2015年04月20日

明治が熱い! 不思議の国日本の不可思議:その1


 今日は、西暦2015年4月20日(月)です。平成27年です。昭和で換算すると、 昭和90年にあたります。
 それでは、今年は明治何年でしょか。 

 正解は、明治148年です。明治元年、すなわち、西暦1868年から数えて、今年は148年目にあたります。
 明治維新から150年の節目となる年は2018年です。 三年後に迫っています。
  
 ちなみに、100年目の節目の年であった1968年には、「明治百年記念式典」が行われました。これは、日本の元号が明治へ改められた1868年10月23日(慶応4年9月8日、明治元年9月8日)から満100年を記念して、1968年(昭和43年)10月23日に挙行された日本政府主催の式典として行われたものです。(Wikipedia)

 ここ2、3年、幕末から明治にかけての時期を題材にしたテレビ番組が急激に増えているように感じます。

 例えば、NHKの大河ドラマを調べてみると、近年、確かに幕末から明治にかけての時代を背景としたドラマが増えていることが確認できます(下表の黄色にマークしたところが幕末・維新のもの)。

Chronology_NHK.png
 Source: NHK 「大河ドラマ一覧

 また、NHKの『歴史秘話ヒストリア』、NHK BSプレミアムの『英雄たちの選択』やBS-TBSの『歴史列伝』でも幕末から明治維新の時代に活躍した歴史的人物を非常に多く取り挙げています。

 幕末から明治にかけての10年間ほどは、日本の歴史に照らしても劇的といえるほどの変化が生じた時期でした。

 この時期に活躍した歴史的人物の再評価が行われています。テレビ番組で数多く取りあげられているのがこれを物語っています。


とても奇妙な歴史:明治維新
 明治維新のあたりの歴史について、奇妙に感じたことはないでしょうか。管理人は、教科書などに載っているようなこの時代の歴史についてとても奇異に感じています。

 それは、「スーパーマン」が数多く登場していることです。
 常識的に考えて、世界的に見ても、歴史に「数多くのスーパーマン」は登場しません。ところが、明治維新のあたりには、「スーパーマンだらけ」の状況でした。この時期の歴史的人物たちは信じられないほどの改革を断行しています。

 追々解き明かしていきたいと思いますが、今回は問題の提起をしたいと思います。

 管理人は、スーパーマンはその時代に多くても一人しか登場しないと考えています。ところが、幕末から明治10年頃までの体制の変化は、数多くの歴史的人物でスーパーマンとしか思えないような人たちが行いました。
 
 人間の能力には限界があります。また、能力がある人の場合でも経験と情報が十分にないと能力を発揮できません。このサイトでは、そのような制限された環境の中で、「考えられないような能力を発揮した歴史的人物」をスーパーマンと定義しましょう。

 管理人は、「考えられないような」ということは、誰かが情報を操作した結果ではないかと思っています。例えば、10人の業績をたった一人の業績として置き換えてしまう。そのような操作が行われたのではないかと。

 幕末に活躍した歴史的人物たちの中には、たいした学問もしておらず、得られる情報も断片的なのに、スーパーマン的な働きをしている者がいます。坂本龍馬がその典型でしょう。

 歴史家も含めて、物書きの人たちは、「自分ができないことをやった過去の人物を極端に過大評価してしまう」ようです。古代遺跡の石組みの切断面が平坦な理由を宇宙人に求める人たちと似ている気がします。

 歴史の本を書いている人たちは、日常社会とは隔絶した研究生活をしているように思います。科学的な、化学的な専門的知識も技術も持っていないでしょう。「自分の専門外」のことを「その分野の専門家から見たら当たり前のことでも過大評価してしまう」、そんな傾向があるように思います。

 草葉の陰から「他人の業績をあたかも自分がやったかのように付け替えられて不快に思っている」歴史上の人物がたくさんいるのではないでしょうか。世の中には、他人の成果を自分のものとして公言する人がいることは事実ですが、この時代は違うように思います。私利私欲のためではなく、真摯に国のために命をかけた若者たちが確かにいたのです。彼らの業績が過大に評価されているとすれば、後世の歴史家が責任を負うべき問題のように思います。

 『幕末・維新の歴史的人物の再評価』を通じて、スーパーマン的人物像を修正していくことが必要だと思います。その作業を通じて、新たな傑出した人物が浮かび上がってくるでしょう。また、その時代の歴史を動かしていた影の人物も浮かび上がってくるのではないでしょうか。

 昨日まで丁髷(ちょんまげ)を結っていた人たちだけで明治維新はできなかった。こんなことは常識でしょう。それなのに、歴史的人物をスーパーマンにすることで、この部分を闇に包み込んだ。

 幕末から明治維新にかけての時代は、それぞれの分野のキーパーソンがたくさんいたのでしょう。しかし、彼らの功績の多くが無視され、得られた成果だけが特定の歴史的人物の成果として付け替えられた。これが同時代にたくさんのスーパーマンが誕生した理由でしょう。

 次回以降の記事で、順次、内容を深めていきたいと思います。


【参考】
・Wikipedia 「明治


posted by ネコ師 at 03:11 | Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月01日

ダヴィンチの暗号:生涯持ち続けた三枚の絵は組み絵だった!?


