2016年03月24日

ネット上で最も有名なのに名前も知られていない「404姉さん」の謎を追う


『404のお姉さん』のことをご存じでしょうか。インターネットの世界で最も知られている女性の一人とされています。ネットサーフィンをする人なら彼女の写真に一度や二度はお目にかかったことがあるでしょう。

iStock Hannah Steller


 しかし、彼女のことはほとんど知られていません。このリュックを背負った姿の写真しか見たことがないという方も多いと思います。そして、彼女が登場するのはリンク切れやドメインが売りに出されているサイトがほとんどです。サイトにたどり着けないときに表示される404エラー("Not Found"(日本語では『未検出』または『見つかりません』))で表示される画面に彼女の写真がとても多く使われています。

 ネット上では、「彼女は誰だ?」というスレッドがたくさんあります。しかし、記載してあるのはわずかな情報だけ。

 この写真について「weblio辞書」に以下のように載っていました。やはりとても有名なようです。
 「404ねーちゃん
  読み方:よんまるよんねーちゃん
  別表記:404姉ちゃん、404ねえちゃん、404姉さん
  インターネットで、ドメインの有効期限切れにより「404エラー」が起こった際に表示されることが多い、リュックを背負って笑みを浮かべている外国人女性の俗称。世界的によく知られており、英語圏では「Parked Domain Girl(ドメイン切れの少女)」などの俗称で呼ばれている。彼女の名前はハンナといい、写真家のダスティン・ステラーの妹であることが判明している。 (「weblio辞書」)

 彼女の写真は、パロディに使われたり、Tシャツに使われたりと、今もなお絶大な人気を誇っています。

T-shirt Hannah Steller


 彼女のことが少し気になったので、もう少し詳しく調べてみました。たぶん、本記事が世界中で一番詳しく彼女のことを紹介していると思います。英語版のさまざまなサイトよりも遙かに詳しくご紹介します。

 アンケート調査によると、男性の76%は、リュック少女が好きなのだそうです。大きなリュックのせいで華奢に見えるという効果もあるらしい。シルエットがかわいい、初々しさがかわいい、アクティブな感じがかわいい、そもそも合理的など、肯定的な意見が大勢を占めます。

Parked Domain Girlとは誰?


 彼女の名前は、ハンナ・ステラー(Hannah Steller)。米国ミズーリ州カンザスシティの生まれです。問題の写真撮影当時(2005年)は17歳くらいだったのではないでしょうか。すると、1988年生まれになり、現在、28歳になります。

 ハンナは5人兄妹の真ん中で、長兄がダスティン・ステラー(Dustin Steller)。ハンナの写真を撮影したカメラマンです。

 ダスティン・ステラーのサイト("steller photography")やflickr("My Family")、"iStock.: dsteller"、"Model Mayhem"などで、ハンナの写真がたくさん公開されています。関心のある方はリンクからご覧下さい。ハンナはとても魅力的な女性です。バックパック姿とはひと味違う写真がたくさんあります。

 ハンナは、2009年に結婚しており、2010年3月にはニューヨークに在住。夫のカイル(Kyle)はシェフで、ハンナとの結婚後ハワイに引っ越しますが、後に彼女の生まれ故郷カンザスシティに戻ってきます。現在は不明です。

 世界に売り出したいと思っている有名人願望の人もいるとは思いますが、売り出し方に問題があると良い結果にはなりません。

 ハンナの場合は、世界中でとても有名にもかかわらず、その写真の使われ方が404エラーというサイト訪問者にとって期待外れの画面に使われていることから、訪問者は彼女に対してあまり良い印象を持たないようです。

 兄のダスティン・ステラーは、カンザスシティで活動しているカメラマンで、ヌードの撮影は行わないことをポリシーとしており、結婚式などのアットホームな写真を多く手がけているようです。ダスティンの写真はとても暖かみを感じさせ、管理人は好きです。

 ダスティンが写真家として最初のモデルにしたのが妹のハンナでした。この頃に撮したのが問題の写真のようです。2005年8月、彼は「iStockphoto」に当時高校生だった妹の写真をアップロードします。その写真を購入したのが「parked domain company」でした。この会社が関連するサイトでこの写真が大々的に使われ、拡散していくことになります。これが彼女の写真が"parked domain girl"と呼ばれるゆえんです。したがって、"parked domain girl"を直訳しても意味がないことが分かります。会社の名前なので。この写真のロイヤルティとして彼が手に入れたお金は、わずか60セントだったそうです。

他にもある一連の写真


 このリュックを背負ったハンナの写真は1枚だけではなく、一連の写真が何枚か存在します。
 管理人が見つけたのは下の14枚の写真です。この子、可愛いです。

List of Hannah's photos


撮影場所はどこか?


