮設用道路の石材を次のピラミッドに転用した。何となく分かったけれど、本当にそんなことが可能なのか。そんな疑問が湧きます。

 ここで、三つのピラミッドの体積に着目します。

三大ピラミッドの設計諸元


 Wikipediaにも載っていた大ピラミッドの体積と同程度の直線傾斜路資材が必要という前提条件で考えます。

 これは、どのように直線傾斜路を設計するかによって必要となる石材量が変わってくるので、このような前提で考えることにします。

slope_Pyramid01.png


 クフ王のピラミッドの体積は 259万m3 です。直線傾斜路石材も加えると 518.6万m3になります。
 これが最初に必要な石材総量です。(上のレゴブロックの例では1000個)

 次に、直線傾斜路を取り壊し、その石材 259万m3 の14.3%、37万個を使って直線傾斜路を造り、残りの85.7%、222万個の石材を使ってピラミッドを造ります。

 さらに、37万個を使って造った直線傾斜路を解体し、そこから24万個の石材を使ってピラミッドを、13万個の石材で直線傾斜路を造ります。

 最後に、直線傾斜路を解体して、使われていた13万個の石材で多数の衛星ピラミッドなどを建造します。
直線傾斜路と石材転用計画


 三つのピラミッドは、なぜあのような大きさになっているのか。
 グランドデザインに基づく仮設計画で、最も効率よく建設工事を行うための最適解がこのピラミッドのサイズだったのではないでしょうか。

 最初に用意した石材だけで、三つのピラミッドを造ることができます。すると、石切場は最初の時だけ使うことになり、二つ目以降のピラミッド建設時には、石切場で働いていた人員をピラミッド建設作業に配置することができます。

 この仮説では、ピラミッドの体積と同程度の量の直線斜路用石材が必要という前提条件を用いています。この前提条件は、直線斜路をピラミッドのどの高さまで使うのかで大きく異なります。しかし、今回の仮説の特徴は、この前提条件の精度ではなく、グランドデザインと工事計画、仮設計画(仮設材の転用計画)とを結びつけた新たな説を提示していることです。


posted by ネコ師 at 01:03| Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | 更新情報をチェックする