 久しぶりのなぞの解明記事ですが、この記事は完成していません。あらかじめご承知の上お読み下さい。
 誰も聞いたことがない独自の仮説を展開します。


1.レオナルドが生涯手元に置いた三枚の絵画は組み絵だった?(仮説の提示)

  
 レオナルド・ダヴィンチが生涯『モナ・リザ』」を手放さなかったことは有名です。しかし、手放さなかったのはモナリザだけではなく、実は他に二枚の絵も生涯持ち続けました。
 『聖アンナと聖母子』と『洗礼者聖ヨハネ』の二枚です。

tres_pinturas.jpg


 このことを知ったとき、三枚の絵はもしかしたら「組み絵」なのではないかと思いました。そう、三枚の絵を組み合わせることで一枚の絵になる。だから、三枚の絵を手元に置いておく必要があった。

 この三枚の絵のうち、完成したのは『洗礼者聖ヨハネ』のみで、『モナ・リザ』と『聖アンナと聖母子』は未完成でした。

 この三枚が組み絵だと考えると、なぜ未完成だったのか推測できます。時折、三枚の絵を並べ、それぞれの絵を修正、調整しながら描いていたのではないでしょうか。

 そう思って、三枚の絵をよく見たのですが、類似点が全くなく、とても組み絵には見えません。
 ただ並べただけではまったく別の絵だし、どのように組み合わせるのかも分からないし、お手上げです。

2.三枚の絵のサイズはどうなっているのか?

 組み絵だと仮定すると、それぞれの絵の大きさが重要になってきます。ネット上で、個々の絵はたくさん見つけることができますが、三枚の絵の大きさが分かるように三枚並べた画像は存在しません。三枚の絵をいわゆる「リプティク」といわれるような蝶番で開く絵と想像した方がいますが、残念ながら、絵のサイズまでは考えなかったようです。

 無いのなら自分で作ってみます。

 先ず、三枚の絵の大きさを見てみましょう。

 『聖アンナと聖母子』が最も大きく、『モナ・リザ』が四枚すっぽり入る大きさです。
 ここで着目すべき点は、三枚の絵の人物は同じスケールで描かれているということです。三枚の絵をばらばらに見たのでは気がつかないのですが、スケールを合わせて並べてみると、人物が同じスケールで描かれていることが分かります。新発見です。

 三枚の絵の大きさは、概ね下の画像のようになります。

Tree_Picture_Davinch_Size.jpg


 三枚の絵で人物が同一スケールで描かれているということは、「三枚の絵は組み絵」という管理人の仮説を力強く後押ししてくれます。

 組み絵だとすると、制作年から色々推測できます。レオナルドは1503年、『モナ・リザ』を最初に描きはじめます。この絵は前述の通り完成しません。次に、『モナ・リザ』制作開始から5年後の1508年に『聖アンナと聖母子』の制作が始まります。この絵も完成しません。そして、さらに5年後の1513年に『洗礼者聖ヨハネ』の制作に着手します。この絵は完成したと言われています。

 何を根拠に絵が未完成とか完成とか言うのでしょうか。それは背景の部分が描き終わっていないために未完成と言われているのだと思います。これに対して『洗礼者聖ヨハネ』は完成した絵と考えられています。この絵には背景がありません。背景は黒く塗りつぶされています。このため、「完成」と言われているようです。しかし、本当にそうでしょうか。背景を黒く塗りつぶしたのは別の背景を書き込むための下地塗りだったのでは?、という可能性もあるように思います。

 三枚の絵の制作開始が5年おきに行われました。このことは何かを暗示しているように思います。

絵画名 

 寸 法 

制作年(推定) 

 モナ・リザ    77 cm x  53 cm 1503年 - 1517年  
 聖アンナと聖母子  168cm x 112 cm  1508年 - 1510年  
 洗礼者聖ヨハネ    69 cm x 57 cm  1513年 - 1516年  