 この写真が撮影された場所はカンザスシティのユニティ・ビレッジ(Unity Village, in the Kansas City)です。大学かと思ったのですが違いました。このビレッジ全体が宗教施設になっているようです。ダスティンも大学のキャンパスではありませんと書いています。背景奥に見える塔のような建物がユニティ・ビレッジ・タワー(Unity Village Tower)です。

Unity Village Tower


  Source: Google Street view

 このユニティ・ビレッジ・タワーは、1927年に貯水タンクとして建造された建物です。

 当時、この村は水不足で苦しんでいました。井戸を掘れば、出てくるのは石油とガスだけという状況でした。そこで、ダムを造り、その貯水湖から水を引くことになりました。問題は、ダムから引いた水をどうやって配水するかということでした。そこで、ダム取水位置との高低差50mを活かした貯水タンクを建造することになりました。その2年後の1929年、高さ50mのユニティ・ビレッジ・タワーが完成します。タワーの中には、郵便局、信用組合やテレビ・ラジオ局などのオフィスが置かれました。

 2011年に大規模な補強・改修工事が行われきれいに整備されました。アメリカ合衆国国家歴史登録財(National Register of Historic Places)に登録されている歴史的な建造物です。

そもそもユニティ・ビレッジって何だろう?


 ところで、そもそもユニティ・ビレッジって何だろう? という疑問が湧いてきました。ここはとてもきれいな場所です。写真の撮影場所としても最適な環境にあると思います。

 そこで、さらに深追いしてみます。 

 1889年、チャールズ・フィルモア(Charles Fillmore)とその妻マートル・フィルモア(Myrtle Fillmore)がユニティ教会を創建しています。神秘的精神活動により彼が子供の頃に負った怪我のために不自由だった足が治ったことや、妻の結核が完治したことなどが大きく影響したようです。

 1919年、彼らはカンザス・シティに55エーカーの土地を購入しました。そこを宗教活動の拠点とします。それがユニティ・ビレッジです。

 彼らには二人の息子がいました。ローウェル・ペイジ・フィルモア(Lowell Page Fillmore)とウォルド・リッカート・フィルモア(Waldo Rickert Fillmore)です。タワーの計画を遂行したのは、次男のリカートのようです。

 この場所については、下の動画がよくまとまっていると思います。
 
Youtube: Unity Village - A Celebration & History

 404の娘さんを追いかけるうちに、ユニティなる宗教団体にたどり着きました。この団体のことは日本ではほとんど知られていませんが、ハワイで挙式する時、よく使われる教会がユニティ教会です。

あとがき


 全くの余談ですが、ハンナのことを追い求めて丸一日を費やしました。彼女の情報がほとんどないため、この記事をまとめるのにかなり手間取りました。ネット上にある彼女の写真はほぼすべて見たと思います。そこで感じたのが、以前ご紹介したユーチューバーとして活躍しているアメリカの女性バイオリニスト、テイラー・デイビス(Taylor Davis)と容姿がとてもよく似ているということ。


Hannah Steller

 テイラーは、ハンナの生まれたミズーリ州の隣のイリノイ州ウェスタン・スプリングスの生まれです。どちらの女性も背が低く、がっちりした体格で、顔つきも女性としてはゴツい感じがします。

 テイラーは1987年生まれなので、ハンナと同じくらいの年齢です。

 アメリカの田舎娘にはこのような顔つき、体つきの子がたくさんいるのでしょう。美人かどうかはともかくとして、管理人としては、テイラーもハンナも好みのタイプかも。好みの範囲がとても広いので。二人は意外に親戚だったりして。


【References】
"steller photography"
"Letter: Dustin Steller to Parker"
"Quora"
"Unity Village"
"Unity, History of Unity"
"iStock-Hannah Steller"

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2016年03月03日

ボリビアの秘境プレ・インカ遺跡で撮影した不思議な写真と動画


 以前、アップした『プレ・インカ遺跡で撮影した不思議な写真』という記事。

 不思議な写真って、ネット上にたくさん出回っていますが、ほとんどがフェイクか出所不明の写真ばかりです。

 でも、上で公開した写真は、管理人が撮影したものなので、出所は確かなものです。撮影場所も撮影日時も正確に分かります。

 先日、パソコンの中を探索していたら、この「不思議な写真」の動画版を見つけました。記憶の片隅にも残っていない動画です。写真を撮影したことは覚えているのですが、動画を撮影した記憶はなかったので驚きました。撮影して以降、一度も再生しなかった動画ということです。