 組絵を配置する場合、どの絵がベースになるのかを考えてみましょう。これは制作年代を調べると答えが出そうです。最初に描いたものが基準となる筈です。三枚の絵画で最も古いのは『モナ・リザ』です。このため、『モナ・リザ』を基準にして残り二枚の配置を考えます。

 ここでふと思ったのが、ある色を取り除くと組み絵になるという方法です。最初に組み絵を描き、それぞれの絵の一部を特定の色で塗りつぶすことで組み絵に見えないように加工した。その可能性があるのではないか、と考えました。しかし、この方法で試行錯誤しましたが、良い結果は得られませんでした。

3枚の絵イーゼル.jpg
   Photo: ⒸNekoshi

 三枚の絵をどのように組み合わせるのか? レオナルドはアトリエに三枚の絵を並べて描いていたと考えられます。このため、絵を縮小したりするのではなく、そのままの状態で配置だけの問題だと推測します。

 組み合わせのための『キー』が絵の中に隠されているはずです。しかし、なかなか見つかりません。

 ふと、モナリザの絵の両側に柱の土台が描かれているのを思い出しました。土台だけ描くというのは何ともおかしな事です。「本来はモナ・リザの両側に柱が描かれていたが、キャンパスが切断されたために残っていない」と考えた専門家もいるほどです。詳細な調査の結果、『モナ・リザ』のキャンパスには切断されたような痕跡はなかったことが確認されています。
  
 それでは、柱の土台は何のためにあるのか。これが組み絵を配置する『キー』になっているのではないか。そう考えました。


3.組み絵を配置する『キー』とは

 『モナ・リザ』の絵の左側にある土台と組み合わせることのできる部分を『聖アンナと聖母子』の中に探します。すると、背景の中にピッタリ一致する部分が見つかりました。驚くほどぴったりマッチします。二枚の絵の接合部分は全く違うものなのに、不思議なことに一点でつながります(下図参照)。

 次に、「洗礼者聖ヨハネ」の配置です。この絵の特徴としては、@背景が黒く塗りつぶされていること、A十字架を抱えていること、B指さしていること、の三点を挙げることができます。

 このうち、Aの十字架に着目しました。
 最初、マリアの母「聖アンナ」の額に十字架のようなものが見えることから、そこに『洗礼者聖ヨハネ』の十字架を合わせてみました。しかし、良い結果は得られません。

 次に、幼子(イエス)が抱えている子ヒツジに着目しました。それは、レオナルドの代表作『岩窟の聖母』と『聖アンナと聖母子』の構図が良く似ているのが理由です。

 『岩窟の聖母』では、聖母マリアと天使、幼児イエス、そして幼い「洗礼者ヨハネ」が描かれています。一方、『聖アンナと聖母子』では、マリアの母アンナ、マリア、幼児イエスそして「子ヒツジ」が描かれています。このことから『洗礼者聖ヨハネ』の絵は、『聖アンナと聖母子』の絵の中の「子ヒツジ」の部分に配置するのが正しいように思えます。

 そこで、再び接続「キー」を探します。
 すると驚きの結果になりました。

 鉛直方向は、『聖アンナと聖母子』と『洗礼者聖ヨハネ』の絵を底面でそろえます。
 水平方向は、『洗礼者聖ヨハネ』の十字架を『聖アンナと聖母子』の右端にそろえます。

 すると、『洗礼者聖ヨハネ』と「子ヒツジ」が重なります(下図参照)。これには驚きました。『洗礼者聖ヨハネ』の絵は複雑なことは一切無く、とても簡単に『聖アンナと聖母子』の絵の中に配置できるのです。
 (重なり具合を見やすくするため、『洗礼者聖ヨハネ』の背景の黒い部分を切り取っています。)

Replace001.jpg

      『聖アンナと聖母子』と『モナ・リザ』の接合部分の拡大画像です。
Matching_MonaLiza.jpg


 以上が、今日時点の結果です。

 三枚の絵をこのように配置することの意味は何なのでしょうか。この配置をどう解釈すれば良いのでしょうか。
 ヨハネの指さす方向にあるものは?
 聖母マリアはなぜ不自然な恰好で母親の膝に腰掛けているのか? 太ったおばさんが年老いた母親の膝に座る構図ってどう考えてもおかしいでしょ?
 