 カメラで撮影した動画です。ファイルが何本かありましたので、つなげてYoutubeにアップしました。
 日本人がまず行くことはない場所で撮影したものなので貴重な映像だと思います。とても不思議な写真と動画なので、是非ご覧ください。高画質版なので、フルスクリーンでお楽しみください。



撮影場所


 写真およびビデオを撮影した場所は、ボリビアの(憲法上の)首都スクレ市から車で1時間半ほど西に走ったところにあるトゥンペカ(Tumpeka)という集落の近くです。

GoogleEarth_InkaMachay1.jpg
 Source:Google Earth

 ここにはインカ時代より以前の遺跡、プレインカの遺跡があります。
 現地に行っても地形が険しいため、自分がどこにいるのか分からなくなることから、GPSを使って位置を計測しました。

 プレインカの遺跡『Inka Machay』で計測した座標をGoogle Earthで表示したものが下の画像です。この位置で写真を撮影しました。その下の白い矢印「Mysterious Rock」の位置が、今回の奇岩(Mysterious Rock)の場所になります。その座標は下のようになります。

 Mysterious Rock座標:  18°57'23.19"S  65°25'33.53"W

Location_Mysterious_rock.jpg
    Source: Google Earth

撮影状況


 この写真は、偶然撮影したと思っていたのですが、動画もあるので、意識的に撮影したもののようです。よく覚えていません。この遺跡Inka Machayには二度行っています。たぶん、一度目に偶然、奇妙なものが写真に写っていたので、二度目にはしっかり撮影したのではないかと思うのですが、何しろ覚えていないので何とも言えません。

インカ・マチャイの謎の岩絵


 動画の後半にでてくるのがインカ・マチャイ(Inka Machay)の岩絵です。とても魅力的なデザインで気に入っています。
 誰がこの岩絵を残したのかは分かっていません。インカ時代より以前の記録は残されていないのです。

Dibujo pintura de Inka Machay


 Luis F. Ticonipa氏の描いたクロッキーが残されています。この岩絵は、いったい何を描いたものなのでしょうか。

 興味を引くのは、真ん中を境にして、左右の人間の描き方が異なっていること。つまり、異なる部族を描いているように見えます。では、戦争か? しかし、弓矢を持っているのは一番右側に描かれている1人だけ。どうも戦争の場面ではないようです。

 人間のラインで下に突き抜けている絵と突き抜けていない絵があります。これは性別を表したものでしょう。そうだとすると、右側は圧倒的に女性が多い。王さまの婚姻の場面なのかもしれません。

 シンプルな絵ですが、とても魅力的で、そして、暗示的でもあります。見る人に訴えかけるような迫力があります。「こんなに、はっきりと区別して描いているのにおまえは何が描いてあるのか理解できないというのか」と叱られるような気がします。一つ一つの絵が意味を持っている、そんな規則性のある描き方です。

 真ん中の猫のような絵が特徴的で、このデザインがスクレのお土産などにも使われています。

Inka Machay pintura

 

ワニの形をした巨大な奇岩


 このインカ・マチャイ遺跡から見下ろした場所にある奇岩。この遺跡まで登る道沿いにあります。しかし、歩いていても気がつかない。というか、それどころではないという感じです。この地点の標高は3400m以上あり、息苦しい。

 この遺跡は、トレッキングコースになっています。Google Earthに画像を貼り付けている方もいます。でも、貼り付け位置が間違っている。現地ではGPSがない限り場所を地形から特定するのはとても難しいです。動画を見て分かるように地形が急峻で、沢を1本間違えたためにもう一度登り直しということになります(実際、そんな羽目に陥りました)。

Inka_caiman2.jpg


Inka_caiman1.jpg


 トレッキングコースは、上の方から降りてくるルートなので、問題の岩は通りません。管理人は、下から上るコースをとったので、この大岩の脇を通過しました。

 この岩はとても大きく、登山道に迫るようにそびえています。登山道からはワニの形には見えません。

不可解な蓋石


 動画の中で割れた岩が乗っているシーンがあります。この岩もとても不思議です。土台となっている岩の上部は明らかに水で浸食されています。しかし、蓋のような大岩で覆われているため、この部分が水で大きく浸食されるはずがありません。それに、スクレの降水量は年間600mm程度と小雨です。これほどの水食の痕跡がどのようにできたのか、全く謎です。

 さらに、蓋のような大岩の下部底面は、まるでナイフで切り取ったように滑らかです。自然に割れたとしても下の岩と切り口がまったく合致しません。誰かがこの蓋岩を土台の岩に乗せたとしか思えないのです。

Rock0002.jpg

Rock0001.jpg

Rock0003.jpg


 プレインカ、恐るべし!