 配置は解明したのに、その解釈ができない。やはり、「組み絵仮説」は間違いだったのでしょうか。しかし、この配置の考え方は無理がなく説得力があるように思います。

 管理人にはさっぱり分かりません。
 もう少し時間をかけて考えて見ます。

 下の画像は、今回の探求の初期段階で作ったスーパーインポーズです。せっかく作ったので想い出にアップしておきます。

Monalisa_3Picture01.jpg
   Picasaを使ったスーパーインポーズ

 【追記:2015/12/8】
 この記事の続きを書きました。下のリンクからお入り下さい。驚きの解決編です。
 
 『レオナルド・ダ・ヴィンチの組絵とその謎の解明


posted by ネコ師 at 16:00 | Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月24日

プレ・インカ遺跡で撮影した不思議な写真


 世界遺産の古都ボリビアのスクレ市の郊外にプレ・インカ時代の『インカ・マチャイ(Inka Machay)』という遺跡があります。きれいな彩色画の岩絵があることで有名です。さらのその上に登っていくと『プーマ・マチャイ(Puma Machay)』という遺跡があり、きれいな岩絵が残されています。

 座標は下のとおりです。座標をコピーしてGoogle Earthに貼り付けてご覧下さい。
 Inka Machay 18°57′21.30″ S 65°25′31.10″W
 Puma Machay 18°57′21.90″ S 65°25′26.60″W

GoogleEarth_InkaMachay1.jpg
 Source:Google Earth

 インカ・マチャイに初めて登ったときのこと。標高が3400m位あるので、休み休み登り、やっと目的地に到着。結構疲れます。
Inka_Machay04.jpg


 そこで自分が登ってきた道を撮影しました。その時は気がつかなかったのですが、その中の一枚の写真に不思議なものが写っていました。
Inka_caiman2.jpg


 分かり難いので少しアップします。
Pre Inka Monument


 さらにアップします。何が不思議かもう分かりましたよね。
Inka_caiman1.jpg


 この岩はとても大きなものです。頭の上の部分に石段があるので、その大きさが分かると思います。たぶん30m近くの長さがあると思います。登山道はこの直ぐ脇にあるのですが、まったく気づかずに通り過ぎました。
 この岩が、自然にできたものだと思いますか?

 こんなに標高の高い所にはワニはいません。
 頭の部分は完全に空中にあります。完全な形の口も目もあります。

【管理人の推理】

 この岩は自然にできたものだと思います。どうみても人の手が入っているように思いますが。

 その根拠は、『インカ・マチャイ(Inka Machay)』と『プーマ・マチャイ(Puma Machay)』の岩絵です。この二つの遺跡に残された岩絵はとても原始的なもので、洞窟や岩の壁面に描かれたものです。岩を高度に加工した痕跡はまったく見られません。
Inka Machay pintura

Source:ネコ師、インカ・マチャイの岩絵

 写真のような巨石の彫像を人が加工して作るには、もっと高度な写実的な能力が必要だと思います。残念ながら、残された岩絵からはその痕跡を見つけることはできません。

【関連記事】
 この不思議な写真は、以前、本館にアップしたものです。インカ・マチャイとプーマ・マチャイの岩絵をもっと見たいという方は、下の関連記事をご覧下さい。実は、不思議な岩は他にもあります。

 『スクレのプレインカの遺跡で不思議発見!』
 『スクレの幻のインカの岩絵(INCA MACHAY)』
 『プレ・インカ時代の岩絵 プーマ・マチャイ:Google Earth対応』


posted by ネコ師 at 09:49 | Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月01日

二枚目のモナリザの謎の解明


 2014年11月12日(水)のNHK BS1で午後6時から「BS世界のドキュメンタリー『二枚目のモナリザの謎』」という番組をやっていました。

 『ダ・ヴィンチは二枚のモナリザを描いたのか? 最新の歴史研究や化学的調査から、ルネサンスの巨匠の手によるとされる似て異なる二枚の絵画の裏に隠された秘密を探る。』というサブタイトルが付いています。なんかワクワクしますね。
 番組内容欄はこんな記述です。


番組内容

 神秘的な微笑みのモナリザは最初から有名だったわけではない。ルーブル美術館から盗まれて姿を消した2年間に、寄り若く新しい"二枚目のモナリザ"が出現し脚光を浴びたのだ。ダ・ヴィンチは同じ肖像画を二枚描いたのか? 二枚目は習作か? それとも専門家の目さえも欺く贋作なのか・・・? 新たに見つかった歴史的資料や科学的調査から、モナリザの微笑みの裏に隠された秘密を解き明かす。

 なかなか力が入っています。このドキュメンタリーは、2014年 オーストリア Terra Mater Factual Studios GmbHが制作したもので、NHKが制作したわけではありません。日本の民放のこの手の番組はふざけた内容ばかりで見るに堪えませんが、Terra Mater Factual Studios GmbHが制作した番組なら期待できます。