最後のシーンに出てくる男性は?


 動画の最後のシーンで出てくる男性は、Tumpeka集落の方で、この遺跡の管理を任されており、我々の道案内をしてくれました。どんな険しい地形でもものともせずによじ登る忍者のような人です。

Rock0004.jpg


 プレ・インカ時代の『インカ・マチャイ(Inka Machay)』の近くに『プーマ・マチャイ(Puma Machay)』という別の遺跡があり、きれいな岩絵が残されています。地図上では両者は近いのですが、地形が険しく30分くらい登ることになります。プーマ・マチャイはきれいな彩色画の岩絵があることで有名です。

 高地ボリビアの住民は、われわれ日本人とはかけ離れた特性を持っています。その特徴は持久力。短い区間の山登りなら体力のある日本人なら彼らに負けないと思います。しかし、それが、1時間、2時間・・・10時間も続くとしたらどうでしょうか。彼らのことを管理人が「忍者のようだ」と思うのは、この点にあります。

関連記事


 インカ・マチャイやプーマ・マチャイについては、別の記事で詳しく紹介しているので、興味のある方は関連記事をご覧ください。


【補足説明】

 インカについて、この記事では"Inka"と表記しています。"Inca"の間違いでは? と思われた方もいると思いますが、管理人はあえて"c"ではなく"k"を使っています。現地の大学の先生に聞いたらどちらでも間違いではないのだそうです。管理人が"k"を使う理由は、ケチュア語(Quechuan, runa simi)の単語には"k"が非常に多く使われているから。やはり、インカは"Inka"と表記する方が管理人の好みに合います。

 岩絵については、前述の通り全く記録がないため、いつの時代のものなのか、何の目的で描かれたのかなど一切分かっていません。しかし、推測は可能です。

 南米の岩絵は、古いものだと1万年以上前のものが見つかっています。パタゴニアの洞窟で見つかった岩絵は8000年前のものであることが確認されています。
 このような岩絵は、宗教行事の一環として描かれ、それが描かれる場所はインディオ集落にとって神聖な場所であったと推測できます。

インカマチャイ岩絵を描く人.jpg
  Source: SIARB, Bolivia & Nekoshi

 岩絵は、ペイントで描かれたものや、岩を穿って描かれたものなど様々ですが、インカ・マチャイ周辺の岩絵は顔料を使って描かれています。また、一部は、線刻画になっているものもあります。

 何が描かれているのか。一般には、そこのインディオ部族の「歴史」であると考えられています。

estampa_rupestre_Inka_Machay.jpg


 出典:ボリビア岩絵研究基金(Fundación de la Sociedad de Investigación del Arte Rupestre de Bolivia: SIARB)


posted by ネコ師 at 06:04 | Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

明治維新に渡米した5名の幼き女子留学生の動画を作る


 明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)、横浜の港から岩倉使節団と一緒に米国に留学のため旅立った5人の幼き女子留学生がいました。

 吉益亮子(17歳)、上田梯子(のちの桂川悌子、16歳)、山川捨松(のちの大山捨松、11歳)、永井繁子(のちの瓜生繁子、9歳)、津田梅子(6歳)の5名の少女たちです。

 津田塾大学をつくった津田梅子や鹿鳴館で名をはせた大山捨松は有名です。しかし、残りの3名についてはあまり知られていません。

 ネット上にある渡米時の彼女たちの写真はとても画質が悪く、どんな顔立ちの女の子たちだったのかも分かりません。

 そこで、これまでに培った画像処理の経験を生かして、超高画質、総天然色、さらに、動く写真を作ってみました。

     Source: Youtube, Nekoshi

 彼女たちの生没年に係る基本資料をまとめてみました。

氏   名生年月日死亡年月日渡航時年齢享年
上田梯子(のちの桂川悌子)1855年?1939年1684
吉益 亮子1854年1886年1732
山川捨松(のちの大山捨松)1860年3月16日1919年2月18日1159
永井繁子(のちの瓜生繁子)1862年4月18日1928年11月3日966
津田梅子1864年12月31日1929年8月16日665