視聴した内容と補足

・1911年8月、ルーブル美術館の一角に飾られたモナリザは、現在ほど有名ではありませんでした。しかし、イタリア人ビンセンツォ・ペルージャがモナリザをルーブルから盗み出したことで、モナリザは一躍脚光を浴びることになります。

・1913年、ディーラーのヒュー・ブレイカーがイギリス、サマセットの貴族の家から驚くべき絵を見つけます。この絵は、貴族の親戚が旅先のイタリアで買い付けたものでした。細部は異なるものの、盗まれたモナリザにそっくりでした。ヒュー・ブレイカーは絵を買い取り、ロンドン郊外にあるの自分のオフィスに運びます。その地名から、このモナリザは「アイルワースのモナリザ(The Isleworth Mona Lisa)」と呼ばれるようになります。

・同じ年、盗まれたモナリザが発見され、美術館に戻ります。

モナリザが二枚存在するということはあり得るのか?

・ミラノにあるレオナルド・ダ・ヴィンチ博物館館長のアレッサンドロヴェッツォシ氏は語ります。
 「さまざまな調査の結果、現在では二つの説があります。かつては、ルーブルのモナリザ一点でしたが、もう一つのモナリザが存在する可能性も否定できないのです。」

・1503年、レオナルド・ダ・ヴィンチは、中産階級の商人の妻の肖像を描くという依頼を引き受けました。

・フィレンツェのウフィッツィ美術館に収蔵されている16世紀のイタリア人画家、建築家のジョルジョ・ヴァザーリが書いた芸術家の伝記『美術家列伝』(1550年出版)によれば、「フランチェスコ・デル・ジョコンドという商人についての記述があり、彼の息子はレオナルド・ダ・ヴィンチが母親の肖像を描いた」と述べています。母親の名前は、リザ(Lisa)。モナ・リザです。「モナ(Mona)」とは古いイタリア語で「貴婦人」を意味します。

・ヴァザーリは著書の中でモナリザをこう評しました。「まつげは限りなく繊細なタッチで描かれ、眉はこの上なく自然であり、唇は肉の質感そのものだ」と。ヴァザーリは著書の中でモナリザのまつげを絶賛しています。作品を批評する上で、まつげの描き方に言及しているということは、モナリザにおいてまつげは大きな特徴だったはずなのです。

・ヴァザーリが当時目にしたモナリザは現在ルーブルに提示してある絵なのか。しかし、このモナリザの絵には、彼が熱烈に褒め称えた眉やまつげの特徴が見られません。

・最新技術を使えば、消えた眉やまつげの謎が解けるかも知れません。

・フランス人技師パスカル・コットが超解像度のカメラを使って絵画をデータ化。この技術を使えば、何層にも塗り重ねられた絵画の、表面からは見えない層を画像化することができます。分析した結果、三つの層で眉が描かれていることを確認できました。眉が描かれている層はとても薄く、そして、絵の表面にごく近い層でした。なぜ、表面の層から眉が消えてしまったのかを科学的に証明することはできません。絵画の洗浄作業の過程で誤って眉を消してしまったのかも知れません。

・ルーブルのモナリザには、ヴァザーリが絶賛した眉はありません。彼が見たのは別のモナリザだったのでしょうか? それとも、度重なる修復作業が彼女の顔を変えてしまったのでしょうか?

 もし、レオナルド・ダ・ヴィンチがアイルワースのモナリザを描いたとするのなら、その特徴は"まつげと眉"に現れていると考えられます。ところが、アイルワースのモナリザの"まつげと眉"はルーブルのモナリザと同じようにほとんど確認できません。
Isleworth Mona Lisa

Source: Wikipedia

・ルーブル美術館のモナリザにはヴァザーリの記録と食い違う決定的な点があります。彼が見たモナリザは"未完成だった"のです。つまり、ヴァザーリが見たのは、もう1枚のモナリザ、「アイルワースのモナリザ」だった可能性があります。「アイルワースのモナリザ」には背景がほとんど描かれていません。これは未完成だとするヴァザーリの記録と一致します。

・1503年、レオナルドがモナリザの制作にとりかかったのと同じ年、フィレンツェで最も名誉ある仕事が舞い込みます。ベッキオ宮殿の壁にフィレンツェ共和国がミラノ公国軍を破った闘い「アンギアリの戦い」を描くという大役でした。レオナルドは蜜蝋を使った絵の具という実験的な手法を試しましたが、蜜蝋がなかなか乾かず壁を流れ落ちてしまいます。レオナルドは、フィレンツェでの最大の仕事に失敗し、フィレンツェを去ります。レオナルドは、他にも未完の作品をいくつも残しています。