  渡航時の年齢は、横浜出発時で計算

 年長者2名は、病気のため一年足らずで帰国します。残りの3名は、渡航時の契約通り10年間の留学を果たします。なんともスケールがすごい。

 彼女たちは国費留学生です。帰国後には、それ相応の日本社会への還元が求められます。特に、10年間もの長期にわたり国費(税金)で留学していた3名の女子たちにはそれが重くのしかかります。

 ところが、明治政府は、帰国した彼女たちに対する適切な職場を提供できませんでした。女子留学生派遣時の卓越した思想が10年の間に失われてしまったのです。この10年の間に明治政府の役人の質が低下していることが分かります・・・・、と思ったのですが、調べてみるとそれは少し違うようです。

 日本に戻った3名の帰国子女たちは、日本語を忘れていました。日本語が話せない、書けない日本人では、働ける職場が限られてしまいます。

 最年長の吉益亮子は、東京府士族秋田県典事吉益正雄娘。津田梅子とともにワシントン郊外ジョージタウンの日本弁務官書記チャールズ・ランメン宅に預けられます。のち1軒を借りて5人で居住します。

 1872年10月、亮子は、目を患ったため病気の上田梯子とともに滞米1年足らずで帰国しました。その後、築地の海岸女学校で教師をし、1886年6月京橋に女子英学校教授所を設立しましたが、その秋にコレラに罹患し亡くなっています。彼女の資料がとても少ないのはこのためです。

 吉益亮子は早世した、というような記述をネット上で見かけますが、嘘ですね。32歳で亡くなった人を早世とは言いません。女子卓球の石川佳純選手にお顔立ちが似ているような気がします。

 山川捨松については、他のサイトでいくらでも情報が手に入るので書きませんが、少しだけ気になることがあります。それは名前の読み方。捨松は「すてまつ」と読みます。それ以外の読み方はないと思います。ところが、複数の英文サイトで「Suematsu Yamakawa」という記述があります。誰かが間違って書いたのをそのまま使っているのか、あるいは、使節団メンバー表がそのようになっていたのか。調べれば分かることですが、今のところ真偽は不明です。

 早期に帰国した2名について、年頃の年長者2名は現地になじめず早期に帰国したように書いている方もいます。しかし、当人たちから見れば、自分たちより年下の3名の少女たちを残しての帰国は断腸の思いだったように感じます。何を根拠にそのように書いているのでしょうか。そのように書いた根拠資料を示してほしいものです。

 動画を見ると、5名の留学生一人一人の顔立ちがよく分かると思います。これまで誰もこのような加工をしなかった理由は、この加工にはとても手間がかかるからです。今回は、手間を惜しまずにやってみました。まずまずのできばえかなぁと思います。


posted by ネコ師 at 08:21 | Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月09日

昔の人たちが使っていた時間と空間を把握するための円盤


 テレビを見ていると、「これってためになる知識だ」と感じることがありますが、残念ながらそれはすぐに忘れられてしまいます。

 今日は、録画したテレビの番組にあったおもしろい話題をメモします。
 2015年9月4日放送、TBSの『林先生が驚く初耳学!』という番組の中で、林先生が説明していた内容です。

 「子の刻」とは午前0時を中心とする2時間。その反対に位置する「午の刻」のことを「正午」という。それより前を「午前」、それより後を「午後」という。

 時間を知るための物差しを人は空間にも使った。午前0時が北、正午が南と東西南北をあてはめた。
 陰陽道(おんみょうどう)では、東と南が「陽」、北と西が「陰」になる。「陽」と「陰」がぶつかるところは危険だ。鬼が来る。それが「鬼門」とされ北東の方角になる。鬼は「丑の角」に「寅のパンツ」をはいている。北東が「丑寅」だからだ。

 鬼をやつける昔話はいっぱいある。たとえば、「ももたろう」。鬼門から来る鬼をやっつけるには、反対側から行けばいい。どんなものを連れて行けばいいか。「申」と「酉」と「戌」を連れて行く。

陰陽道円盤
       Source: ネコ師

 昔の人は、この円盤を一枚頭に入れるだけで、自分たちの周りの空間も時間も全部理解できた。

 以上が林先生の解説でした。なかなかおもしろい。

 以前から不思議だったのが、桃太郎の家来はなぜ、イヌ・サル・キジなのかということ。鬼と戦うにはどれも弱すぎるキャラクターです。しかし、裏鬼門という隠し呪文があったとは。まさに、ロールプレーイングゲーム。そう考えると、家来を購入したアイテム「キビダンゴ」も何か深い意味がありそうです。イヌ・サル・キジはキビダンゴを食べないし、これも不思議です。

 「それは単なるお話」と片付けてしまうのでは、「あなた、脳みそが溶けているんじゃないの?」と突っ込みを入れたくなる。昔話は奥が深いです。

 Yahoo知恵袋の「どうして桃太郎の鬼退治の家来はイヌ、サル、キジですか? 」という質問に対する回答は、「儒教的解釈では、サルは智、キジは勇、イヌは仁を表すともされているそうです。文字通り 智は知恵で賢さ。勇は勇気。仁は人徳・忠誠心などです。」がベストアンサーでしたが、答えになっていないのがおわかりでしょうか。林先生の解説は説得力があり、すんなり理解できます。もちろん、たくさんある解釈のうちの一つでしょうが。ただ、林先生の説明では、裏鬼門に当たる「未」が入っていません。説明が上手なので聞き逃してしまいますが、先生の説を採るならば、「丑・寅」に対抗するには「未・申」を連れて行く必要があります。

 日本にはヒツジは古来からいたようですが、「動物遺体の出土事例も報告されていないことから、ほとんど伝わらなかったものと考えられている(Wikipedia)」だそうです。ヒツジを家来にしたくても身近にいなかったのかもしれませんね。

 この円盤はExcelで作りました。ほしい方は、こちらからExcelファイルをDLしてご自由にお使いください。色を変えたり、好きなように加工できるので、便利かと思います。

 ダウンロードパスワード cesar


posted by ネコ師 at 07:25 | Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月14日

呪われた島 オーク・アイランドと財宝の謎


 「オーク・アイランドの財宝伝説」をご存じでしょうか。
  カナダの東海岸、ノバスコシア州チェスターにあるオーク・アイランド(オーク島、Oak Island)に隠されているとされる海賊の財宝伝説です。

 日本人にはなじみのない島ですが、「赤毛のアン」の舞台となったプリンスエドワード島の南西200kmに位置しています。車で4時間くらいの距離にあります。

 オーク・アイランドはとても小さな島で、面積は57ha。一辺が755mの正方形に収まる大きさです。神奈川県湘南の江ノ島が38haなので、オーク・アイランドはちょうど1.5倍の大きさです。

 この島は陸地から200mほど離れた場所にあり、海抜標高は最大で11mです。この周辺には360あまりの小さな島があります。

 
Oak_Island_Map_GIF.gif
       Source: Google Mapより作成。島のスペルを間違えました。Ork ⇒Oakが正しい。

 オーク・アイランドは、個人所有の島です。陸地からは道路が通っていますが、ゲートで封鎖されていて中に入ることはできません。

Oak Island Google Earth
    Source: Google Earth

呪われた島 オーク・アイランドと財宝の謎

 ヒストリーチャネルのリアリティーTVシリーズで、『オーク・アイランドの呪い(The Curse of Oak Island)』という番組が2014年1月5日から米国で公開されています。

 番組では、220年にわたるオーク・アイランドにまつわるミステリーを解明するため、米国ミシガン州からやってきた二人の兄弟ラギーナが、全世界の専門家の意見を聞きながら、最新のテクノロジーを使い、オーク・アイランドに埋められたとされる財宝を見つけ出そうとする奮闘を描いています。2015年11月10日には、シーズン3がスタートしました。そして、2016年11月15日にはシーズン4がスタート。このシリーズはヒストリーチャネルの中でも人気のあるシリーズのようです。ヒストリーチャネルで放送カナダ現実宝探しシリーズです。

 まさに、世界を巻き込んだ今が旬の宝探しです。

 ヒストリーチャネルの番組の宣伝には以下のように書かれています。

「ノバスコシア沖の謎めいた小さな島で、夜間に奇妙な明かりが目撃され、その調査のために乗り込んだ人々が行方不明になった。数人の子供たちが、奇妙な刻印がされた地面を見つける。オーク・アイランドの地下には一体何が埋められているのだろうか。海賊の財宝、もしくは失われた契約の箱・・・。それは誰にも分からない。そしてこの謎を解こうとした者には必ず予期せぬ問題が立ちはだかった。地面を数フィート掘ると、すぐに海水が溢れ出して掘った穴をふさいでしまう。何者かが、とてつもない労力を費やしてそれを隠したのだ。
 この秘密の解明に執念を燃やしている石油業者のマーティは、巨額を投じてその島へのアクセス権を買収した。彼らはこれまで使われたことのない技術を駆使して発掘作業に挑む。もちろん彼らの前にも困難が立ちはだかった。この島は呪われていると代々伝えられ、昔から「財宝が見つかるまでに7人が死ぬ」と予言されているのだ。」