・二枚の絵画、モナリザと「アイルワースのモナリザ」を比べると同じ人物のように見えます。ただ、「アイルワースのモナリザ」の方が若く見えます。これは二枚が描かれた時期が違うということなのか。

・しかし、「アイルワースのモナリザ」の保存状態はとてもよく、500年以上前に描かれた絵だとは思えないほどきれいです。もし、レオナルドが同じ女性を二枚描いていたとしたら、「アイルワースのモナリザ」の方が古いことになりますが、この保存状態の謎は解明できていません。

MonaLisa morph


 ん? GIFアニメの文字入れを間違えた! LisaがEisaになっている。


管理人の推理 ラファエロのデッサンの謎

 ルネッサンス期の画家としてレオナルドに匹敵する巨匠の一人にラファエロがいます。彼は、1483年に生まれ、レオナルドが亡くなった翌年、1520年に37才の若さで没しています。

 1504年、ラファエロが21才の時、彼は大都会フィレンツェに出てきます。この時、レオナルドは、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の一室を工房にしてある作品に取り組んでいました。ラファエロはレオナルドの工房を訪れ、レオナルドが執筆中だった「モナリザ」に感銘を受け、それをスケッチします。そのスケッチが下の画像です。

Raphael drawing


 お気づきのように、ラファエロのスケッチには、モナリザの両側に柱が描かれています。
 「ルーブルのモナリザ」には柱は描かれていません。「ルーブルのモナリザ」の両端が切り取られたと指摘する専門家もいましたが、厳密な調査の結果、「ルーブルのモナリザ」に切り取られた部分は確認されていません。最初から柱は描かれていなかったのです。ラファエロのスケッチと酷似しているのは「アイルワースのモナリザ」です。

 1504年、ラファエロがレオナルドの工房で見たのは、「アイルワースのモナリザ」だったことはもはや疑いの余地がありません。

 ラファエロは、この時のデッサンを基に、翌1505年頃に「一角獣を抱く貴婦人」を描いています。その構図はモナリザのデッサンと瓜二つ。人物の両側に柱が描かれています。

 二枚の絵画が如何に似ているかは下のビデオを見るとよく分かると思います(YouTubeにアップしました)。特に、二枚の絵の柱の位置に着目下さい。


 ラファエロのデッサンを見て気づいたことがもう一つあります。それは、「眉」がはっきりと描かれていること。

管理人の推理 眉毛の謎

 次に、まつげと眉の謎について考えて見ましょう。

 有名なルーブルのモナリザは幾度となく修復が施されてきました。その過程で"まつげと眉"が消えていったと考えられます。しかし、アイルワースのモナリザは有名ではなかったことから、修復はそれほど行われなかったと考えられます。それにもかかわらず、両者の特徴はとても良く似ています。"まつげと眉"が消えている点において。

 もし、アイルワースのモナリザが贋作であるとするのなら、贋作者が模写する時点ですでに見本となるまつげと眉が消えていたため、ヴァザーリの記録にある魅力的な部分を真似できなかったのではないかとも考えられます。アイルワースのモナリザが本物であるとしたら、まつげと眉はもっと鮮明に残っていなければなりません。

 次に、二枚の絵に描かれている女性の年齢差について考えて見ましょう。
 ジョコンド夫人リザは、肖像画制作当時、二人目の子供を身ごもっていました。まだ、20代前半だったのではないでしょうか。一説には24歳から27歳にかけて描かれたと言われています。
 「アイルワースのモナリザ」の年齢は何歳に見えるでしょうか。管理人には10代後半から二十歳そこそこに見えます。ルーブルのモナリザの方は40代前半、43歳くらいに見えます。平均寿命が30歳程度の中世イタリアで妊娠するにはちょっと歳がいっている感じがします。ルーブルのモナリザを見て20代と思う人は皆無でしょう。記録に残る史実と現実に見るモナリザとのギャップが大きいのが、この年齢の問題です。

 このようなことから、「アイルワースのモナリザ」はジョコンド夫人リザの肖像だったのではないかと(管理人は)考えます。

 最後に、年齢の異なる肖像画が二枚存在する理由を考えて見ます。
 上のGIFアニメを見れば分かるように、二枚の肖像はほとんどピッタリの大きさだし、顔もよく似ています。しかし、レオナルドの描く人物は、皆よく似た顔をしています。同一人物を若い頃と中年の頃の二つの年代で描いたのでしょうか。レオナルドはただでさえ遅筆な上、未完成の作品ばかりの画家です。そんなレオナルドに若い頃と中年になったリザという二枚の肖像依頼するでしょうか。特に、裕福ではあるものの名もなき商人の奥さんの肖像画ではあり得ない気がします。すると、ルーブル美術館のモナリザは、別の人物の肖像ということになります。