オーク・アイランドの財宝伝説とは

 オーク・アイランドの財宝伝説について、簡単におさらいしておきましょう。事の発端は、1795年、今から220年前に遡ります。

 1795年、三人の少年たちが一世紀ほど前に掘られたと思われる古い縦坑を発見します。見つけたときにはくぼみ程度でしたが、縦坑を埋めた跡だと考えた少年たちはどんどん掘り進め、30フィート(9m)の深さに達します。10フィートごとにオーク材の丸太が穴に敷き詰められていました。彼らはこれ以上掘り進めることをあきらめます。

 1803年、彼らは掘削を再開しました。この時は90フィート(27.5m)まで掘り進みます。そこで、謎の文字が刻まれた石版を見つけます。後にこれを解読したところ、40フィート下に二百万ポンドを埋めたと書かれていることが分かりました。

replica2.jpg

 発見された石版のレプリカ。"Forty feet below, two million pounds are buried."と書かれている・・・らしい。

 この後、何人ものトレジャーハンターたちが宝探しに挑戦しますが、誰一人成果をあげることができていません。

 この財宝伝説についての詳細は、こちらのサイト『オーク・アイランドの埋蔵金』がよくまとめられています。

財宝は本当にあるのか

 最初にこの財宝伝説を知ったとき、「筋の悪い話」だと思いました。どうもうさんくさい話です。

 そもそも、初期の状況説明はでたらめばかりが一人歩きしています。最初に掘削したのは三人の少年ではなく、土地の所有者ら三人の成人男性でした。

 上記のサイトでも書いているように、自然の地形・地質のいたずらのように思えます。

 この島の基礎岩盤である石灰岩質の地質では、長い年月の間に岩盤が水で浸食され、空洞ができ、陥没が起きます。その繰り返しで、亀裂の多い岩盤の浸食が進むと陥没が起き、地面に生えていた樹木が地中に埋没するという現象が定期的に起きるような場所なのではないかと思います。

 財宝探しには資金が必要になります。発掘を続けるためには、パトロンを見つけ、定期的に一定の「成果」をあげる必要があります。オーク・アイランドの財宝発掘では、埋蔵金があるというたくさんの証拠があるにも関わらず、それらのすべてがまともな証拠ではないのが特徴です。例えば、見つかった石版は、今、どこにあるのでしょうか。石版のレプリカでは文字らしき記号が二行で書かれていますが、オリジナルのスケッチには4行で描かれています。

 引き上げたスクリューオーガーに付いていたという金の鎖はどこにあるのでしょうか。失われたようです。決定的な証拠のオリジナルはどこに行ったのか分からない。どうも、ねつ造疑惑の臭いがぷんぷん漂ってきます。

 そもそも、少年たちが窪地を見つけた1795年にはカメラがありませんでした。最初の写真が撮影されたとされるのは1825年になってからです。Money Pitを30フィート掘る毎にオーク材がまるで足場のように敷き詰められていたとされていますが、それが真実だという証拠は何もありません。

 「オーク・アイランドの埋蔵金伝説」が筋悪なのは、そもそも財宝伝説などなかったのに、あとで作り出したことです。だから、キャプテンキッドの財宝やバイキングの財宝などたくさんの候補が挙げられていて、何が埋まっているのかさえ誰も知らずに必死で探している状態です。

 これが「ココ島の財宝」と大きく異なる点です。ココ島の財宝は文書で確認できる財宝が隠されたとされています。

<追記> RationalWikiの"Oak Island Money Pit"の項を読んでいたら、ココ島との文脈で同じことが書かれていました。また、全体の主張が本記事とそっくりなのでビックリ。管理人がマネして書いた訳ではありません。RationalWikiの記事を読んだのは今回が初めてなので。<追記 終わり>

 「オーク・アイランドの埋蔵金伝説」は、財宝を探すのではなく、自然現象である証拠を探した方が、良い結果が得られると思います。

 この財宝探しが奇妙なのは、下の画像を見れば分かります。

Oak Island panoramio


 冒頭に書いたように、この島はとても小さく平坦です。海抜標高は、高いところでも11mしかありません。写真の矢印の部分が "Money pit"と呼ばれる、少年たちが最初に掘った場所です。つまり、この宝探しの舞台です。写真から分かるのは、こんなに海の近くの地面を掘り返したら、必ず海水が入ってくるということ。

 "Money pit"部分の海抜標高は5mもないのではないでしょうか。こんな所を30mも掘り下げたら、土の亀裂から海水が浸入します。少年たちが支保工なしの素掘りで9mもの深さまで掘ることができたのは、この土質が粘土だからだと思います。青色粘土と書いてある記事もありました。

 管理人の想像では、海面下24m付近の土層に水平方向の大きな亀裂があるように思います。だから、島のどこで掘っても、(地面標高4mとして)28m付近で海水が噴き出します。ある深さで水が浸入するように作った「設計者」がいたわけではありません。

 ある資料では、基礎岩盤の深さは160フィート(49m)と書いています。基礎岩盤は石灰岩でできており、いくつかの空洞が確認されています。

古代の遺跡がなぜ土中に埋没しているのか、理由を知っていますか?

 古代の遺跡は、「発掘」により確認されます。つまり、土中から掘り出すのです。

 では、いったい、誰が埋めたのでしょうか? これは長い間分からず、謎でした。多くの遺跡が土中に埋もれています。もちろん、意図的に土をかぶせて埋めたものもありますが、それは少数です。大多数は、年月の経過とともに土中に埋没していきます。

 ところが、マヤの遺跡は、ジャングルの中から発見されました。土中に埋没していたわけではありません。この違いは何なのでしょうか。

 実は、この謎を解明した人物をあなたは知っています。進化論で有名なチャールズ・ダーウィン(1809 - 1882)です。

 古代の遺跡を土中に埋めているのは「ミミズ」であることを突き止めたのがダーウィンです。
 世界一周の航海からイングランドに戻ったダーウィンは、ミミズが土を耕し、土を運び上げることで、遺跡が地中に埋もれていくメカニズムを明らかにしました。しかし、その速度は年に1cmから2.5cmととてもゆっくりとしたものです。

 では、マヤの遺跡が土中に埋もれなかった理由は何だったのでしょうか。

 それは、ミミズが少ないからです。熱帯地域は植物が生い茂り、落葉して、そこの土は栄養に富んでいると思いがちですが、実は違います。熱帯の土はとてもやせていて、栄養分を含んでいないのです。その理由は、高温多湿による有機物の分解の早さにあります。このため、一度、自然の再生サイクルが崩壊すると修復できないという、とても恐ろしい状況を生み出します。熱帯の自然体系はとても壊れやすいという特質があります。

 熱帯地域の遺跡が土中に埋もれないのは、落ち葉などの有機物を餌にして活動するミミズにとって、厳しい環境だということです。

 オーク・アイランドはもちろん熱帯ではありませんが、とても平坦な小さな島で海に囲まれています。このような島では、土壌は日常的に塩水をかぶっている状態であるため、耐塩性の植物しか生えません。ミミズの生育環境としては最悪です。最初は、地中で見つかったオーク材について、ミミズによる埋没かと思ったのですが、ミミズの生育環境として劣悪であることから、石灰基礎岩盤の陥没によるものだと考えました。この島では、ミミズは関係ありません。

 ダーウィンは、肩書きとして「地質学者」を自称していました。オーク・アイランドの財宝についてネットで調べると、地質学者が参加していないように思います。柱状図が見当たらない。ピットの断面図と深さごとに何が出土したかという図はありますが、地質については何も書かれていません。

 最後にもう一点指摘しておきます。「設計者が海水がピットに入るように設計した」とします。では、財宝を隠匿した人物が必要になって自分たちが掘り出すとき、どうするのでしょうか。盗掘者が掘ったために、ピットは海水で満たされています。しかし、"設計者"は、この水を汲み出すことはできないのです。

 紀元前からあった吸い込み式のポンプでは水を汲み出すことのできる深さ、つまり揚程は10mが限界です。押し出し式のポンプでは揚程100m以上、200mでも可能ですが、当時はそのようなポンプはなかった。水中ポンプが発明されたのは、1948年になってからです。

 これが、管理人が「筋悪」と考える主な理由です。
 伝説を否定するような記事を一所懸命書いてもつまらないのでこの辺で終わりにします。

 ヒストリーチャネルにおけるオークアイランドのシリーズの作り方は、かなり問題があると思います。ノンフィクションなのは、現在探しているシーンだけで、残りの映像は虚構。結局中身がないから、ねつ造しているように感じてしまいます。問題なのは、それをあたかも真実であるかのように映像内に組み込んでいること。ヒストリーチャネルもこんな低レベルな番組を作るんだ!と驚いてしまいます。


posted by ネコ師 at 22:47 | Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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