 しかし、二枚のモナリザは驚くほど似ています。同一人物と考える方が論理的です。何か、別の解釈はできないものでしょうか。
 
 そこで、管理人の考えたまったく別の大胆な仮説を提示しましょう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはジョコンド夫人リザに恋します。最初に彼女を描いものが「アイルワースのモナリザ」でした。しかし、レオナルドは、アイルワースのモナリザが制作途中で未完成だったにもかかわらず、依頼主の強い要求により相手に渡してしまいます。レオナルドは恋しいリザを思い浮かべながら、アイルワースのモナリザと同じもう一枚の絵を描きます。実際には、依頼主に引き渡す以前に複製画ができあがっていました。

 時は移り、レオナルドはこの複製のモナリザに手を加え続けます。それは、毎年、年を重ねていくリザをキャンバスの上に再現し続ける作業でした。その作業は、リザが43歳で亡くなるまで続きました。その肖像画が現在ルーブル美術館に展示されているモナリザです。ジョコンド夫人リザの最晩年を忠実に写しだしているのです。リザが亡くなったことで、モナリザはもう歳をとらなくなったのです。

 レオナルドは、「モナリザを依頼主に渡さず、生涯手元に置き、手を加え続けた」ということを言っている人がいますが、とてもおかしな主張です。天才レオナルドなら、いくらでも複製をつくることが可能で、描いた絵はさっさと依頼主に渡して報酬をもらったはずです。簡単に複製できるのに、なぜ、依頼主に渡さない? 渡したに決まっているじゃないですか。

 その複製(依頼主に渡した方が複製かも)に生涯、手を加え続けたと考える方が論理的です。彼が遅筆なのは色々アイディアが出てくるためで、単純な複製なら自分の絵なのでとても簡単だったでしょう。気短な依頼主は、納期を守らないレオナルドの仕事ぶりに嫌気がさし、半ば強引に未完成でも引き取ったと思います。特に、商人にとって時間は重要。タイム・イズ・マネーですから。未完成の背景など、後でレオナルド工房の別の人に描かせればいい。アイルワースのモナリザの背景が未完成なのは、制作途中で絵を依頼主が強引に引き渡しを要求したからでしょう。

 仮に、「アイルワースのモナリザ」が20代前半、ルーブル美術館のモナリザが40代で同一人物だとすると、30歳代のモナリザの肖像画は、下のようだったかも。

30代のモナリザ


 今回の番組で、ルーブルのモナリザに魅力的な"まつげと眉"があったことを知りました。ラファエロが残したモナリザのデッサンに描かれているように、もし、それを復元できたなら、モナリザはとても美しく蘇るのではないかと思います。


仮説の検証
 モナリザについて調べていくと、モデルとさているリザには様々な呼び名があることに気づきます。
 リサ・ゲラルディーニ
 リザ・デル・ジョコンド

 リザの本名は、Lisa di Antonio Maria Gherardini。 ゲラルディーニ家の娘でした。
 フランチェスコ・デル・ジョコンドという人と結婚して、リザ・デル・ジョコンドと呼ばれるようになったらしいです。

 さて、検証スタートです。


 研究データに基づいて記載することにします。リザについての調査はかなり進んでいます。
 『モナリザ』のモデルとされるリザ・ゲラルディーニ(Lisa Gherardini)が生まれたのが1479年6月15日、没したのが1542年7月15日(享年63歳)です。裕福な絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンド(Francesco del Giocondo)と結婚して、リザ・デル・ジョコンド(Lisa del Giocondo)となります。

(注:この生没年の日付がグレゴリオ暦に換算してあるかどうかは確認していません。理由は、「暦のミステリー:イギリスの1586年10月15日は何曜日か?」をご覧下さい。)

 『モナリザ』の制作開始年は、リザが次男を出産した1503年ごろだといわれています。(『レオナルドが『モナリザ』を描き始めている』という1503年10月付けの本への書き込みが見つかっている) すると、その時のリザの年齢は23〜24歳ということになります。二人目の子供を妊娠していました。

 ルーブルの『モナリザ』はどう見ても二十代に見えない。リザは5人の子供をもうけます。ルーブルの『モナリザ』に、「あと3人子供を生んで下さい」というのは無理があります。

 上の仮説では、リザが43歳で亡くなったというストーリーだったのですが、夫の死後、フィレンツェの聖ウルスラ女子修道院で、63歳で亡くなったそうです。サン・オルゾーラ(Sant'Orsola)に埋葬されたそうで、2012年に遺体の発掘調査が行われました。

 管理人の仮説が脆くも破綻しました(涙)。

 1503年、レオナルドが『モナリザ』の制作に着手したのは、彼が51歳の時でした。彼は、1506年までの4年間をかけて『モナリザ』の完成を目指しますが、未完のままに終わります。この時期のレオナルドの動きを確認しましょう。
1482年から1499年までの18年間、ミラノに滞在しています。
1499年 第二次イタリア戦争が勃発し、レオナルドはヴェネツィアへ避難します。
1500年 フィレンツェに戻ります。
1502年 フィレンツェの東に位置する海辺のチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として、イタリア中を行脚し、イーモラの開発計画となる地図を制作しました。
1503年 『モナリザ』制作開始
1504年 ラファエロがレオナルドの工房で『モナリザ』を模写
1506年 未完のまま制作終了 
1519年5月 68歳の時、弟子たちに看取られてこの世を去る。


アイルワースのモナリザの背景
 アイルワースのモナリザの背景は未完成であることは一目瞭然です。どのような背景を作者が描きたかったのか分かりませんが、背景が未完成なために、アイルワースのモナリザの評価が下がっているような気がします。

Isleworth_MonaLisa_Back.jpg


 左側の背景を見ると、水面に投影された樹木のようにも見えますが、この位置に水面があるのは明らかにおかしい。何を描きたかったのでしょうか?

 もし、アイルワースのモナリザの背景が、ルーブルのモナリザの背景と同じだったらどのような絵になるのか?
 早速作ってみました。

Isleworth_Bg_MonaLisa01.jpg


 背景が完成すると絵から受ける印象がまるで変わります。


【追記】
 Wikipediaの日本語版『モナリザ』の記述に違和感を覚える。
 リザの名前は「リザ・デル・ジョコンド」。つまり、ジョコンドの(妻の)リザということ。ところが、Wikipediaでは、「ジョコンドが次男を出産した」と書いてあってビックリ。旦那が出産したのか。
wiki_lisa3.png

 ここは、「リザが次男を出産した」と書くべきではないでしょうか。
 続く文章には、「デル・ジョコンド一家の新居引越しと次男アドレアの出産祝いだったと考えられている。」と書かれている。これって、「の佐藤家」とか、「の鈴木家」と言っているようなもの。英語だと「Of the Sato」。「デル・ジョコンド一家」って、イタリア語では言うのかなぁ? 「デ」が余計だよ。 
 と思ったのですが、以前、外人の友達が、ある人の名字について、「デル」も含めて名字だよ、と言っていたのを思い出しました。「デル・ジョコンド」で正しいのかも。とても違和感がありますが・・・。


posted by ネコ師 at 06:23 | Comment(0) | 古代の謎・歴史ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月08日

古代の謎はやはりおもしろい:ウィリアム・デートリッヒ


 ウィリアム・デートリッヒの『ピラミッド 封印された数列』を読みました。
 この小説は、フランス革命直後を舞台に、米国人の主人公がパリの賭場で入手したペンダントをめぐり、様々な冒険をするというストーリーなのですが、最後には、このペンダントを使ってクフ王のピラミッドの秘密を暴き、ピラミッドの中に入っていくという、古代の謎が大好きな人にとっては何とも面白すぎる内容になっています。

 ナポレオン・ボナパルトやネルソン提督、その他当時の実在の人物が多数登場し、ノンフィクションかと思うほどリアリティがあります。

 クフ王のピラミッド、フリーメイソン、「トト書」、フィボナッチ数列、黄金比、古代の円周率など、世界の謎がてんこ盛りの内容ですが、筋書きがしっかりしているので、読んでいてもまったく違和感を感じません。

 『ダ・ヴィンチ・コード』のダン・ブラウンの小説も面白いのですが、ウィリアム・デートリッヒの小説も負けてはいません。

 そんなわけで、続編の『ピラミッド ロゼッタの鍵』も読んでしまいました。
 これも面白い。ナポレオンの時代に自分がいるような臨場感があります。前作はエジプトが舞台でしたが、『ピラミッド ロゼッタの鍵』はシナイ半島が舞台です。
 
 失われたアーク、インディージョーンズを意識したような内容になっていますが、筋書きがしっかりしているので、安心して読めます。期待を裏切らない展開と結論になっています。

 ハリウッドで映画化されると良いのですが。無理でしょうね。スケールが大きすぎます。
 


『ピラミッド 封印された数列』 ウィリアム・デートリッヒ、村上和久訳、文藝春秋

『ピラミッド ロゼッタの鍵』ウィリアム・デートリッヒ、村上和久訳、文藝春秋

 
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